4.春香と玲次の再会
公園のベンチは静かに夜を吸っていた。曇天の空には星ひとつ見えない。風もなく、音すらない。照明は一本、黄ばんだ電球が申し訳程度に足元を照らすだけ。人気のない園内を歩く春香の足取りは、軽快そうな赤いスニーカーとは裏腹にどこかおぼつかなかった。
呼吸が妙に速い。手が汗ばんでいる。待ち合わせにこんな緊張を覚えるなんて、いつ以来だろう――と、春香は自嘲気味に肩を竦めた。
そのとき、ベンチの背に凭れるように座る男が視界に入った。黒いジャケットの裾が風に揺れている。足元には空の缶コーヒー。視線は上空、ぼんやりと雲の流れを追っていた。
「……玲次?」
声をかけると、彼はすっと視線を下ろした。その瞳には何の驚きも浮かんでいない。ただ静かに、彼女を見つめた。
「おう。久しぶりだな、春香」
変わらない声だった。低く、よく通るのに、どこか冷めた音色。けれど、それが逆に落ち着く。高校時代、いつも団体の中心にいた春香の隣で、一歩引いて支えてくれていた彼の姿が思い出される。
「ほんっとに久しぶり。ていうか老けた?」
「そっちこそ。前より髪、伸ばしたか?」
「ポニテがアイデンティティーでね。切ると負けた気になる」
軽口の応酬に、二人の間にあった数年のブランクが少しだけ縮まる。春香はベンチの端に腰を下ろし、隣にいるかつての同級生を横目で見た。
玲次の輪郭は、昔と変わらないようで、やはり変わっていた。目元の影。背負うものを知った者だけが持つ、沈黙の質。
「玲次、さ。いま何してるの?」
「ん? ちょっと人の相談乗る仕事」
曖昧な言葉だが、それ以上は聞かなかった。聞くべきじゃないような気がしたし、それよりも今夜、春香がここに来た理由は別にある。
「実はね……相談っていうか、話したいことがあって」
「そうじゃなきゃ、あんな時間にいきなり電話してこない」
春香は短く笑った。ふと、手のひらに視線を落とす。その掌が、どれだけの人を打ち倒してきたかを思い出すたび、胸の奥がざらついた。
「玲次、あたし……」
声が途切れる。公園の奥から、小さな風が一陣通り過ぎた。ポニーテールが揺れ、春香はそれを無意識に直す。
「――あたし、負けたんだ。空手の試合で」
「ほう」
「中高通してずっと無敗だったのに、あっけなく。ね、信じられる?」
「ちょっと意外。あの“無敗女王”が負けるなんて」
玲次の口元にわずかな笑みが浮かぶ。それがかえって春香の胸に刺さった。誇りだった。強さは自分のすべてだった。だからこそ、今の自分が許せない。
「……負けたっていうか、負けたくて負けたのかもしれない。試合中、ふと怖くなったんだ。……本気で蹴り入れたら、相手が死ぬかもしれないって」
震え混じりの声。玲次は黙って聞いていた。問い返しも相槌も打たず、ただ耳を傾ける。その沈黙が、春香には救いだった。
「その一瞬で全部崩れた。あたしの自信も、誇りも、空手が好きって気持ちも……」
足元に視線を落としたまま、春香はぽつりぽつりと語る。高校の部活でのこと、大学に進んでからも続けてきたこと、だが、誰にも言えなかった不安。道場の先生にも、友達にも、家族にも。誰にも見せられなかった感情が、胸の奥でじわじわと疼いた。
「玲次はさ、怖くなったことある? 自分の力が」
その問いに、玲次の瞳がわずかに揺れた。けれど、彼はその感情をすぐに沈め、わずかに首を横に振る。
「俺は、力が足りなかった側だからな」
「……?」
「ま、今度話すよ」
それ以上は語らず、玲次は立ち上がった。夜空を見上げ、春香に声を投げる。
「春香、本気ってのはな、試さないとわからない」
「……どういうこと?」
「“怖い”かもしれないって思っても、本気を出してみなきゃ、本当に危ないのか、安全なのか、何も見えてこない。今のお前は、その境界線すらわからないんじゃないか?」
春香は言葉を失った。
玲次の声には、怒りも呆れもなかった。ただ、事実を淡々と並べるような冷静さがあった。けれどそれが、何よりも胸を打った。
「今の春香には試せる場所がいるな」
「……試す?」
「自分が何者か。どこまでやれるのか。何を怖れてるのか」
春香が立ち上がる。
「試してみたい……自分の本気」
玲次はスマホを取り出し、地図を開いた。
「ここに行け。旧国道沿い、配送センターの第7倉庫。通称“セクション・セブン”。放棄された施設だが、今も中は無人。そこなら誰にも文句言われず、何でもできる」
「玲次、あんた、何者?」
思わず聞いてしまった。けれど、玲次は微笑んでこう答えた。
「ただの友達さ。昔と変わらない、おせっかいなな」
その瞬間、春香の胸に張りついていた靄が、ほんの少しだけ晴れた気がした。
「……行ってみる。そこ。試してみる」
春香の声には、わずかに熱が戻っていた。玲次はそれを確認するように、短く頷いた。
そして二人は、夜の中を歩き出した。もう会話はない。ただ、同じ歩幅で、同じ方向を見つめながら。
雲の切れ間から、わずかに星がのぞいた。誰も気づかない、わずかな光だった。