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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

9回目の真実

作者: さば缶

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

その内容はいつも同じで、まるで古いフィルム映写機から繰り返し投影される場面のように、鮮明に残っている。

大きな鏡が割れる音、母さんの悲鳴、そして父さんの怒鳴り声。

最後に、床を濡らすものすごい量の赤い液体が目に飛び込んでくる瞬間に、いつも目が覚める。


 幼い頃の両親の殺害事件を、僕はずっと「誰か」によって奪われた不幸な出来事だと思い込んでいた。

実際、警察の捜査でも「犯人不明」とされたまま捜査は打ち切られ、僕は施設を転々とするうちに成長した。

しかし最近、両親の死を思い出させるような断片的な悪夢が続き、気持ちが落ち着かない。

その夢は最初こそぼんやりとした影のような映像だったが、回を重ねるごとに明確になり、場面の細部をむしろ恐ろしいほど露わにしてくる。


 いつものように、うなされて目が覚めた日は休日だった。

胸が苦しく、重たい汗が額から滴り落ちている。

普段なら心を落ち着かせるために深呼吸をしてコーヒーを淹れるのだが、その日はなぜか胸騒ぎを振り払えずに、ネットで過去の新聞記事を漁り始めた。

自分が住む町の地方新聞には二十年前の事件も縮刷版に収録されており、いくつかの記事を探し出せた。

当時の報道は「被害者夫妻死亡。室内には争った形跡があり、盗難目的の犯行が疑われるも、犯人特定には至らず」と書かれていた。

どこか空虚な文章で、まるで他人事のように両親の最期が文字になっている。


 僕は両親の顔を正確に思い出すことができない。

母さんはどちらかといえば小柄で温厚だった気がするが、それも手元に残された写真を見ての印象に過ぎない。

父さんについては、どうしても記憶が曖昧だった。

一緒に写っている写真は少なく、表情も笑っているのか怒っているのか判断しづらい。

ただ、なんとなく近寄りがたい雰囲気の人だったような気がしていた。


 その日の午後、昔からお世話になっていた施設の職員・吉岡さんに連絡をとった。

吉岡さんは当時、警察から事情聴取を受けたのを僕の横で見守ってくれていた人だ。

事件について何か覚えていないかを尋ねたかった。


「久しぶりね。元気にしてる?」

そう電話口で吉岡さんは柔らかな声をかけてくれた。


「ええ、まあ。実は最近、両親が亡くなった頃の夢を立て続けに見るんです。

そちらで何か当時の記録や、僕が話していたことなんかが残っていれば、教えてほしいんですが」


 電話越しにしばらく沈黙があった。

普段は明るい調子で話す吉岡さんが、どう話を切り出すか迷っているのがわかる。

そして静かにため息をついた後、言いにくそうに口を開いた。


「記録は施設にも少しだけ残ってるけど、あの頃あなたはほとんど口をつぐんだまま、うわ言のように『鏡が割れた』『血がこぼれた』と繰り返していただけなの。

警察の人たちもあなたがショックで詳しく思い出せないのだろうって、無理に聞き出そうとはしなかった。

ただ……ちょっと気になるメモがあるわ」


「メモ、ですか?」


「そう。事件後にあなたが夜中、何かを紙に殴り書きしてたらしくてね。

言葉というより絵に近いけれど、『父』と『手』という文字がはっきり読み取れるのよ。

それが何を意味するのかはわからないけれど」


 電話を終えたあと、胸の奥に何か熱い塊が押し寄せてくるのを感じた。

「父」と「手」。

それが夜中に書いたものなら、無意識に描いた可能性が高い。

僕の手は、父さんに何をしたんだろう。


 その日はひどく疲れていたが、寝つける気がしない。

部屋の明かりを落としてベッドに横になると、薄闇の中で昔を掘り返すような心の動悸が激しくなる。

怖くなって体を起こすと、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりがどこか鏡の破片に似ているように感じた。

