外見と中身が一致していないのなんてよくある話じゃないですか
クリフ・アンダーソンは次期騎士団長だと囁かれている将来有望な青年である。
侯爵家の次男であり、家族仲も良好。
ついでに彼には可愛い可愛い婚約者であるリディアという少女がいた。
リディアはふわふわしたピンクブロンドと、春先に芽吹いた緑のような瞳を持った、まるで妖精のように愛らしいと社交界で評判になっている少女だ。
ディアレイト伯爵家の、こちらも次女である。
将来はクリフが家を出る時に与えられる爵位から伯爵夫人になる予定の妖精姫。
世の中の綺麗な物だけを集めて作りました、と言われれば誰もが納得しそうな愛らしさを持った少女の事を、クリフはこよなく愛していた。
リディアもまたクリフの事を愛している。
二人は相思相愛で、そんな二人を見る周囲の眼差しは微笑ましさに満ちている。
騎士として研鑽を重ねる青年と、妖精姫と称される少女。
二人が並ぶとまるで何か、物語の中にでもいるかのように錯覚させられるのだ。
さながら一枚の絵画を見ているかのよう。
周囲は概ね二人の仲を祝福していた。
そう、概ね。
マリサ・マクレガーは伯爵家の令嬢である。
彼女は一目見た時からクリフに恋焦がれていた。
家格も差がありすぎるというわけでもないし、婚約者に是非彼をと親に望んだ時には既にリディアが婚約者として周囲に知られる形となっていたので、リディアと彼の婚約者の座を競う立場にすらなれなかった。
横やりを入れようにも、そもそもこの婚約はクリフが強くリディアを望んだ事から結ばれたものだと周囲に知らされているし、お互いの家の繋がりも、ただ単純に親の仲が良いからとか、領地が近いからとりあえずだとかのものではなく、きちんと両家の利になるものでもあったので。
それを上回る利になる何かがマクレガーの家にあるのであればまだ横やりも入れることができたかもしれないが、しかしなかったが故に。
マリサは悔しさにハンカチを噛みちぎる勢いだった。実際そんな事はしないけど。
そこですっぱりとクリフの事を諦められれば良かったのだが、しかし恋心というのはそんな簡単に消えてくれれば誰だって苦労はしない。
好きで好きで愛しているのにしかしこの想いは報われる事がない。
彼の事を想うと幸せな気持ちになるけれど、しかし彼からの想いは別の女性に向いている。報われないという事実に辛くて苦しくて、いっそこの想いを捨ててしまえれば……と思いながらもそれでも捨てられない。
毎日胸が締め付けられるようで、マリサは甘く苦い日々を過ごしていたのである。
いっそリディアがいなくなってしまえば……そう考えた事も何度かあった。
けれども、マリサが人を使ってリディアを陥れようとするにしてもだ。
それはかなり難しかった。
何せ相手は社交界で評判の妖精姫。
友人も多く、そうやすやすと一人になるような事もないので一人になった隙を狙って……なんて事も難しく、偶然を装っていっそドレスにワインでもかけて台無しにしてやろうと思ってもマリサはリディアと特に親しいわけでもないので気軽に近づける雰囲気でもない。
彼女の周囲には常に友人がいるので、偶然を装って近づいたところでそこから更に友好的に振舞いつつどうにかしてワインをドレスにかけてやろうとしても、ちょっとでも不自然さが出れば周囲の友人が目ざとく気付くだろう。
実際、彼女に嫉妬したであろう他の令嬢が以前やらかしているのだ。
そして彼女はリディアにワインをかけようとしていたのに、目測を誤って隣にいたリディアの友人であるフロレンス・マアナンサ侯爵令嬢のドレスにワインをかけた事で。
侯爵家から睨まれる形となってしまったのである。
わざとでないと言ったとしても、それはそれとしてドレスを汚した事実は消えないので。
結果として彼女は他の家で開かれる茶会や夜会への招待がぐんと減ってしまい、社交界で見かける事もとんと少なくなってしまった。
リディアに手を出すにしても、下手をすると身の破滅になりかねない。
ハイリスクすぎるけれど、しかしだからといってすんなりこの気持ちがどうにかなるならそもそもこんな風に思い悩んだりもしていない。
使用人を使っての嫌がらせも、金で人を雇って彼女を害するにしても、バレたら身の破滅である。
そして、絶対にバレないようにできるか、となると難しいだろうなとマリサは察してしまえる程度には賢い娘だったので。
