賽は投げられた
ケイト・ブレーク伯爵令嬢は王太子妃教育を受けていたが、心身衰弱により婚約者を辞退したいと申し出があった。
あの時何があったのか、詳しい事情はオルタンス本人と立ち会っていた令嬢の侍女と修道女だけが知っていたが、侍女は黙秘したまま伯爵家を退職してしまった。聖女オルタンスと修道女エイプリルは、『令嬢は突然心神喪失状態になってしまった。何か心に大きな負担があったのかもしれない』と答えた。
「おいたわしい事ですが、女神様の救いがありますよう、わたくしはただ祈る事しかできません」
聖女オルタンスの言葉は優しく、真摯であった。
王太子は婚約者については追い詰めて苦しめてしまったと、それ以上は語ろうとしなかった。事を重く見た王家は、明日の聖夜の儀式への王太子の参加を見送ると発表した。本来なら先代聖女という素晴らしい婚約者と共に聖夜の儀式に臨み、今代の聖女と共に我が国の未来永劫へと続く安寧を祈る筈だったのだが。
*
「つまり、ブレーク伯爵令嬢は禁忌の薬を使って王太子を始めとする貴族学院の生徒の感情を管理していたと、本人が曝露したんだな」
「そうなの。お茶に混ぜていたそうよ。まあ、想定内だったね。それより、令嬢とオルタンス様の義母とが想像以上に親しかった」
「そうだな。サフィーク夫人は隣国からやってくる時にブレーク伯爵を頼った。彼らは夫人の亡き夫が隣国の薬問屋の副支配人をしていた頃からの知り合いだとらしい。サフィーク公爵夫人に収まったのは、やはり禁忌の薬を使っていたからだろう。証拠はないがな」
エイプリルは銀食器を磨きながらマーティンと会話をしていた。
「そう。そして目的は夫人の実子である子息を、公爵家の跡取りとさせる為なのだそうよ。だけどそれだけでオルタンス様を排除しようと思うものかしら?」
「本来、一人娘のオルタンス嬢が婿取りをする予定だったのだろう。夫人の連れ子には継承権はないからな。血のつながりのない養子を後継にするなら親族から文句が出るだろうが、そこを言葉巧みに、或いは薬で公爵を操っていた」
「そんなに公爵位って魅力的なもんなの?」
「さあな。それで聖女にはなぜ幻覚剤が効かなかったんだ?」
「女神様が、薬を塗ってあるカップと入れ替えたと仰ったみたい」
もっとも実際にカップを入れ替えたのはケイトの侍女だろう。彼女は無意識に薬を塗ってあるカップとケイトが使うカップを入れ替えてしまった。本人はあの会談の時の事を何も覚えていないと言った。騎士が厳しく問い詰めたみたいだが、侍女は命令された通りの行動をしたというお前の証言が採用されたんだ」
だってあの人、何も知らないのに巻き込まれたのだからと、エイプリルは小さく呟いた。
「聖女が女神のお告げを聞き取れるようになった以外に、何か言うことはないか?隠していないか?
