10.信じてくれる人
──夕方前・駅西口の小さな公園
生ぬるい風が、頬をかすめた。
空はまだ明るいが、影はすでに長く、沈みかけた太陽の赤みが世界を染め始めていた。
有栖祐希は、公園のベンチの端に腰を下ろしていた。猫背で膝を抱え、うつむいている。スマホはポケットにしまった。いまはもう、画面を見る余裕なんてない。
長く伸びた前髪が、顔の半分を覆っている。風が吹くたび、頬に貼りつくその髪を、彼女は無意識に指で払いながら、それでも顔を上げようとはしなかった。
外の空気を吸うのは、どれくらいぶりだろう。
小学生の頃、父が出ていってから、母は恋人を家に呼ぶようになり、あの夜の罵声のあと、外の世界は彼女にとって“敵地”になった。玄関の扉は重く、ベランダの風すら、怖いものだった。
けれど──夢が現実になったあの日から。止まっていた時間が、祐希の中で少しずつ動き出している。
足音。
ベンチのある広場に、二人の気配が入ってきた。
ひとりは長身の男。表情は硬いが、歩き方には無駄がなく、音が立たない。
もうひとりは、赤いジャケットが印象的な女の人。ポニーテールが風に揺れていた。
怖い。けれど──ここで逃げたら、また1人きりだ。
男の低い声が聞こえた。
「Aliceさん、でいいかな?」
目を伏せたまま、祐希は小さく声を出した。
「……あの、はい……Aliceです……」
顔を上げると、二人の視線が自分に注がれていた。
視界の隅で、前髪がゆらりと揺れる。慌てて耳にかけようとするが、指先は緊張でぎこちなく、結局そのままになった。
優しい目でも、厳しい目でもない。ただまっすぐに、彼女の存在を受け止めようとしている目。
「……本名は、有栖祐希って言います」
頷くと、男はふっと表情を緩めた。
「有栖。なるほど、Aliceか……よくできてる」
それだけだった。からかいも、驚きも、拒絶もなかった。
祐希の中の警戒が、ほんのわずか、緩む。
「俺は氷川玲次。こっちは──」
「栗原春香。よろしくね、祐希ちゃん」
春香と名乗った女性は、柔らかく微笑んだ。その笑顔に、どこか懐かしさを覚えた。
姉がいたら、こんな感じだったんだろうか……。そんな感情が胸をよぎる。
「……祐希ちゃん。緊張してる?」
「……はい。あんまり、外に出ないので……」
「そっか。無理に喋らなくてもいいよ。でも、祐希ちゃんが話したいことがあるなら、ちゃんと聞くからね」
言葉が、胸の奥に届いた。
いままで、誰もこんなふうに話を聞いてくれる人はいなかった。
口が乾く。けれど、喉の奥から、絞り出すように言葉がこぼれた。
「……夢が……全部……現実になるんです」
二人の顔色は変わらなかった。
驚くでもなく、嘲るでもなく、祐希の目を、まっすぐに見ていた。
「どういうことか、聞かせてもらえるか?」
玲次が言った。
祐希は、小さく頷いて、視線を落としたまま語り始めた。
「最初は……偶然だと思いました。夢の中で、トラックが人を轢くのを見て……朝起きて、ニュースをつけたら、同じ映像が流れてて……」
その記憶が蘇るたび、手のひらが汗ばんで震える。
「それから何度も……何度も……見たものが、現実になって……怖くて、母にも、誰にも信じてもらえなくて……。でも、昨日の夢は──」
言葉を切り、深く息を吸った。
「昨日の夢では……大きなマンションの一部が崩れて、誰かが下敷きになってました……。夕方、陽が傾いたころ……」
祐希の目に、夢で見た光景が浮かぶ。
黄昏の空。崩れる建物。煙。悲鳴。
気づけば、両手が膝の上で強く握りしめられていた。震える指に、春香の手がそっと添えられる。
「……祐希ちゃん、ありがとう。怖かったのに、話してくれて」
その一言で、胸の奥の何かがほどけた。
自分の話を、信じてくれる人が、ちゃんとここにいる。
「夢は……止められない。でも……見てしまう……。知ってるのに、何もできないのが、いちばん……怖い」
玲次が黙っていた。だがその沈黙は、決して無関心からではなかった。
まるで、何かを強く噛み締めているような、そんな静けさだった。
「……俺の妹も、お前と同じ歳だった。もういないけどな」
唐突な言葉に、祐希は目を見張った。
玲次の目が、どこか遠くを見ている。
「だから……君の言葉を“あり得ない”で切り捨てるような真似は、したくない。夢を見たのが本当なら、信じる。救える命があるなら駆けつける」
それは、どこまでも静かで、強い声だった。
「夢で見たマンションの場所、覚えてるか?」
「……えっと、見たことある建物で……ネットで調べたら、多分、あそこに見えるマンションだと思います。ベランダの形が……同じで」
「ありがとう。確認してみる。時間は?」
「……陽が、沈みかけたころ……きっと、今日……夕方……」
その瞬間、玲次の目が鋭くなった。冷静だった空気が、緊張に変わる。
「春香、行くぞ。時間がない」
「了解。祐希ちゃん、ここで少し待っててくれる? また戻ってくるから」
二人が信じてくれた。それだけで、怖さはずっと小さくなっていた。
春香と玲次が歩き出す。
沈みかけた陽が、ベンチの背を赤く照らし始めていた。
(……わたしも、行かなきゃ)
もし本当に、マンションが崩れるのなら。
もし誰かが、その下敷きになるのだとしたら──自分がそれを「見た」のなら、ここに座っているだけじゃいけない。
「……待って、わたしも……行きます」
祐希は立ち上がった。
膝がかすかに震えていたが、それでも、声ははっきりとしていた。
春香が振り返る。目を少し見開いて、それからふっと笑った。
「……よく言った。うん、じゃあ一緒に行こう。大丈夫、怖くなったら私の後ろに隠れてていいから」
玲次も、驚いたように祐希を見ていたが、すぐに頷いた。
「未来を視たのはお前だけだ。案内、頼めるか?」
祐希は、迷わず首を縦に振った。
赤く染まりはじめた空の下、三人の影が並ぶ。
誰も言葉は発さなかったが、それぞれの胸の奥には、確かな決意があった。
この未来を、ただ「視た」だけにはしない。
──夢で見た崩壊は、まだ起きていない。
ならば、止めることも、きっと──できる。
ここまで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
次回から、いよいよ三人での初めての連携シーンに入ります。
ちょっと緊張、でもきっと大事な一歩になるはずです。
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(感想とかも、こっそり楽しみにしています…!)