日々クリフの事を想いつつ、その隣に堂々と並ぶことが許されているリディアに嫉妬し大変情緒が忙しい状況となっていた。
いっそ馬車が事故にでもあってそのままリディアだけ儚くなってくれないかしら……マリサにできるのは精々そう願うくらいだった。
クリフに恋い焦がれる令嬢がいるのであれば、当然リディアに想いを寄せる男性もいる。
故に、周囲からお似合いの二人だと言われる事もあれば、何らかの拍子にあの二人の婚約が無かったことにならないだろうか……そうしたら自分にもチャンスがあるのに……なんて消極的に二人の破滅を願う者はそれなりに存在していた。
ファルケス・ダートマンは伯爵家の次男であり、こちらも騎士団に所属している。
クリフの事をライバルと見ていて、よく訓練で競ったり、勝負を挑んだりしては負けている。
騎士団に所属したのはファルケスの方が先で、クリフからすれば彼は先輩という立ち位置でもあった。
ファルケスは文武両道・眉目秀麗とよく評されており多くの令嬢たちから素敵だと囁かれていたものの、しかし彼は今までそういった事に一切興味を示さなかった。
そんな彼は、リディアに密かに恋をしている、と噂になりつつあった。
実際どうなのか、本人の口から直接聞き出せた者はいない。
ファルケスも自身の口からリディアへの想いを出した事はないので、憶測だけが流れている状況だ。
だが、時折ファルケスがリディアへと熱い視線を送っている事だけは確かな事実である。
周囲がいつ、クリフとの勝負に挑んでもし勝ったならリディア嬢を譲れ、なんて言い出すか……と思っているくらいには、噂は真実だと思われるようになっていた。
――ところがそうはならなかった。
当然である。
ファルケスは別にリディアの事などなんとも思っていなかった。
彼はそもそも色恋というものに全く興味がなかったくらいだ。
周囲がそういう噂をしている事を把握していたけれど、それらすべてを下らないと一蹴していたし、内心でそういった噂に踊らされる連中を愚かな事だと見下してもいた。
ファルケスにとって最も重要だと思える事は、己の力を鍛えあげ、そうして強者との闘いで勝利をつかみ取る事である。
今まで自分より強い奴などいないと思っていたところに現れたクリフ。
彼に負けたその日から、ファルケスにとって注目すべき存在となり、彼との試合をするためにはどうするべきかと画策するようになったのだ。
訓練で競ったりしているといっても、正式な試合というわけでもなく、クリフは己に課した訓練を終わらせればさっさと切り上げる。
こちらがどちらが多くこなせるか勝負しようと持ち掛けても、終わったら用があるからと最近は相手にもされなくなってきた。
最初のころは一応先輩だからという思いもあったのか付き合いはあったけれど、最近はめっきりそんな事もなくなってしまった。
訓練試合であっても、基本は刃を潰した訓練用の武器だ。
本当の武器を用いての殺し合いではない。
命を賭けたギリギリの戦い。ファルケスはそんな試合をクリフとしてみたいと思ってはいるが、流石にそれは周囲も許してくれる雰囲気ではなかったので。
ファルケスはどうにかしてクリフと本気の戦いをしたいと思う気持ちだけが強くなる一方だったのである。
何故って大抵の事はそつなくこなせてしまったファルケスにとって、唯一心を揺さぶられるのは強者との闘いだけだったので。
もしクリフと本気の戦いをして負けてそこで命を落としても、いっそ本望だとすら思っている。
生き残る事ができたなら、次はもっと強くなって再戦を、という気持ちもあるけれど。
最初のころにクリフに絡みまくった事が原因で、最近は他の騎士たちがクリフとファルケスをそれとなく離しているのもそんな気持ちに拍車をかけたのかもしれない。いや、確実に拍車がかかってしまった。
そんな中で、クリフと幸せそうに寄り添うリディアを見て、ファルケスは思ったのだ。
もし、彼の大切な存在を害するような事になれば、彼は本気で怒ってこちらと戦ってくれるのではないだろうか……と。
何せクリフに試合をしようと申し込んでもあくまでも形式に則った試合で、彼は全力を出しているかも疑わしい。
本気で全力のクリフとの試合がしたい。
どうしてもしたい。
そのためならもう手段なんて選んでられない。
それくらい、ファルケスの心はクリフとの試合一色に染まってしまっていた。
リディア嬢を攫って返してほしくば……とでもやらかすか……?
