12.過去を乗り越えて
鉄骨の軋む音が、地鳴りのように空気を震わせた。マンションの一角がゆっくりと傾き、夕陽に照らされた壁面に長く裂け目が走る。
「っ、来た!」
春香は息を呑んで駆け出しかけた、そのとき――
『ひとり、残ってる!』
イヤホン越しに、祐希の声が割り込んできた。切迫した声。情報管理室に詰めている彼女は、現場カメラと住民データを照合し続けていたはずだ。
『最上階、左端のユニット。小学校低学年くらいの女の子。最後のひとり!』
一拍の沈黙のあと、別の声が無線に入った。冷静で落ち着いた、玲次の声だ。
『春香、行けるか』
「了解っ! 一番上ね!」
春香はコンクリートに爪先を叩きつけるように蹴り、躊躇なく階段を駆け上がる。エレベーターは停止、非常灯だけが薄ぼんやりと赤く灯る中、空気が濃密に淀んでいた。建物全体が、ゆっくりと呻くように震えている。
『付近のカメラが落ちた。部屋は暗いはず、気をつけて』
祐希の声が再び届く。切羽詰まった音調――情報処理室にいても、祐希の中で何かが響いているのがわかった。
春香は廊下を突き進み、最後のドアを肩で押し開けた。中は家具が散乱し、壁にひびが入っている。足元にガラス片が転がるなか、部屋の隅――
春香はすぐに目を凝らした。クローゼットの扉がわずかに揺れている。
「いるの……? 大丈夫、怖くないよ」
扉を開けると、丸くなっていた少女が怯えた目でこちらを見上げた。頬は涙と埃で汚れ、声も出せないほど震えていた。
「……行こう!」
ためらわず、春香は少女を背中に抱えるように担ぎ、部屋を飛び出した。小さな手が、ぎゅっと首にしがみつく。
そのとき――床が、鳴った。
「……ッ!」
ほんの一拍遅れて、廊下の先で天井が崩れ落ちた。煙と砂埃が渦を巻く。光を遮った暗闇の中、春香は少女を抱きかかえたまま、迷わず階段へと駆け出した。
「絶対、絶対大丈夫だからね……!」
自分に言い聞かせるように叫びながら、階段に足をかける。
――だが、崩落の衝撃で段差は割れ、ところどころが傾いでいる。ふつうに駆け下りることすら困難な状況だった。
だが春香の身体は、空手で鍛えた反射と体幹をまるで本能のように活かしていた。
狭い段差を一気に飛び越え、壁に手をついて体重を逃し、足裏で次の着地点をたしかに捉える。
少女をかばうように上体を低く保ちつつ、手すりや壁面を支点に、跳ねるように落ちていく――段差を一段ずつ下りるのではない。空間を滑るように移動する。
その動きは、鍛え上げられた脚力と平衡感覚がなければ成立しないものだった。
『その先、天井が崩落して通行不能! 右、右です! 踊り場の先に迂回できる階段あります!』
祐希の声が耳元で響く。春香は視線だけで状況を確認すると、すぐさま身体をひねり、指示された右手側へと跳躍する。
踊り場の縁に片足で着地、すぐに反動を活かして次の階段へ飛び込む。
まるで戦場のような階段を、彼女は一分の乱れもなく駆け下りていく――重力を“落下”ではなく“推進力”として使うかのように。
上から落ちてきた瓦礫が肩をかすめたが、春香の動きは止まらなかった。
風のように、雷のように、春香は駆けた。
そして――ついに、最下階。出入り口が見えた。
玲次が立っていた。マンションの外壁を背に、両手を広げたまま構えている。目元に冷気が漂っていた。氷霧のようなそれは、彼の能力で床と柱の接合部を凍結させ、崩落の連鎖をわずかでも遅らせようとしていた。凍てついた空気が、建物の末端にしがみつくように広がってゆく。
「行け!」
「っ、玲次!」
玲次は返事をしない。ただ、短くうなずいた。
春香は少女をかばいながら地面に飛び出す。
その瞬間――
背後で爆ぜるような破裂音が響き、ついで鉄骨がねじれる重低音が空気を切り裂いた。
「っ――!」
反射的に振り返ると、彼女が今、飛び出してきたばかりの出入り口が、崩れ落ちた瓦礫に塞がれていくのが見えた。
柱が斜めに傾き、粉塵にまみれたコンクリート片が連鎖的に崩落し、まるで断ち切るようにその隙間を閉じていく。
――閉ざされた。
少女が泣きじゃくっているのが、ようやく聞こえた。
「大丈夫、大丈夫だから……!」
優しく背をさすりながら、春香は安堵と共にその場に膝をついた。
だが――その時だった。
「……祐希ちゃんがいない!?」
春香の顔が青ざめる。あの子は、情報管理室に残ったまま――!
* * *
祐希はモニターの前で硬直していた。
画面には警告の赤い文字。天井のカメラが落ちた。振動で映像が乱れ、モニターに「信号なし」の表示が次々と並ぶ。わかってはいた、崩落までの時間。けれど。
(まだ、もうちょっと……)
たったひとり、逃げ遅れた少女を春香が抱えて脱出している。それを最後まで誘導しなければという使命感。それに集中しすぎて、自分の退避のタイミングを失っていた。
がたり、と何かが落ちる音。はっと我に返る。
(……まずい)
立ち上がろうとした瞬間、足元が大きく揺れた。バランスを崩し、祐希は椅子ごと倒れ込んだ。
「――きゃっ……!」
腕に血がにじむ。身体が震えている。けれど、涙は出なかった。
(……死ぬのかな、こんなところで)
ふと、あの夢のことが浮かんだ。マンションが崩落し人々が下敷きになる、あの不確かな光景が。
怖くて、目を閉じた――そのとき。
「祐希! 聞こえるか!」
その声が、室内に響いた。
がちゃ、と扉が開かれる。粉塵の中から、玲次が現れた。右腕には氷の装甲。左手を大きく伸ばし、祐希へと差し出している。
「立てるか!」
「……玲次……さん……?」
祐希の瞳が、震えた。夢の中では、いつも一人。でも――今は。
玲次は言った。
「お前は、絶対に死なせない」
迷いはなかった。力強いその声に、祐希の手が伸びる。震える指先が、玲次の掌に触れた瞬間――引き寄せられるように、彼の腕に抱き上げられた。
冷気が、祐希の頬をかすめる。足元の床が凍り、崩落の重みにほんのわずか抗っている。玲次はその氷面を滑るように駆け抜け、祐希を抱えたまま、階段ではなく窓際へと向かった。
二階。情報管理室はまだ地上に近く、入り口が塞がれても、窓からなら飛び降りて逃げることができる――
「しっかり掴まってろ!」
一瞬の静寂のあと、玲次は窓ガラスを蹴破り、祐希を抱えたまま地上へと飛び降りた。
衝撃と同時に、背後でマンションが崩れる。爆音のような轟音が、地を揺るがす。
* * *
「祐希ちゃん!」
春香が駆け寄った。泥まみれの服、震える指先。けれど、祐希は生きている。その目に、涙があった。
「……助かった……の?」
「あんた、ほんっとバカ! 次からは自分の命もちゃんと考えて動きなさい!」
春香はそう言いながら、祐希の背を軽く叩いた。叱るような声、それでもそこには、優しさがあった。
「……うん……ごめん」
ようやく絞り出すように祐希が言ったとき、玲次は空を見上げた。
夕陽の赤が、ゆっくりと夜に溶けてゆく。
――誰一人、死なせなかった。
玲次の指先に残る冷気が、確かな誓いのように消えていった。




