2.春香の試合と葛藤
あのときと、同じだ――。
栗原春香の右足が、静かに宙を裂いた。放たれた回し蹴りは、空気を断ち切る音を残して、わずかに軌道を外れ、敵の顔面の手前で止まる。
ほんの一瞬。だが、それだけで勝敗は決した。
「――一本!」
乾いた声が響いた瞬間、春香の腹にめり込んだ中段突きの衝撃が、遅れて意識に届く。折り畳まれるように身体がよろめき、膝を落としかける。
(……あたしの方が、速かったはずなのに)
それでも礼をする。顔を伏せながら、勝者に、審判に、観客に。形式的な動きは身体が覚えている。だが心は、そこにいなかった。
春香の耳に、周囲のざわめきや歓声は届かない。自分の鼓動だけが、やけに大きく鳴っている。
腹に残った痛みよりも――その痛みを“受ける選択”をしたことが、何よりも春香の胸を刺していた。
大学武道館の控室。壁掛け時計がカチリ、と音を立てるたび、時間が皮膚を切り刻んでいくようだった。
道着の帯をほどきながら、春香は無言だった。他の選手たちも、彼女には声をかけない。かつての“絶対女王”が負けたことへの戸惑い。あるいは、“負けたこと”以上に、彼女の放った蹴りが「わざと外れた」ことへの違和感。それらが複雑に空間を歪ませていた。
春香自身にも、それが分かっていた。誰かに責められたいわけじゃない。ただ――
(何やってんだよ、あたし……)
ジャージのチャックを乱暴に引き上げ、バッグに帯をしまいながら、奥歯をかみ締めた。怒りの矛先はいつも、自分自身だ。
あの蹴りは当たっていた。たとえガードされても、体勢は崩せた。勝ちにいけた。なのに――なのに、脚は止まった。
躊躇いがあった。ほんの一瞬、脳裏に“あの日”の映像がよぎったから。
――前回の大会決勝戦。
相手はインターハイでも上位に食い込む猛者だった。実力も、覚悟も本物で、春香は胸を高鳴らせて試合に臨んだ。
最終ラウンド。互いに譲らぬ攻防の末、春香が放ったのは、得意の後ろ回し蹴り。足首、膝、腰、肩、すべての力を一本に繋げた渾身の一撃だった。
その瞬間、時間が止まったかのようだった。蹴りが相手の側頭部に直撃する音と、倒れた相手がぴくりとも動かない光景。秒針の音が、はっきりと会場に響いていた。
「……担架!」
叫び声とともに医療班が駆け寄る。春香の全身が冷えきっていく。
意識混濁、脳震盪、頸椎損傷の疑い。相手は一週間入院し、今も競技からは遠ざかっていると聞いた。
(――あたしは、人を殺しかけたんだ)
それ以来、本気が怖くなった。全力で蹴るたびに、あの感触が蘇る。自分の身体が武器であるという現実が、春香を縛りつけていた。
会場を出たのは、誰よりも早かった。
大学構内の歩道を一人歩く。夕暮れの曇天が、風景から色を奪っていた。街灯はまだ灯っていない。薄闇のなかで、春香の赤いスニーカーだけがひときわ浮いて見えた。
(勝ちたかったんじゃない。だけど、逃げたくもなかった)
感情がぐるぐると渦を巻く。
自分は強い――それは事実だ。でもその強さを、人のために使うでもなく、自分のために使うこともできない。ただ怯え、封じ込め、今日もまた、戦わずして負けた。
ベンチに腰を下ろす。バッグを足元に置き、スマホを手に取った。手汗で画面が曇る。
連絡先を開く。親でも、コーチでもない。“あの人”の名前を探す。
「……氷川玲次」
高校の頃、同じ空手部だったわけじゃない。けれど、春香が全国大会で名を上げ始めた頃から、どこか自然と話すようになった男子だった。気取らず、恐れず、何より“ビビらなかった”。
大抵の男子は、春香の強さに距離を取るか、勝手にヒーロー視してくる。だが玲次だけは、彼女の強さをひとつの要素として受け止め、軽口も、相談も、真面目な話も、すべてフラットに応じてくれた。
(……あんたなら、何て言うんだろうな)
指先が、震える。
通話ボタンに触れかけては引っ込め、また触れて、引く。
いっそ蹴り飛ばしてしまいたくなるような迷いの末に、ようやく春香は、画面をタップした。
コール音が鳴る。心臓が、試合より速く打っている。
――もし出なかったら、それでいい。出たら、それも縁だ。
「……あ、もしもし」
声が繋がった瞬間、春香の胸にあった緊張の糸が、ひとつ切れた。
「急にごめん。ちょっと……話したいことがあってさ」
言葉はぎこちなく、それでも確かだった。
電話の向こうから、懐かしい、少し眠たげな、それでいて芯のある声が返ってくる。
「……おう。どうした、伝説の女王さま?」
春香は、思わず小さく笑った。
その瞬間、試合後からずっと胸に渦巻いていた灰色の虚無感が、少しだけ晴れた気がした。