そんな風に思い始めてしまっていたのである。
ファルケスはリディア本人の事を別段何とも思っていない。
確かに見目は愛らしいかもしれないが、正直それくらいしか感想が浮かばなかった。
ファルケスがリディアを認識しているのは、クリフが大切にしている存在だから何かに使えるかもしれないな……と思ったからだ。そうでなければ恐らくろくに認識もしていない。
誰も、本心を語ってはいなかったので。
ファルケスはリディアに密かに恋をしているのだろうと周囲は思い始めていたし、それと同時にクリフに対して恋心を持つ令嬢たちはファルケスがリディアとくっつくのなら、クリフと結ばれるチャンスが舞い込んでくるかもしれない……!! と淡い期待を抱いたのだ。
ついでにファルケスに想いを寄せていた令嬢たちがリディアに対して嫉妬し、クリフ狙いの令嬢たちがファルケスにそれとなく協力しようとして。
誰も、何も言っていないのに周囲は勝手に空気を読んで各々が自分の欲望のために動いた事で。
事件は起きてしまったのである。
それは王家主催の夜会での事だ。
多くの貴族たちが参加し、未婚の令嬢や令息たちはこの機会に是非とも良い相手を見つけたいと出会いに積極的になり、婚約者のいる者たちもまた周囲に自分たちが結婚するのだと知らせる。
そんな様々な出会いの場。
他の家で主催するものでもそういう事はあるけれど、しかし王家が主催するとなれば規模が違う。
この機を逃せば良い出会いなんてないのではないか、と思った者たちの目はさながら獲物を狙うハンターであった。
そんな中で、周囲の令嬢や令息たちがそれとなくファルケスの動きに注目していた。
クリフとリディアはダンスを踊り、その後はシャンパンやワインを手に語らい、そうしてクリフは友人たちの方へ挨拶してくるとなったのか、リディアから離れる。
その直後、周囲の者たちの心は勝手に一つになっていた。
ファルケスがリディアに近づく途中で、彼の邪魔をしそうになるかもしれない令嬢や令息たちをそれとなくガードし、知り合いであるなら声をかけ呼び止める。
そうしてすんなりとファルケスはリディアに近づ――くよりも先に。
リディアが人々の熱気にあてられたのか、そっとバルコニーへ移動するのが見えた。
それに内心でやった! と思ったのは、ファルケスとリディアがくっついて上手くいけばクリフがフリーになると思った令嬢たちだ。
暗がりで男女が二人きり。何もなかった、なんて言葉がすんなり信用されるわけもなく……
クリフとリディアの間に亀裂が入れば付け入る隙もあるだろう。そんな風に考えた令嬢たちはそれぞれが自分のポジションを確認し、邪魔になりそうな相手が割り込めないよう各々が移動し始める。
一見すると不自然な点はないくらい、自然な動作だった。
ところがバルコニーへと移動しようとしていたリディアは途中で足を止め、すぐに引き返してきた。
どうやら先客がいたらしい。
その事実に多くの令嬢たちが内心で舌打ちをした。
はしたない? 内心であって実際にしたわけではないから何も問題はない。
少しばかり悩んだのか、ともあれリディアは人の少ないところで休もうと思ったのは確かだろう。
会場から出て、そういった部屋がある場所へ移動しようとした。
そしてファルケスはそんなリディアの後を追った。
一応、周辺には城に勤める侍女や警備の者たちもいたが、リディアが一人で歩く事も、ファルケスがその後を歩いている事も、特に見咎められる事もなければ注意されることもなかった。
ファルケスがもっとあからさまにリディアの後を付け回しているように見えていたなら呼び止められたかもしれないが、あくまでも二人はそれなりに距離があったし、会場の雰囲気にあてられて疲れた者が使う休憩室に向かっているのだろうと思われるだけだったからだ。
リディアがもっと怯えたような雰囲気であっただとか、ファルケスからよからぬ事を考えているような雰囲気があっただとかであれば違ったかもしれないが、二人はたまたまそちらに向かっているだけにしか見えなかった。ファルケスがもっと足早にリディアに近づこうとしていたのであれば、誰かしら彼を止めようとしたかもしれない。けれどもそうではなかったから。
