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3.祐希の日常と未来の夢

 部屋には、世界の色がなかった。


 遮光カーテンで閉ざされた窓。昼も夜もわからない。壁も天井も、古いゲームの背景のようにぼやけたグレイで統一され、唯一明滅するのは、パソコンのモニター。青白い光が、彼女の頬を薄く照らしていた。冷たい光が肌に反射し、そこに生の気配はない。ただ、マウスのクリック音と、ヘッドセットの向こう側から届く不特定多数の笑い声。それだけが、この部屋で鳴っている「現実」だった。


 ──それと、壁越しに漏れてくる、母の声。


 夜なのに。今日もまた、男が来ていた。聞き慣れてしまった、くぐもった笑い声と、ベッドの軋む音。それが始まると、祐希はヘッドセットの音量を最大にする。耳に痛みを感じても、ゲームの銃声で現実を上書きしたかった。


 ──聞こえない。聞こえない。聞こえない。


 彼女は、耳を塞がない。ただ音を殺し、無かったことにする。真正面から。逃げない代わりに、感じないようにする。


 目にかかる長い前髪が、視界の隅を絶えず曇らせていた。あたかも、見たくないものをぼかすために生えているような髪だった。現実の輪郭を淡くぼやかし、必要な部分だけを切り取って見せてくれる。


 有栖ありす祐希ゆうきの生活は、切り取られたように単調だった。朝はない。昼もない。目が覚めた時間が一日の始まりで、寝落ちが一日の終わり。ごはんは、キッチンに置かれたコンビニ弁当。電子レンジの使い方は覚えていた。母が家にいる時間は短い。いても、こちらを見ようとはしない。見たところで、「うっとうしい」とでも言われるのがオチだった。


 もう、そういうものだと思っていた。母親らしさとか、家庭とか、そういったものは、自分には最初から割り当てられていない設定なのだ、と。


 代わりに、祐希にはゲームがあった。ネットがあり、アバターがあり、居場所があった。そこでだけは「すごい」「助かった」「いてくれて良かった」と言ってもらえる。何の話もせず、過去を問われることもなく。ただプレイの腕だけで、誰かと繋がれる。


 「っち……」


 画面が暗転する。味方の連携が崩れた。ほんの一秒、タイミングがズレた。その隙を突かれ、ゲームオーバー。思わず舌打ちが漏れる。無言でロビーに戻り、時計に目をやった。


 ──そこで、何かが変わった。


* * *


 視界が、夢に切り替わる。


 モニターが消えたわけじゃない。でも、映っているのは、現実じゃなかった。


 白いトラック。交差点。小学生くらいの男の子が、青信号を見て駆け出していく。明るい日差し。通学路の風景。どこか懐かしい、でも見覚えのない景色。


 ブレーキ音が響く。


 トラックが止まりきれず、少年の背中に迫る。


 その瞬間、音も色も映像も、まるで古いビデオのように歪んでノイズにまみれ──夢が終わった。


* * *


 目が覚めたとき、祐希はデスクチェアに寄りかかっていた。背中に汗が貼りつき、心臓が少しだけ速い。


 部屋はまだ暗い。時計は朝六時を示していた。


 ──夢にしては、鮮明すぎる。


 瞼をこすりながら、手探りでリモコンを取る。テレビの電源を入れた。音量は最小。ざらついた映像が、部屋に無音の光を投げる。


 『──今朝六時前、都内の交差点で、小学生がトラックにはねられる事故が──』


 その瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねた。


 映像に映っているのは、夢で見た景色。そのままだ。トラックの色、交差点の形、少年の服の色。違いが見つからなかった。


 「……うそ、でしょ……?」


 けれど、祐希は自分の驚きに戸惑いを覚えた。驚くべきことのはずなのに、どこかで「やっぱり」と思っている自分がいた。


 ──これは、ただの偶然なのか。それとも──


 スマホの通知が震えた。ゲーム仲間からのDMだった。


 《昨日の試合、お前マジで神だったな!また組もうぜ》


 夢の記憶が、薄れていく。現実が、日常を上書きし始める。


 祐希は一度だけ深く息を吐いて、スマホを伏せた。


* * *


 ──数日後、彼女はまた夢を見た。


 ビルの屋上。高層階の縁に立つ男。スーツ姿。電話をしている。足元が少しずつ不安定に揺れている。声は聞こえないが、表情は妙に穏やかだった。


 ──落ちる。


 直感と共に、視界がフェードアウトする。


* * *


 「っ……!」


 ベッドの上で目を覚ます。心臓が速い。口の中が乾いている。スマホを取り、思考が回るより先に指が動く。


 開いたのは、SNSのアカウント。「Aliceアリス」。現実ではもう誰にも呼ばれない名前を、英語の仮面で歪めた。ここだけが、自分の中で唯一“自由”になれる場所だった。


 《夢で見た。新宿のビル、明日誰かが落ちる。スーツの男。飛び降りかもしれない》


 投稿ボタンを押した。


 すぐに反応が返る。


 《嘘乙》《未来人草》《つまんねーから通報するわ》


 心のどこかで予想していた反応だった。けれど、それでもいいと、思っていた。


 自分のなかの「なにか」が、これを誰かに伝えろと囁いていたから。


 ──でも、誰も信じない。


 それが現実だった。


* * *


 そして翌日。


 テレビの速報で、事故が報じられた。


 新宿の高層ビル。スーツ姿の男性が、屋上から転落して死亡。


 夢と同じだ。時刻も、映像も、男の特徴すらも──ほとんど完全に一致していた。


 「……マジで、これ……」


 その言葉を口にした瞬間、祐希ははじめて恐怖を感じた。


 自分が見たのは、未来だった。


 知らなくていいことを、知ってしまった。そんな気がした。


 廊下の奥から、また母の笑い声が聞こえた。男の声も混じっている。


 どこか遠くで、また現実が軋んでいた。


 祐希はヘッドセットを外した。何かが壊れそうな音が、胸の奥で響いていた。


 ──これから、どうすればいいんだろう。


 誰にも言えない未来を抱えながら、彼女は、ただ部屋の闇の中で座り込んだ。

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