15.総長からの指令
――翌日
GIFT HOLDERS本部、その最上階。
廊下の突き当たりにある重厚な扉の前で、氷川玲次は立ち止まった。
――総長室。
この場所に呼び出されることは、そう頻繁にはない。
任務の報告や幹部会議ですら、澄野は自ら降りてくることの方が多かった。わざわざ「来い」と呼びつけるのは、何かが動く兆しであり、時としてそれは粛清と等しい。
玲次は胸元で拳を握り、深く息を吸った。
そして扉を、静かに叩く。
「……入れ」
その声は低く、かすれ、まるで眠りから目覚めたばかりのようだった。
重たい扉を押し開けると、そこには外の空気とは一線を画す、静謐な空間が広がっていた。
壁一面を占めるガラス越しに、鈍い灰色の雲がゆっくりと流れている。冷たい光が室内に満ち、ソファに体を預けた男の輪郭を、まるで薄墨でなぞったようにぼやかしていた。
黒いジャケットを脱ぎ、シャツの襟元を緩めたまま。
片手にはコーヒーカップ、もう一方の手には、タブレット端末。
――澄野。GIFT HOLDERS総長。
年齢はまだ二十代後半。風貌も言動も、誰もが思い描く“組織の頂点”とは程遠い。
だが、彼こそがこの組織を統べ、裏も表も見通す男だった。
玲次は無言のまま、ソファの前に立った。
「悪いな。呼びつけて」
澄野はタブレットに目を落としたまま、玲次の存在に対して過不足なく声を掛けた。
「いえ。ご用件を伺います」
玲次の返答は、自然と張り詰めたものになっていた。
無理もない。この空気、この静寂、そして総長室という空間の意味。
澄野はカップに口をつけ、一口飲んだ後、タブレットを膝の上に伏せた。
「……単刀直入に言う」
視線がようやく、玲次と交差した。
「制圧班を降りろ」
言葉が、ナイフのように胸に突き刺さった。
「……っ」
一瞬、意味を正しく理解できなかった。
何かの比喩か、あるいは間違いかとすら思った。だが、総長の瞳はいつも通り、感情の読めない色をしていた。
「理由を……伺っても?」
声は静かだったが、内心には波紋が走っていた。
自分の判断が何か問題を起こしたのか。部下に不満が出ていたのか。あるいは――祐希を守ろうとした会議でのあの発言が、感情的になりすぎたのか。
「誤解すんな。これは降格じゃない」
澄野はそう言うと、背もたれに深く体を預けた。
「新しく班を作る。第八班だ。そこの班長を……お前にやってほしい」
沈黙が落ちた。
玲次の思考が、一瞬止まった。
「……新設、ですか」
「そうだ」
総長は腕を組み、天井を見上げるようにして続けた。
「ここまで七つの班で回してきたが……正直、足りねえ。能力者の犯罪も、裏の動きも、今や俺らの読みを超えてる。情報の伝達じゃ追いつかない。命令が届いた時には、もう遅い。お前も、感じてたろ」
「はい……何度も、現場で限界を痛感しました」
玲次はそう言いながら、一人の少女を頭に浮かべていた。
少女――祐希は、小さな体で震えながら未来を語っていた。
誰よりも早く情報を手にし、しかし自分だけではどうすることもできない少女。
誰も信じようとしない中、自分だけが、あの力に可能性を見出した。
「第八班は、他の班とは違う」
澄野の声が、現実に引き戻した。
「報告も命令も不要。お前の判断で動いていい。本部からの干渉も、最小限にする。言うなれば、“遊撃班”だ」
玲次は目を見開いた。
「……つまり、完全な現場主導、ですか?」
「ああ。戦場で必要な情報を、お前の目と足で直接拾って、動け。外部の協力者を使っても構わねえ。人選も、任務も、お前が決めろ」
しばしの間、言葉が出なかった。
これが、何を意味するのか――玲次には痛いほどわかった。
それは同時に「認められた」という証でもあった。
「これは……あの子の力を、試されている、と受け取ってよろしいですか?」
玲次の声に、わずかに熱が混じった。
「有栖祐希」
澄野は、目を細めた。名前を呼ばずとも、通じていた。
「お前がその子の力を信じてるのは、わかってる。俺も、完全には否定してない。ただ――現場で結果を出さなきゃ、誰も納得しねぇ」
「……はい」
「なら、お前に場を与える。第八班って看板は、そのための道具だ。好きに使え」
玲次は小さく、息を吐いた。
あの力を、あの希望を。
誰の目にも証明できる形で、突きつける。
反論が出ないように実績で黙らせろ、そういう事だ。
「ありがとうございます」
玲次は、深く頭を下げた。
「その代わり、言っとくぞ」
澄野の声色が、一瞬だけ鋭くなった。
「結果が出なけりゃ、すべて“氷川玲次の暴走”だ。肩書きも、立場も、命も、守ってやれねえ」
その言葉には、澄野なりの信頼と厳しさが込められていた。
玲次は真正面から、その視線を受け止めた。
「構いません。その覚悟で、受けます」
静かに、だが確かに言った。
その瞬間、窓の外で雲が割れ、わずかな光が差し込んだ。
澄野が、口の端だけで微かに笑った。
「……いい顔になったな、玲次。じゃあ行け。今日からお前は“自由”だ」
玲次は敬礼もせず、ただ深く頭を下げて背を向けた。
その背中には、確かな決意と――風が吹いていた。
エレベーターに乗る直前、玲次は携帯を取り出した。
通話履歴の中から、ある番号を見つめる。
未来を見通す少女――有栖祐希。
そして、もう一人――。
彼は思い浮かべる。かつて空手で無敗を誇った、己の拳を恐れ、力を封じようとした強き人。
栗原春香。
彼女の力も、必要になる。
玲次は、静かに指を動かした。
すべては、ここから始まる。
GIFT HOLDERS第八班――。
その設立が、いま静かに幕を開けた。