そして休憩室は一つだけではないために。
それぞれが別の部屋を使うのだろうと周囲は思ってしまったのである。
――リディアは自分をつけまわしている存在に実のところ気付いてはいた。
そしてそれが、愛する婚約者のクリフにまとわりつく邪魔な存在である事も。
同じ騎士として切磋琢磨しているだけならまだしも、彼はことある事にクリフに勝負を持ち掛けようとしている、と友人の婚約者や親戚を通して耳にしてはいた。
勝負事に目がない、というわけではなさそうだが、しかしそれにしたってクリフにばかり絡んでいくというのもあって、まるで彼を陥れたいみたいではないかしら……? とリディアは思っていた。
次の騎士団長に選ばれるのは恐らくクリフだ。
それだけの実力と周囲の人望が彼にはある。
もしかしたら、今自分の後をついてくるファルケスはそれを妬んでいるのかもしれない。
自分の方が先に騎士団に入ったのに、後から来た奴に自分の立場を奪われたとでも思っているのかも……
リディアの考えをファルケスが知ればそうではないと答えただろうけれど、しかしリディアがファルケスにその疑問を投げかける機会などなかったし、そうなればその推測が真実のようにも思えてしまうわけで。
それならば、もしかして。
もしかして、ここで私を使って彼の騎士団長への道を閉ざそうなんて考えているかもしれないわ……
そんな風に考えてしまっていたのである。
冷静に考えるのであれば、もしリディアがファルケスに靡いたとしても。
そうなればファルケスにとっても醜聞になるだろう。婚約者のいる相手に言い寄った、そう思われる可能性は存在している。リディアが婚約者がありながら、別の男に……なんて噂が流れたとしてその相手がファルケスならば彼も無事では済まない。
けれども。
何か、それを回避する策があるのかもしれない。
リディアはそう判断して、相手に気取られないよう気を引き締めた。
お互いに本心を話していればそうではないと誤解がとけただろうけれど。
そもそもの話、こんな話をするはずもなかったのだ。
それは、多くの令嬢たちが言葉を交わさずとも先程のような連携を見せた時のように。
部屋の扉を押し開けて、リディアはその中へと足を進める。
扉は閉めたものの鍵はかけていなかった。だからこそ、そこを開けて入って来るようであれば。
リディアは扉に背を向けたまま、部屋の中ほどでじっと立っていた。
本来ならばここに誰かがやってくる事はない。
クリフが自分を追いかけて、だとかであれば話は別だが、それ以外は。
それ以外の誰かが来るとなれば、その時は、あらかじめこちらに声をかけるだろう友人か、それ以外のよからぬ事を企む者か。
少ししてから、そっと扉が開く音がした。
けれどもリディアは振り向かない。
ただじっとその場に立ったままだ。
何者かが室内に入り込んだ気配を感じ取る。
足音を意図的に消そうとして動いている。
それらをリディアは明確に感じ取っていた。
自分を追ってきたクリフではない。
クリフならこの時点で声をかけるし、そうでなくとも気配が違う。
相手の気配は確実にこちらに近づいていた。
声はかからなかった。
黙ったままだ。
もしもっと早くに声をかけられていたのなら。
体調を悪くしたのかもしれない、とでも思って声をかけていればまだ。
こちらも手荒な真似はしなかったのに、とリディアは思いながらも――
背後から迫ってきた腕をリディアは上半身をかすかに動かして回避し、その腕をそのまま掴んでねじるようにしながら前方に引きつつ落とした。
「ぐっ……!?」
ずだんっ、と重たい音がして背後からやってきた男が――言うまでもなくファルケスである――床に叩きつけられた。その際に更に腕をねじっておいたので、恐らく骨は折れていなくとも筋は確実に痛めただろう。
実際、彼の口からはその痛みにうめくような声が漏れていた。
「レディを背後から襲おうなんて、紳士としての風上にも置けませんわね」
冷ややかに見下ろす。
ファルケスは違うと言おうとしたが、思った以上に強く床に叩きつけられた事で上手く声が出せなかった。
声が出てもそれは痛みのせいで出るもので、言葉になるかと問われればならないもの。