そのまま過ぎ去るまで待つしかないと思っていたが、不思議と目が重くなり、気づけばいつの間にか眠りに落ちていた。


 今回の夢は、さらに鮮やかだった。

廊下の奥で母さんが必死に何かを訴えている。

けれど言葉は聞き取れない。

耳鳴りのようなノイズが混じり、断続的に父さんの荒い呼吸音だけが感じられた。


「いや!もうやめてよ!」

子どもの頃の僕の声が響く。

すがるような叫びだった。


 薄暗い部屋の隅、父さんが低く笑っている姿が見えた。

笑いというよりは、嘲りにも似た不気味な表情だ。

幼い僕は壁際に追い詰められていた。

父さんの手がゆっくりと伸びてきたところで、突如鏡が砕け散る音が聞こえた。

弾けたガラス片が床を舞い、母さんが「やめて!」と叫んだ瞬間、景色が赤く染まった。


 息を切らせて目が覚めると、両手は何かを振り払おうと必死になって空を掴んでいた。

恐怖と混乱で心臓が破裂しそうだ。

もしかして、自分は父さんから何かひどいことをされていたのだろうか。

頭の中でその可能性が形を持ち始めたが、現実に引き戻す決定打がない。


 翌朝、職場を休んで実家のあった町を訪れた。

すでに両親が住んでいた家は取り壊されており、更地になっていたが、近所の古い商店はまだ営業を続けていて、そこに住むおばあさんは当時のことを少し覚えていた。


「お父さんは、あまり愛想がいい人じゃなかったねえ。

奥さんも時々、夜中に誰かと口論してる声を聞いたと言ってた人がいたっけ。

あんたの顔は覚えがあるわ。

小さかったけど、いつも俯いて元気がなかったんじゃないかい?」


 店先で聞くその言葉は、子どもの頃の自分が真っ暗な闇に閉じこもっていた証拠のように響いた。

家に帰る頃には、心の中である疑いがくっきりと形を成していた。

父さんは僕に何らかの暴力を振るっていた可能性がある。

しかも、いわゆる性的なものだったのではないか――そんな確信めいた感覚があった。

思い返してみれば、なぜか父さんに関する記憶だけ極端に抜け落ちているのも、そのトラウマを無意識に封じ込めていたからかもしれない。


 そして、それを証明するかのように、その夜また同じ悪夢に襲われた。

けれど今回の夢は初めて、最後の場面まで続いた。

父さんが僕に手を伸ばし、母さんが「この子にはもうやめて!」と叫んでいた。

壁に掛かっていた大きな鏡が倒れ、床一面に破片が散らばる。

その破片の一つを僕は無意識に掴んでいた。

父さんの腕を振り払おうとして、思い切り手を振る。

そのガラス片が血に染まり、父さんはどす黒い悲鳴をあげて床に倒れ込む。

その衝撃で母さんも転び、机の角に頭をぶつけて倒れた。


「どうして……どうしてこんなことに」

母さんがそう呟いた声が確かに聞こえた。

幼い僕は恐怖と混乱の中で、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き叫んでいる。

しかし父さんの暴力から逃れたいという狂おしい思いが、僕の手に躍動を与えていたのは間違いない。


 目が覚めると、全身は汗まみれでシーツも湿っていた。

だが、なぜか吐き気や胸苦しさよりも、納得とも諦めともつかない奇妙な感覚だけが残っている。

自分が探し求めていた「真犯人」。

それはほかならぬ、この僕自身だったのだ。

もちろん、いまだに子どもだった僕が抱えていた恐怖や絶望を考えれば、正当防衛あるいは事故に近い側面もあったのだろう。

それでも、結果として両親の命を奪ったのは僕の手だった。


 混乱の中、施設に行って吉岡さんにそのことを打ち明けようかと思ったが、どれだけ話したところで事件が蒸し返されるだけかもしれない。

この事実を知ってしまった以上、警察に名乗り出るべきなのか。

それとも時効が成立してしまった今、意味のないことなのか。

考えるほどに頭が痛くなった。


 ただ、ひとつだけ感じるのは、あのとき母さんも父さんも、何か目の前で繰り広げられた悲劇に耐えきれず崩れ落ちたということだ。

父さんは自業自得だったかもしれないが、母さんは罪のない被害者だっただろうか。

それを思うと、悲しみで胸が裂けそうになる。


 朝方、窓の外は曇り空だった。

けれど、不思議と薄暗い雲の端がうっすらと光を帯びているようにも見える。

僕は立ち上がり、鏡に映った自分の顔をじっと見つめた。

そこにはやせ細った輪郭と落ちくぼんだ目がある。

その姿はまるで隠し続けてきた罪の重さをそっくり映し出しているようだった。


「もう、逃げたくない」

小さく呟いて、僕は携帯電話を取り出した。

これまで知り得なかった真実を知り、すべてを認めることができるなら、せめて母さんのために、そしてかつての幼い僕自身のために、何か償わなければならない。

それがたとえ遅すぎる一歩でも、僕は後悔を抱えて生き続けるよりはましだと思える。


「吉岡さん……実は、話したいことがあるんです」

電話をかけ、長いコールの後、眠そうな声が聞こえると同時に、僕の声は震えた。


「聞いてもらえますか。あの事件のことです」


 受話器の向こうで吉岡さんが驚いたように深呼吸する気配を感じる。

けれど、どんな反応が返ってこようとも、僕はもう逃げるわけにはいかない。

あの夢が9回も続いて、ようやく記憶の扉をこじ開けた。

父さんによる虐待も、そして僕自身の罪も、これからは真っ正面から見据えるしかないのだ。


 もしかすると、この先どんな現実が僕を待ち受けているのかはわからない。

それでも、過去を取り戻したという事実は、僕の中で静かに輝き始めている。

あの夢を、10回目に見ることがあるとすれば、それはもう同じ悪夢ではないのかもしれない。

僕の手で切り裂いてしまった悲しい記憶も、いつの日か和らいでくれることを願いながら、僕は小さく息を吐いた。


 あの朝、電話を切った後の空は、ゆっくりと曇天を押しのけて、かすかな光を差し込みはじめていた。

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