16.新しいわたし
午後の陽が、ビルの隙間を縫って街に降り注いでいた。
差し込む光は地面に影を刻みながらも、どこかやわらかく、冷たさよりもぬくもりを帯びている。それは、ただの天気のせいではなかった。
西口の商店街を抜け、小さな公園へと続く緩やかな坂道。
その途中で、有栖祐希はふと足を止めた。
淡い黄色のワンピースの裾が、初夏の風にさらさらと揺れる。
額に滲んだ汗を、手の甲でそっと拭う。見上げた視線の先に広がっていたのは、木立に囲まれた広場と、先に到着していた二人の姿だった。
栗原春香が鉄棒にもたれ、氷川玲次と何か話している。
笑っていた。ほんの少し、力を抜いたような柔らかな笑顔。
――こんな穏やかな場所が、この世界にあったなんて。
祐希は、知らなかった。
自分に、その一角に加わる資格があるのかと、一瞬、心がためらいに揺れる。
けれど、身体は自然と前へ進んでいた。
小さく深呼吸をひとつ。そうして、祐希はゆっくりと坂を降りていく。
「おっ、来た来た!」
明るく弾ける声に、足が止まる。
ポニーテールを揺らして春香が駆け寄ってくる。迷いなど一切ない歩幅。思わず祐希は半歩、後ずさった。
「祐希ちゃん……ううん、“アリスちゃん”って呼んでもいいかな? その方が、なんかしっくりくるんだよね」
「……アリス?」
不意の名に眉をひそめる祐希に、春香は屈託なく笑う。
「うん! その名前で、私たちのところに辿り着いたんだもん。祐希ちゃんに、ぴったりでしょ?」
そう言って春香は、子どもの手を引くように、祐希をベンチまで連れていった。
そこにいた玲次が、静かに立ち上がる。
真っ直ぐに祐希を見据えながら、短く頷いた。
「来てくれて、ありがとう。……早速だが話がある」
玲次の声は落ち着いていた。だがその内側に、微かな緊張が滲んでいた。
それは、祐希の胸の奥で、微かな灯をともす温度を持っていた。
「本部に話を通した。お前たち二人を、“GIFT HOLDERS”の正式なメンバーとして迎え入れる」
一息ついて、玲次は続ける。
「……それだけじゃない。俺が、“第八班“ーー新しい班の新設を任されることになった。班長は俺。そして、最初のメンバーがお前たち二人だ」
風が、木々の間をすり抜けていった。光が揺れ、葉擦れの音が静かに響く。
「もし、よければ。一緒にやっていきたい」
その言葉は、命令でも、強要でもなかった。
ただまっすぐで、誠実で、だからこそ心の奥に静かに残った。
「もちろんだよ、玲次。私は最初っからそのつもり」
春香がすぐに応じる。迷いのかけらもない笑顔が、陽差しのように場を照らした。
「玲次と、アリスちゃんとなら、どこまでもいける気がする」
その明るさは、芯の強さに裏打ちされている――祐希は、そう思った。
玲次の視線が、次は祐希に向く。
その視線に触れた瞬間、胸の奥がざわめいた。
――冷たい部屋の記憶が、まだ消えずにいる。
愛される価値などないと思い込んでいた過去が、今の言葉を遮る。
だけど、違う。
――この人たちは、あの場所にはいない。
春香の手の温もり。玲次のまなざし。
それらが、祐希の中にあった闇を、少しずつ上書きしていく。
祐希は俯き、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。
そして、小さな声で、それでも確かな意思を込めて言った。
「……あなたたち二人と一緒なら、どこにでもいくよ」
玲次は目を細め、ポケットから小さな布の袋を取り出す。
「お前、いつも前髪で目を隠してただろ」
「……うん」
「そいつで、ちゃんと留めてみろ。前向いて、歩けるようにな」
手渡されたのは、黄色い花の髪飾りだった。
やわらかな布の感触が、指先にそっと触れる。
それだけで、胸の奥にじんわりとした温もりが差し込んだ。
祐希は、ゆっくりと顔を伏せる。
震える指先で、おでこにかかる前髪をかき上げると、世界の輪郭がほんの少し変わった気がした。
いつもなら視界の端に垂れ下がっていた黒いカーテンが払われる。
額に光が触れる。
風が、肌を撫でて通り抜ける。
ほんのそれだけのことなのに、祐希は、まるで自分の心が透明になっていくような感覚を覚えた。
そして、髪飾りをそっとつける。
――カチッ。
その小さな音が、不思議なほど胸に響いた。
世界が、祐希の目の前で静かにその姿を変え始める。
木々の緑が、にじまず鮮やかに映った。
空の青が、深く深く、自分の奥底にまで差し込んでくる。
春香の笑顔が、玲次の瞳の揺らぎが、まっすぐに見える。
視界が開ける。それは単なる“見える”という感覚ではない。
世界と、自分とのあいだに横たわっていた、目に見えない薄い膜が――ひとつ、剥がれ落ちた。
ああ、こんなにも――この世界は、美しかったのか。
思わず息を呑んだ。
「……うわ、祐希……じゃなくて、アリスちゃん、目がクリクリでめっちゃ可愛いじゃん!」
春香が歓声を上げる。
「えっ……」
「ほんっと可愛い! その髪飾り、めちゃくちゃ似合ってるし!」
祐希の頬が、ぱっと赤くなる。
体の奥からふわりと熱が湧き上がり、くすぐったいような気持ちで思わず目を伏せた。
玲次が、肩の力を抜くように笑う。
「顔、真っ赤だぞ」
「……うるさい」
祐希の言葉は小さく、それでもどこか嬉しそうだった。
三人は並んで歩き出す。
夕陽が、背中をあたたかく押してくれるようだった。
春香が笑い、玲次がそれに応じる。
祐希は少し後ろから、その二人の背中を見つめていた。
(春香さんは、私の背中を押してくれる。玲次さんは、私を現実に向き合わせてくれた。……なんだか、お母さんとお父さん、みたいだ)
――絶対に口には出さないけど。
夕焼けのオレンジが、三人の影を静かにひとつに繋いでいく。
その中で、祐希――いや、“アリス”は静かに思った。
(これが、第八班の……ううん、私の新しい家族のはじまりなんだ)
誰もいなかった場所に、今、確かな絆が芽生えた。
それは、あたたかく、静かに、力強かった。
彼女の歩幅が、少しだけ大きくなる。
そして三人は、同じ夕陽を背に受けながら、
未来へと向かって、歩き出した。