受け身を取る訓練をしていても、体勢が崩れてそれを立て直す間もなく叩きつけられてしまえば受け身も何もあったものではなかったし、そもそも普段は騎士として、全身鎧ではないが軽鎧を身につけている。今日のような礼服といってもいい装いで硬い床に叩きつけられるという事を、ファルケスは想定すらしていなかった。
武装をしていないとはいえ、それでも何事か、物騒な事に巻き込まれる事はあるかもしれない。
そういう事を想定しての訓練だってあったけれど。
だがしかし、ファルケスはその場合他国からやって来た間者の疑いがある者だとか、そういった可能性を秘めた相手であればこうもあっさりやられはしなかったかもしれない。
けれども今ファルケスが手を出そうとした相手は妖精姫として社交界でも知れ渡った相手だ。
だからこそ油断していたと言えばそれまでの話。
ファルケスの予定では、そっと背後から忍び寄って彼女が悲鳴を上げないようにした上で、少しの間人質になってもらうつもりだった。
彼女を助けたくば、という名目でクリフに勝負を挑むつもりだった。
勿論その間、リディアを危険な目に晒そうとはしていないけれど、確実に安全な場所にいるとクリフに思われて真の実力を発揮されないのはファルケスの望むところではないし、仮に協力を頼んだとしてリディアが頷いてくれなければ最終的に行きつく先は同じなのだ。
それに、リディアが演技派であるのならいいが、下手な大根役者であれば協力を引き受けてもらってもクリフが彼女の危機に本当の力を出してくれないかもしれない。
そうであるのなら、彼女には何も知らないまま、本当に危険にさらされていると思われてくれた方がいいだろう。
そう、考えたのである。
こんなことをすれば、いくら最終的にネタを明かされたとしてもファルケスとてただでは済まない事くらいわかってはいた。
けれども、お咎めは今後の働きで返していけばいいだろうと思ってもいた。
実力がある事を自分でよく理解している。
だからこそ、今後の働き次第でどうにでも名誉を挽回できると思ったし、汚名も雪ぐ事はそう難しい事ではないと。
思っていたのだけれど……
「いやだわ、こんな紳士の風上にも置けない相手が騎士だなんて。
一体いつから騎士団は無法者が紛れ込むようになってしまったのかしら、嘆かわしい」
「ぎっ……!?」
言いながらリディアはファルケスの右腕、肘のあたりをヒールで踏み抜いた。
容赦なく踏みつけられた事で、想像以上の痛みが走る。
同時に、ぼきんという音が身体の中から聞こえた気がした。
この感触には覚えがあった。
騎士になったばかりの頃、想像以上の辛く厳しい訓練で気力も体力も尽きてへろへろになった時に、ほんの一瞬意識が飛んでその時の不注意から骨折した時――
そこまで思い出したところで、痛みが遅れてやってきた。
う、あぁ、と言葉にならない声が口から勝手に漏れてくる。
別に、リディアとしてはこのままここでこの男を放置して戻ったって構わなかったのだけれど。
どうせなら、とその場でじっとファルケスを見下ろしていた。
会場でクリフと別れたのは、別に予定外の出来事だったわけではない。
ちょっと友人に挨拶してくると言って別行動をとったのはそうだけど、どのみち後で合流するつもりだった。
バルコニーに人がいなければそちらで、もしそうでなければ休憩室で。
別れる時にそう話していたので、遅かれ早かれクリフはやってくる。
途中でリディアを見ていた使用人や警備の者たちに聞けばすぐにたどり着けるはずだ。
そんなリディアの予想を裏切る事なく、クリフはやって来た。
「リディア……それは?」
「さぁ? 突然部屋に押し入って背後から襲い掛かってきたから返り討ちにしただけよ」
「あぁ、ちゃんと手加減はできたんだね。どこの誰かは……ファルケス殿……!?」
そこでクリフは床に転がっていたのが自分の知っている人物だと気づいたらしく、思わず目を見開いていた。
「あらクリフの知り合い?」
リディアはファルケスの事を知ってはいたが、改まって紹介されたわけでもない。
だからこそ白々しくそう言ってのけた。
「あ、あぁ。ほら、話した事があるだろう?
