11.未来を変えるために
マンションは、夕日に焼かれて赤く染まっていた。外観は整っているように見えたが、そこに潜む崩壊の兆しを、氷川玲次は見逃さなかった。
道路を挟んだ向かいの歩道に立ち、玲次はふうと小さく息を吐く。
「――やるぞ」
傍らの春香が頷いた。ポニーテールが揺れる。
祐希はその隣で、小刻みに手を握ったり開いたりしていた。顔を上げきれず、長い前髪が頬をかすめて揺れている。マンションを見据えるその瞳は、不安に曇っていた。
「本当に……ここが崩れるのかな」
不安と自責が入り混じった声だった。
「視えたんだろ?」
玲次は低い声で返す。
「なら、信じる。それが未来を変える唯一の鍵だ」
その確信に満ちた言葉に、祐希はわずかに目を見開いた。前髪の陰から覗くその表情に、一瞬、幼い安堵が浮かぶ。初めて、自分の力を真っ直ぐに受け止めてくれる大人の声を聞いた気がした。
玲次は静かに前へ進むと、左手をゆっくりと空気中にかざす。
「……『視せろ』」
空気が冷えた。瞬間、玲次の手から白い霧のような冷気がふわりと広がり、マンションの表面を包んでいく。
冷気は目に見えない傷を視覚化し、コンクリートのあちこちに青白く浮かび上がる亀裂を描き出した。
「何それ……玲次の能力?」
春香が驚きと共に口を開く。
「ああ。冷気で応力の偏りを可視化してる。こうすると、普段は見えない微細な亀裂も現れるんだ。……この様子だと、崩れるのは時間の問題だな」
祐希も息をのんだ。
「夢で見た崩れる場所……そこだ。ぴったり一致してる」
玲次は頷いた。
「なら、時間がない。春香、おまえは上の方から避難を」
「任せて!」
春香は赤いスニーカーで地面を蹴ると、マンションの外階段へと駆け出した。まるで跳ねるようなスピードだった。
「祐希、おまえはどう動ける?」
「私は……セキュリティとか管理システムとか、触れればたぶんいじれる。非常放送も使えるかも」
「よし、管理室の入り口はここだ。俺が鍵を凍らせて破壊する。中に入って放送を頼む」
玲次が冷気を指先に集中させて錠前を凍らせ、靴のかかとで蹴り破ると、重い扉が開いた。
祐希は一瞬躊躇したが、意を決し中へと飛び込んだ。
管理室の中は薄暗く、電子機器のパネルとモニターが鈍く光っていた。
祐希は端末の前に座り、手早くUSBケーブルで自前のデバイスを接続した。
「ログインバイパス……セキュリティ、制御権限……」
彼女の指が滑るようにキーボードを叩く。ほどなくして、複数の監視カメラ映像とシステムの一覧が画面に展開された。
「独学だから不安だったけど……なんとかなりそう……」
ほどなくして、マンション中にアナウンスが響く。
『こちら非常放送です。全住人の方に避難をお願い致します。建物に異常が確認されました。繰り返します……』
声は機械合成のものだったが、内容は祐希が打ち込んだものだった。
その間にも、玲次は周囲の住人に声をかけ始めた。
「すみません、少しお時間を。念のため避難をお願いしたい」
「何かあったのか?」
「マンションの構造に異常が確認されました。私たちは建物調査の者です。迅速な避難にご協力を」
手早く身分証らしきものを見せながら、玲次は理路整然と説明して回った。
住人たちは半信半疑ながら、緊迫した玲次の声と表情に圧されるように、次々と外へと出てきた。
一方、春香は上階で、ドアを片っ端からノックしていた。
「すみませーん! 緊急です、避難をお願いします!」
ある部屋の扉が少しだけ開き、中から老婆が顔を覗かせた。
「なにごと?」
「構造の異常が見つかりました。危険です。私が支えますから、ゆっくりでいいので……ほら」
春香は老婆の手を取り、ゆっくりと階段へ誘導する。踊り場の窓から見える空はすでに赤く染まり、影が長く伸びていた。
その頃、管理室では祐希が複数の監視カメラ映像とセキュリティ回路を睨んでいた。長い前髪が再び顔にかかるが、それを払う暇も惜しんで、彼女の視線は画面に釘付けになっていた。
「……非常階段に人が集中してる。三階と五階で詰まる。非常ベルは逆効果……フロアごとに分けるしかない」
モニターの脇に並んだ音声案内のテンプレート群に、祐希は手を伸ばした。無機質な警告文を、ひとつひとつ打ち換えていく。
「マップを俯瞰して遠隔指示……ゲームで慣れてるし……。うん、大丈夫……できる」
自分に言い聞かせるような声。だがその瞳には、これまでにない静かな意志の光が宿っていた。
――案内放送、個別モード起動。
彼女の指が最後のキーを押し込んだ瞬間、館内に合成音声が響き渡った。
『西側非常階段をご利用ください。東側は混雑しています。』
『南東側通路から非常口へ向かってください。踊り場にご注意ください。』
『北階段が開放されています。高齢者やお子様連れの方優先でこちらをご利用ください。』
フロアごとにタイミングをずらし、誘導内容も調整されていた。
一定の間隔で繰り返されるその放送に従って、建物内の避難は、目に見えてスムーズになっていく。
祐希は僅かに息をついた。だが、その瞬間――。
その時、視界が揺れた。
立っているはずの祐希の意識が、一瞬浮き上がったように感覚を失い――次の瞬間、彼女は三分後の光景を見ていた。
激しい音。崩れる壁。悲鳴。赤く染まる空に、埃が舞っていた。
「……くる……」
祐希は目を見開き、無線を取った。
「あと三分で崩れる、南西角の壁面から……!」
「了解!」
「了解っ!」
避難誘導を行っていた春香と玲次の声が即座に返り、夕暮れの風に溶けていった。
日が、沈む。刻限が近い――崩落まで、残り三分を切った。