1.玲次の悪夢と目覚め
――視界の半分が、赤かった。
割れた窓の向こうから、炎が獣のように舌を伸ばしている。
柱が崩れ落ち、床板が爆ぜる。木と布と人間の脂が混ざった、息もできないほどの臭気が、喉の奥を灼いた。
「……っ、美優……!」
声にならなかった。煙が声帯を焼き、肺の奥に鉛のような熱が沈殿する。
焼け焦げた廊下の向こう――
黒煙の狭間、あの部屋の前で、彼女は立ち尽くしていた。
美優。
氷川玲次の、たった一人の妹。
細い両腕が前に伸びている。助けを求めるように。
だけどその指先は、すぐそこにあるのに、届かない。
「おにい……っ」
言葉が、崩れ落ちた。
炎の音に、かき消されたのか。彼女の喉がもう、声を生まないのか――玲次には分からない。
足を動かそうとして、膝が砕けた。熱に焼かれた木片が突き刺さっている。気がつけば、倒れていた。
這おうとした。けれど、指に力が入らない。
彼女の姿が、熱の向こうに、ゆっくりと滲んでいく。
――ダメだ。間に合わない。
歯を食いしばった瞬間、耳の奥で爆音が炸裂した。
白熱した空気が体を叩きつけ、意識が、闇に呑まれていく。
* * *
玲次は、飛び起きた。
息が、荒い。
シャツが汗で濡れている。呼吸が喉の奥で痙攣し、うまく吸えない。
――夢、か。
数秒遅れて、認識が追いついた。
火も、煙も、悲鳴も、今はどこにもない。
あるのは、天井の静けさと、薄い朝光が差し込む冷えた部屋。
見慣れた天井の模様をじっと見つめる。目を閉じても、網膜の裏に焼き付いた光景は消えなかった。
呼吸を整えようと、ベッドから立ち上がった。窓を開けると、乾いた朝風が頬を撫でる。
冷気を生み出して体に纏っても、心の底に溜まった熱は鎮まらない。
あれから、十年近くが経つ。
妹は――もうこの世にはいない。
自分は、GIFT HOLDERSの制圧班班長となり、“戦う力”を手に入れた。
従来の人間の力を超えて特異な力を持つ能力者。その存在は一般には知られていない。そんな世界の影に潜み、GIFT HOLDERSは異能犯罪や能力者の保護を静かに取り締まる。
どんな武装犯にも、能力者にも怯える必要はない。現場の指揮も、敵の制圧も、他の班に任せることなく、自ら先陣を切る日々だ。
けれど――。
「今の俺なら、助けられたか……?」
自問が漏れた。
言葉の切れ端が、空気に混ざって消える。
その答えは、ずっと見つからないままだ。
部屋の隅にある洗面台に歩き、蛇口をひねる。
冷たい水が手のひらを打つ。顔を洗い、ふと目を上げると、鏡の中に自分の顔があった。
整った額。切れ長の目。引き締まった頬。
昔の写真と比べれば、随分と“男の顔”になっていた。だが――
「……お前は、何も変わってねぇよな」
鏡の中の自分が、自分でないように思えた。
火災の夜から、ただ“役目”と“力”を身にまとうようになっただけの、抜け殻のような人間。
あのとき、あの場で、何もできなかった自分は、今もこの胸の奥で、ずっと焼け残っている。
* * *
携帯端末の通知音が鳴った。
玲次は顔を上げる。
情報班から、新たな任務通知が届いている。
《早朝6:15 湾岸倉庫街にて異能犯罪者逃走中との情報。制圧班、招集準備を開始せよ》
内容を確認した瞬間、身体が自然と動いていた。
服を着替え、装備を整える。ネイビーのショートジャケット、特製のハイカットブーツ、指揮用の端末。
訓練された兵士のように、無駄のない動きで出発の準備を済ませる。
玄関のドアを開ける前、もう一度だけ振り返った。
誰もいない部屋。
夢の残り香が、まだこの空間に漂っている気がした。
――もう、終わったことだ。
誰に言い聞かせるでもなく、そう呟いた。
それでも胸の奥には、いつもあの言葉がこだまする。
「今のお前なら、救えるのか?」
その問いの重さが、足元をずしりと支える。
もう、取り返せない過去。
だが、次は――
誰かの命を、救えるように。
そうでなければ、生きている意味がない。
* * *
玲次は、扉を開けた。
ひんやりとした朝の空気が、頬を撫でる。
その冷たさが、火の記憶をかき消してくれることはない。
だが、それでも進まなければならない。
これは贖罪でも、義務でもない。
たった一つの、“願い”のために。
――次は、誰も、死なせたくない。
その想いだけを胸に、氷川玲次は階段を駆け下りていった。