騎士団で、よく試合を挑んでくる人だって」
「あぁ、そういえば。
あら? この程度の腕で挑んできたのですか?
それはまぁ、随分と身の程を知らないというか……」
「はは、確かにね。
しかし……ファルケス殿、一体どうして彼女に近づいたのですか。彼女は私の婚約者だと、既に周知していたはずですが……?」
まさか人の婚約者に横恋慕してたのかこの野郎、という目でもってクリフはファルケスを見たが、しかしファルケスは何も答えなかった。
いや、答えられなかった。
思った以上にダメージが強すぎたのだ。
一見すれば虫一匹殺せそうにない女性から繰り出された一撃は、下手をすると今までで一番の衝撃だったかもしれない。
だからこそ弁明しようと思っても、声が上手く出せなかったのだ。
ただはくはくと唇が開閉したものの、出そうになった声はかすれて上手く言葉にならないまま。
結局のところ、騒ぎにしたいとは思わなかったクリフによってファルケスは同じ騎士団仲間経由で回収された。
事実をあからさまに公表してしまえば、ファルケスは婚約者のいる女性を背後から襲おうとした紳士とは思えぬ屑野郎の烙印を押されるだろうし、いくら無事だったとはいえリディアも婚約者がいながらにして他の男を誘った淫売だ、など噂されるかもしれない。
どちらにとっても、誰にとっても何の利にもならない噂だ。
それこそ、リディアやファルケスの名誉を地に落として得をする者たち以外からすれば。
命に別状こそなかったとはいえ、ファルケスは利き腕の骨折と筋を痛めた事でしばらくは訓練も控える事となってしまった、とリディアは風の噂で聞いたけれど特になんとも思わなかった。
「本当に良かった、手加減ができてて」
そうクリフに言われた事に対しては、照れくさそうに笑いはしたけれど。
妖精姫、といつから呼ばれるようになったかリディアにとってはどうでもよかった。
ただ、幼い頃から見た目の儚さだとか愛らしさから、周囲がこれでもかと持て囃していたのは憶えている。物心ついたころか、つく前かまでは記憶にないが。
そのあまりの愛らしさに、よからぬ輩に目をつけられそうになった事は一度や二度ではない。
表沙汰になるような事件にはならなかったが、危うい場面は何度かあって、そこでリディアの家族は決心したのだ。
護衛をつけるのは当然だが、それでも万が一という事はある。
万が一の時に、自分で自分を守れるくらいにはリディアを鍛えておこう……! と。
だが、いくら彼女に護身を教えていますよと周囲にわかるようにしたところで、やらかす奴はやらかす。
下手に武力を持っているのなら、多少手荒にしてもかまわん、なんて考える奴だって出るかもしれない。
そんな最悪の展開になってしまえば本末転倒だ。
だからこそリディアの家族はリディアは無力な娘だと思わせるように隠し通した。
彼女が実はとんでもない武術の達人である事を。
筋が良かった、覚えが早かった。
そう言ってしまえばそれまでなのだが、彼女は乾いた大地が水を吸い込むがごとく教えられた事をあっという間に身につけていった。それこそ、砂漠が水を吸収するかの勢いで実力はメキメキついて留まるところを知らない勢い。
そしてリディアの身体は見た目に筋肉がつきにくい事もあって、外見はとても儚げなくせにその実中身はぎっしりしていた。
見た目にもわかりやすく筋肉がついていたならば、よからぬ事を企む者も減っただろうに、しかしそうはならなかったのである。
こうして、見た目は妖精中身は狂戦士というとんでも令嬢にリディアは成長してしまった。
まさか、巷で妖精姫と呼ばれるような令嬢が実は片手でリンゴを粉砕できるなど誰が思おうか。
それなりに太い木を蹴りの一発で倒せるほどの力を持つなど、誰も想像しないに違いない。
当初予定していた護衛は、今も付き従ってはいる。
いるけれど、既に護衛は護衛として役に立たない。何故ってリディアの方が圧倒的に強すぎるからである。
