表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/17

16.新しいわたし

 午後の陽が、ビルの隙間を縫って街に降り注いでいた。

 差し込む光は地面に影を刻みながらも、どこかやわらかく、冷たさよりもぬくもりを帯びている。それは、ただの天気のせいではなかった。


 西口の商店街を抜け、小さな公園へと続く緩やかな坂道。

 その途中で、有栖祐希はふと足を止めた。


 淡い黄色のワンピースの裾が、初夏の風にさらさらと揺れる。

 額に滲んだ汗を、手の甲でそっと拭う。見上げた視線の先に広がっていたのは、木立に囲まれた広場と、先に到着していた二人の姿だった。


 栗原春香が鉄棒にもたれ、氷川玲次と何か話している。

 笑っていた。ほんの少し、力を抜いたような柔らかな笑顔。


 ――こんな穏やかな場所が、この世界にあったなんて。


 祐希は、知らなかった。

 自分に、その一角に加わる資格があるのかと、一瞬、心がためらいに揺れる。


 けれど、身体は自然と前へ進んでいた。

 小さく深呼吸をひとつ。そうして、祐希はゆっくりと坂を降りていく。


「おっ、来た来た!」


 明るく弾ける声に、足が止まる。

 ポニーテールを揺らして春香が駆け寄ってくる。迷いなど一切ない歩幅。思わず祐希は半歩、後ずさった。


「祐希ちゃん……ううん、“アリスちゃん”って呼んでもいいかな? その方が、なんかしっくりくるんだよね」


「……アリス?」


 不意の名に眉をひそめる祐希に、春香は屈託なく笑う。


「うん! その名前で、私たちのところに辿り着いたんだもん。祐希ちゃんに、ぴったりでしょ?」


 そう言って春香は、子どもの手を引くように、祐希をベンチまで連れていった。


 そこにいた玲次が、静かに立ち上がる。

 真っ直ぐに祐希を見据えながら、短く頷いた。


「来てくれて、ありがとう。……早速だが話がある」


 玲次の声は落ち着いていた。だがその内側に、微かな緊張が滲んでいた。

 それは、祐希の胸の奥で、微かな灯をともす温度を持っていた。


「本部に話を通した。お前たち二人を、“GIFT HOLDERS”の正式なメンバーとして迎え入れる」


 一息ついて、玲次は続ける。


「……それだけじゃない。俺が、“第八班“ーー新しい班の新設を任されることになった。班長は俺。そして、最初のメンバーがお前たち二人だ」


 風が、木々の間をすり抜けていった。光が揺れ、葉擦れの音が静かに響く。


「もし、よければ。一緒にやっていきたい」


 その言葉は、命令でも、強要でもなかった。

 ただまっすぐで、誠実で、だからこそ心の奥に静かに残った。


「もちろんだよ、玲次。私は最初っからそのつもり」


 春香がすぐに応じる。迷いのかけらもない笑顔が、陽差しのように場を照らした。


「玲次と、アリスちゃんとなら、どこまでもいける気がする」


 その明るさは、芯の強さに裏打ちされている――祐希は、そう思った。


 玲次の視線が、次は祐希に向く。

 その視線に触れた瞬間、胸の奥がざわめいた。


 ――冷たい部屋の記憶が、まだ消えずにいる。


 愛される価値などないと思い込んでいた過去が、今の言葉を遮る。


 だけど、違う。


 ――この人たちは、あの場所にはいない。


 春香の手の温もり。玲次のまなざし。

 それらが、祐希の中にあった闇を、少しずつ上書きしていく。


 祐希は俯き、固く握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。

 そして、小さな声で、それでも確かな意思を込めて言った。


「……あなたたち二人と一緒なら、どこにでもいくよ」


 玲次は目を細め、ポケットから小さな布の袋を取り出す。


「お前、いつも前髪で目を隠してただろ」


「……うん」


「そいつで、ちゃんと留めてみろ。前向いて、歩けるようにな」


 手渡されたのは、黄色い花の髪飾りだった。

 やわらかな布の感触が、指先にそっと触れる。

 それだけで、胸の奥にじんわりとした温もりが差し込んだ。


 祐希は、ゆっくりと顔を伏せる。

 震える指先で、おでこにかかる前髪をかき上げると、世界の輪郭がほんの少し変わった気がした。


 いつもなら視界の端に垂れ下がっていた黒いカーテンが払われる。

 額に光が触れる。

 風が、肌を撫でて通り抜ける。

 ほんのそれだけのことなのに、祐希は、まるで自分の心が透明になっていくような感覚を覚えた。


 そして、髪飾りをそっとつける。


 ――カチッ。


 その小さな音が、不思議なほど胸に響いた。

 世界が、祐希の目の前で静かにその姿を変え始める。


 木々の緑が、にじまず鮮やかに映った。

 空の青が、深く深く、自分の奥底にまで差し込んでくる。

 春香の笑顔が、玲次の瞳の揺らぎが、まっすぐに見える。


 視界が開ける。それは単なる“見える”という感覚ではない。

 世界と、自分とのあいだに横たわっていた、目に見えない薄い膜が――ひとつ、剥がれ落ちた。


 ああ、こんなにも――この世界は、美しかったのか。


 思わず息を呑んだ。


「……うわ、祐希……じゃなくて、アリスちゃん、目がクリクリでめっちゃ可愛いじゃん!」


 春香が歓声を上げる。


「えっ……」


「ほんっと可愛い! その髪飾り、めちゃくちゃ似合ってるし!」


 祐希の頬が、ぱっと赤くなる。

 体の奥からふわりと熱が湧き上がり、くすぐったいような気持ちで思わず目を伏せた。


 玲次が、肩の力を抜くように笑う。


「顔、真っ赤だぞ」


「……うるさい」


 祐希の言葉は小さく、それでもどこか嬉しそうだった。


 三人は並んで歩き出す。

 夕陽が、背中をあたたかく押してくれるようだった。


 春香が笑い、玲次がそれに応じる。

 祐希は少し後ろから、その二人の背中を見つめていた。


(春香さんは、私の背中を押してくれる。玲次さんは、私を現実に向き合わせてくれた。……なんだか、お母さんとお父さん、みたいだ)


 ――絶対に口には出さないけど。


 夕焼けのオレンジが、三人の影を静かにひとつに繋いでいく。


 その中で、祐希――いや、“アリス”は静かに思った。


(これが、第八班の……ううん、私の新しい家族のはじまりなんだ)


 誰もいなかった場所に、今、確かな絆が芽生えた。

 それは、あたたかく、静かに、力強かった。


 彼女の歩幅が、少しだけ大きくなる。


 そして三人は、同じ夕陽を背に受けながら、

 未来へと向かって、歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