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6.春香の自問自答

 夜の静寂が、ワンルームの部屋に濃く降りていた。

 ベッドの横に立つ姿見の前で、栗原春香は無言のままジャージのチャックを下ろした。


 布が擦れる音が小さく響き、次いで脱いだ服が滑り落ちる。汗でしっとりと湿った肌が、薄い照明の下で柔らかく光っていた。引き締まった腹筋、無駄のない四肢。女性としてのしなやかさを備えながら、鍛え抜かれた肉体がそこにはあった。


 (――やっぱり、普通じゃないよね)


 裸になった上半身を鏡越しに見つめながら、春香は胸の奥でそう呟く。玲次を呼び出して話した時のことが、ふと頭をよぎった。自分の中にある「何か」が、人を傷つけてしまうかもしれないという恐れ。玲次はそれを否定せず、ただ一つの提案をくれた。


 ――セクション・セブン。そこなら誰にも文句言われず、なんでもできる。


 あの玲次が真顔で言うのだ。

 正直、怪しさも不安もあったが、それ以上に「変われるかもしれない」という淡い期待が春香を支えていた。


「……うん、明日行ってみよう」


 鏡の中の自分に小さく呟き、春香はクローゼットから私服を取り出した。動きやすさ重視の黒のスポーツレギンスに、タンクトップ、そして愛用の赤いスニーカー。どれも高校時代からの馴染み深いスタイルだ。


 布団に潜り込む頃には、身体の奥でうっすらと火が灯ったような感覚があった。長く曇っていた心に、わずかな光が差し込んでいた。

 春香は瞼を閉じながらも、どこか興奮したまま眠りについた――そのまま、夜が明けた。


* * *


 翌日――。


 セクション・セブンは、郊外の外れにあるかつて小さな産業団地だった区域にあった。

 外観は完全に廃墟だった。歪んだ鉄柵、ひび割れたコンクリート、打ち捨てられた鋼材の山。だが、春香はその荒廃の中に、何か特別な匂いを感じ取った。


「――ここが、セクション・セブン」


 玲次から教えられた通り、通用口の裏から入ると、天井には電気の通っていない工事用の大型ライト。中央には無数の鉄骨やコンクリの塊が無造作に並べられていた。ガラクタばかりだが、今の春香にはちょうどいい相手だった。


 ――やるなら、遠慮なしに本気でやってみろ。相手は壊していいものばっかりだから。


 そんな玲次のメッセージを思い出しながら、春香はゆっくりと準備運動を始めた。


 呼吸を整える。股関節、肩甲骨、足首、手首。血が巡り、筋がほぐれ、呼吸が深くなる。


 ――さあ、いこうか。


 小さく呟いた瞬間、春香の身体が弾けた。


 第一撃は、右足のローキック。太腿の筋肉が爆発的に収縮し、鋭く振り抜かれた足が、直径50センチのコンクリート柱に炸裂した。


 ドンッ!


 柱が亀裂を走らせ、鈍い音を立てて崩れ落ちる。砂埃が舞い上がった。


「……っはぁ」


 だが、春香は止まらない。回し蹴り、踵落とし、膝蹴り。鋼鉄の鉄骨にすら怯まず踏み込んだ。衝撃で鉄がひしゃげる。重機でもなければ不可能な破壊力だった。


 そのすべてが、理性にブレーキをかけない“本気”だった。大会では決して出せなかった自分。技術ではなく、純粋な“力”に任せて打ち込む。全身が火照っている。恐れも、ためらいも、どこかへ消えた。残ったのは、ただ――震えるほどの快感。


「これが……私……?」


 息を切らしながら、彼女は自分の拳を見つめる。拳の皮膚は少し赤くなっていたが、切れてもおらず、腫れもない。鉄を殴ったとは思えない。


 (おかしい)


 そう思った瞬間、背筋にぞくりとした寒気が走った。


 あの蹴りでコンクリが砕ける? 鉄骨が曲がる?

 技の精度では説明がつかない。そもそも、人間にそんな出力は不可能だ。


 しかも――今まで感じていた恐怖やためらいが、今この空間では驚くほど消えていた。


「……私、ずっと怖かったんだ。本気出したら、相手を壊すかもしれないって」


 けれど今、それを試せる相手が“無機物”であることが、彼女の足枷を外していた。誰も傷つけずに“本気”を試せる。それだけで、彼女の内側に潜んでいた獣が目を覚ましてしまった。


 荒くなる呼吸の中で、再び彼女は大きく跳ね上がった。回転しながら空中で膝を折り、重力と体重を乗せた膝蹴りを、床に向けて叩き込む。


 轟音。


 床のコンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂が走った。


 ――人間じゃない。


 自分の中の理性が、静かにそう告げていた。

 確かに、春香の技術は一流だった。けれど、これはそれを超えている。肉体の構造、反射速度、筋出力……何かが逸脱している。


 そして――それを自分自身が、恐れていたのだと気づいた。


「これが……私の“力”……?」


 これは鍛錬の果てに得た強さだけではない。この肉体に備わった別の“何か”だ。


 彼女の中で、何かが軋む音を立てて動き始めた。


 もう元には戻れない。

 けれど――それを知ってしまった以上、目を背けて生きるわけにもいかない。


 荒れ果てた倉庫の中で、汗だくの春香は、ふと天井を見上げた。


 鉄骨の合間から射し込む光が、まるで彼女を導くように差していた。


 ――力と向き合う。自分を受け入れる。


 その先にあるものが何かはまだわからない。

 けれど、今の春香はほんの少しだけ、自分を信じてみてもいいと思えた。

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