だからこそ護衛はどちらかといえばストッパーだ。正当防衛で身を守ろうとしたところで、うっかり殺してしまってはまずい場合も存在する。だからこそそうならないために、護衛はいざという時のための証人も兼ねていた。
幸いな事にたとえ襲ってきた相手がどれだけ悪党だろうとも、極力一撃で屠ってはいけない、という師の教えをリディアは律義に守っていた。
何故ってそうしないと、うっかり身を挺してリディアを止めに入ろうとした護衛も殺しかねないからだ。
勿論例外は存在するが、死ぬか生きるかの状態になるような極限状態にでもならない限りはそうならないようリディアも気を付けてはいる。
リディアはあくまでも護身のために力を揮うつもりであって、誰彼構わず殺して回りたいわけではないのだ。
妖精姫なんて呼び名はどうでもいいが、これがうっかり妖精魔王なんて名称に変われば流石に世間的に問題がある事くらいリディアも弁えている。
本当なら、背後から襲い掛かろうとしてきたファルケスの事は正直紳士の風上にも置けないし、他の令嬢が被害に遭うかもしれない事を考えたならあの場で潰しておくべきだったと思ってはいるが、まぁそれについては本人の自供次第といったところだろうか。
もしあのファルケスという男が本当にどうしようもない屑であるのなら、騎士に復帰する前にこっそり引導を渡してやるつもりである。
リディアは率先してあの男の情報を得ようとは思わないが、そのうちクリフから続報がくるでしょう、と軽く考えている。
その前に他の適切な人物が処罰を行うだろうけれど、それすら難しくなった場合の最終手段という立ち位置が自分の役割だとリディアは思っていた。
クリフの強さは、リディアと度々手合わせをしていた事による。
幼い頃はこんな可愛らしい子が将来のお嫁さんになるんだ、僕が守ってあげなくちゃ! と思っていたがあっさりとクリフの実力を追い抜いて既に圧倒的な高みにいるリディアに少しでも追いつきたいがために、クリフはそれこそ鍛錬を怠らなかった。
人目につかない場所でリディアと手合わせをするたびに、己の弱さを突きつけられるもそれでも、まだ強くなれると言われたからこそ諦めず研鑽を重ねていく事を諦めたりはしていない。
結果として、騎士団から一目置かれるくらいに強くなっただけだ。
リディアが本気になっていたなら、あの時ファルケスは死んでいてもおかしくはなかった。
そのつもりがなくても、リディアの強さとファルケスの脆弱さによってうっかりでファルケスが死ぬかもしれなかったのだ。
だがリディアは上手く手加減をしてファルケスを生かす事に成功していた。
あの時現場で見た時も手加減はできたのだとわかっていたけれど、それでも後になってから思っていたより重傷だった、なんてことになったかもしれなかったので。
本当にちょっと腕が折れて当分生活が不便になる程度で済んだという事に、クリフは安堵すらしたのだ。
既に処分したけれど以前リディアを襲おうとした賊なんかは、見た目こそ五体満足であったけれど骨は砕け内臓は潰れ、仮に治ったところで到底まともな生活などできなかったので。
死んでなければセーフとはいえ、流石に生きているだけ、という状態なのも問題がある。賊ならまだしも、ファルケスは一応貴族なので。
「問答無用で倒していい相手ばかりというわけではないものね。
これからはもっとちゃんと手加減を修得しなくては……」
「そうだね。私も、リディアに負けないようもっと強くならなくてはいけないし、また手合わせをしてくれるかい?」
「勿論。クリフの頼みを断った事、あったかしら?」
「いや、ないね」
貴族の男女の、それも婚約者の会話とは思えないが、武人としての会話ならまぁ有り……なのだろう。
見つめあって笑い合う二人を、その場に控えていた護衛はそんな風に思いながら眺めていた。
――後日、ファルケスがリディアを襲ったのは決して彼女を辱めようというつもりはなく、単純にクリフと手加減なしの本気の勝負がしたかったから、と言われたものの。