聖女は鋭いぞ。お前の隠し事に気付いているのではないのか」
「ああ、うん。時々わたしが二重に見えるって言われた。貴女の中にいるのは誰?って。
それでね、どうやらわたしの役目はもうすぐ終わるみたいなんだ」
「どういう事だ?」
「オルタンス様に力をお渡しするの」
「……するとお前はどうなるんだ?普通の娘に戻れるのか?」
「さあ、わからないわ。
あ、あのね、明日は大変だから、マーティン頑張ってね」
エイプリルの態度は怪しいし、銀食器を磨く手が止まりがちで、マーティンは彼女からフォークとナイフを取り上げた。危ないからだ。
「何をどう頑張れば良いか聞いていいか」
「大立ち回りがあります、多分。修道女たちは安全な場所に待避させて。あと聖騎士様に加護を授けたって。彼の恋情は本物よ。聖女の心も動いているらしい」
「はあ、なんだよそれ。俺武道派じゃないぞ。真面目な聖職者なのに」
まあまあとエイプリルは宥めた。
「本番の夜に何かあったら嫌だもの。頑張って」
「お前は?お前に危険はないのか?」
嬉しいなとエイプリルは思う。育ててくれてこうやって心配してくれて、マーティンは本当に良い人だと思う。だからこそ彼には幸せになってほしい。
この世界に生まれてきて17年。その間、マーティンの人生を縛り付けてきたのだ。
「エイプリルに何かあったら俺は生きてはいけない」
「なあに、それ」
「気がつけよ、ばか。俺はいつだって聖職者なんて辞めていいと思っているからな」
「やめてどうするの?天職なのに」
「はあ、手強い」
「育てた人のせいだよ」
気が付かないふりをするのも案外大変だ。
*
聖夜の前日。
聖女オルタンスは勤めの祈りを終えても、自室で静かに祈り続けていた。
ケイト・ブレークの行動は衝撃だった。自分を嫌って追い詰めたのだろうとはわかっていたが、ただ王太子妃になりたいというだけで、あんな暴挙にいたった事がショックだった。
それでも大聖堂に来て2ヶ月で自分は随分強くなったと思う。言葉を慎重に話す癖は残っているけれど、それでも理不尽を我慢せず、言葉にして伝えることが出来るようになった。
これも全て女神様のお導きでしょうか?わたしの祈りは女神様に届いていると信じて良いのでしょうか。
オルタンスは母の形見の真珠の首飾りを取り出した。装身具を身につけてはいけない決まりはなかったが、これまでは付ける事がなかった。しかし明日の聖夜には真珠で身を飾ろうと思った。思い返せば聖女選定の儀式では女神様の祝福が真珠の涙となって具現化したのだ。お母様、見守ってくださいね、とオルタンスは祈った。
「エイプリル様は一体何者なのでしょう。あの方の中には女神様がいらっしゃる」
そしてオルタンスは想像するのだ。もしや、エイプリルは女神様がこの世に現れるための仮の姿なのではないかと。
いつの間にかオルタンスの世話係のようになって、聖騎士とともに常にそばに控えているエイプリル、しかしその顔を思い浮かべようとするとどうも輪郭がぼやけてしまうのだ。
聖騎士ルドルフの顔ははっきりと思い浮かべられるし、その背の高さもすらりと伸びた背筋も歩幅の広い歩みすらわかると言うのに。
もし、エイプリルが女神の仮の姿だとすれば、いつかは居なくなってしまう存在なのだろうか。
オルタンスには気がついていない事がある。他の修道女達や司祭達が、エイプリルの姿を捉えていない時がある事に気が付いてはいない。彼女はいつも側に侍っているが、修道女としての仕事をしているのかどうかを知らない。人手が足りないとぼやく大聖堂の職員達が、エイプリルに仕事を命じることがあるだろうか。
物思いに浸っている時にドアがノックされた。部屋を訪れたのは聖騎士だった。
律儀にドアの前に立ったルドルフは、お休みになっておられなくて良かったと照れたように笑った。
「明日はいよいよ聖夜の儀式です。公爵家の皆様もいらっしゃると伺っております。
何があっても聖女様をお守りいたします。この命をかけても」
「そんな事に命などかけないでくださいね。聖騎士様はいつも守ってくださってます。どれだけ心強いかおわかりにならないでしょう」
ルドルフは反射的に跪いていた。
「私は、永遠に貴女の騎士としてお側でお仕えしたいのです。お慕いしております。こんな感情は不適格であるかもしれません。しかし聖女である貴女を一生守り抜くという私の気持ちに偽りはありません。
どうかこの誓いをを受けてはいただけませんか」
跪くルドルフにオルタンスはその白く華奢な手を差し出した。ルドルフは彼女の手をとるとその指先に小さくキスをした。
「聖騎士ルドルフ様。そのお気持ちしかと受け取りました。我が身は女神様に捧げられしものなれば、全ては女神様のご采配により決まることでしょう。
其方のその気持ち、その言葉に嘘偽りなく貫き通すのであれば、女神様によって与えられる試練をきっと乗り越えられるでしょう」
『オルタンスは自分の幸せを願っても良いのです』
どこからともなく、女神様の声が聞こえた気がした。
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本番前日です。
聖女の恋と司祭の思いは叶うのでしょうか。