まぁ、クリフとしてはその言葉を素直に信用できるかと言えば……という話だった。
ファルケスがどれだけ本当だと訴えたとしても。
リディアが妖精姫などと呼ばれるような存在でなければ。
もしかしたら、その言い分も聞き届けられたかもしれない。
けれどもどうしたって周囲からは、妖精姫狙いだと思われたのである。
公になっていないがこの一件を知る者たちの認識はそうだった。
「――で、最近ファルケス殿が復帰したみたいで。
どうにもきみと手合わせをするにはどうすればいい? って聞かれたんだけど」
「……ファルケス、殿? とは誰だったかしら……?」
「ほら、前にきみを襲おうとしてあっさりやられた」
「…………?」
「本気で忘れてる?」
「だってクリフ、いちいち踏みつぶした虫の存在とか憶えてます?」
更に後日、骨折も治ってどうにか復帰したファルケスが、強者との戦いを求めてクリフに是非彼女と戦いたいなんて訴えてきたことを、クリフはリディアと会う時の話題として出したのだけれど。
リディアはとっくに彼の存在を忘れ去っていた。
いやまさか、と思いつつも突っ込めば返ってきた言葉はファルケスが聞けばその場で崩れ落ちそうなもので。
確かに、下手に存在を認識されて気になる殿方扱いをされても困るけれど、ここまで綺麗さっぱり忘却されてるとか……とクリフは内心でファルケスが不憫に思えてならなかった。
世間的に見れば襲おうとしていた加害者と、襲われるところだった被害者だ。
であれば、いくら無事とはいえ心の傷になって忘れたくても忘れられないなんて事だってあっただろうに。
「きみが強い女性で良かった」
「そうですか? うーん、よくわからないですけれど、その人にはクリフに勝てたら考えてもいいと返しておいてください。これで解決です」
「解決かぁ……そうかぁ……」
「えぇ、だってクリフはわたくし以外に負けたりしないでしょ?」
あまりにも当然のように言われてしまい、クリフとしては思わずぽかんとした表情を晒してしまったけれど。
「ふふ、あぁうん、そうだね。そうだとも」
言われた言葉に、クリフは人前では見せる事のない、リディアの前でしか見せないような蕩けるような笑みを浮かべた。
リディアに追いつくための努力を惜しんだ事はない。
今までは騎士団でファルケスが試合を申し込んで来るのを面倒だなと思っていたけれど。
それが結果的にリディアをファルケスから遠ざけるためのものであるのなら、喜んでこてんぱんにしようじゃないか。
彼女から向けられた信頼に応えるために。
結果として、ファルケスはやはりリディアに横恋慕しているという噂が流れた。
リディアに何とかしてお近づきになろうとしているファルケスと、それを牽制しつつ叩きのめすクリフ。
そんな認識がされるようになり、最終的に一向に諦める様子がない事に危機感を覚えたダートマン家がファルケスを他国へ強制的に婿入りさせるまでこの騒動は続いた。
ファルケスは最後までリディアが強者であるのだと訴えていたけれど。
悲しいかな、彼女は普段実力を隠しているし、見た目は戦いとは無縁な妖精姫なので。
誰からもその言葉を信じてもらえなかったのであった。
もし今後彼女の真の実力が明るみに出る事になったとしても。
きっとその頃にはファルケスはこの国にはいない。
確かな事はそれだけだ。
作品内のモブから見ると三角関係だけど実際は全然そうじゃないっていうね(´・ω・`)
でも現実でもよくあるよねそういうふたを開けたらなんか違うみたいなの。
次回短編予告
ある日父が愛人に産ませた子を連れてやってきた。
この装飾品、素敵ね。少しだけ借りてもいいかしら?
そんな風に言われて、娘はそれを許した。
いや、許したのではない。面倒だから放置したのだ。
次回 だってどうでも良かったから
好きとか嫌いとかいう以前に無関心なんです。
投稿はそのうち。