家を捨てる決意
その頃、サフィーク公爵家は混乱していた。オルタンスお嬢様が今年の聖女に選ばれたのだ。しかも、女神像が真珠の涙を流すというという奇跡のおまけ付きで。
昔から勤めている使用人達はお嬢様がようやく正しく評価されたと泣いて喜んでいだが、父親の公爵は苦い顔をしていた。まさか娘が聖女に選ばれるとは思ってもみなかったのだ。
気が強く我儘な娘が、どうしても今年の聖女選定の儀式を受けたいと頼んできたので仕方なく許したが、世間で噂されているように金の力などは使っていない。娘にそんな金を積む価値はないと思っている。だからこそ、オルタンスが選ばれるはずはなかった。それなのにあの真珠、あれは一体どういう仕組みになっているのだ。
公爵は娘が全く理解できない。前妻との間に生まれた娘を蔑ろにするつもりはないが、自分や義理の母と弟に心を閉ざすその態度が気に入らないのだ。
後妻の連れ子のアーテルは15歳で既に養子縁組も済ませ正式に公爵子息となった。大層賢く美しく凛々しいその息子が、姉上に嫌われ避けられているなどと言うものだから、公爵はオルタンスを厳しく叱責した事があった。それ以来娘から話しかけてくる事が少なくなったような気がするのだが。
昨年の選定の儀式の際は、行きたくないと言った娘に、公爵家の娘としての責任を果たせと厳しく言い渡した。オルタンス自身の評判が悪くても公爵令嬢なのである。同年代で一番身分の高い我が娘が聖女に選ばれるだろうと思っていた。その為に昨年は多額の寄進もした。ところが選ばれたのは、新興貴族の伯爵家の娘だった。しかもその場にいた王太子が聖女を婚約者にすると宣言したから、公爵は怒りのあまり、娘に向かってお前の価値はないと言い放ってしまったのだった。
その後でなんて事を言ってしまったのだと後悔したが、妻が「魅力のないオルタンスさんが悪いのよ」と言うので、少しほっとしたのだった。娘が悪いのだ。
王太子妃への道を閉ざされたからには、少しでも公爵家にとって有益な婚姻をさせねばと、後妻を探していた年配の辺境伯に嫁に出す事にした。娘の幸せを願ってこそである。どうしようもない傲慢な娘に婚約の打診などあるわけもないのだから、貰ってくれるだけで有難いし、辺境との繋がりも欲しい。
ところが、最後にもう一度だけ選定の儀式を受けたいと娘が懇願してきた。
「今回も選ばれなかった場合は、お父様の言うとおり辺境に嫁ぎます。最後の我儘を叶えていただけませんしょうか」
久しぶりの娘との会話が聖女選定儀式だとはなんとも心寂しいものだと、公爵は少しだけ残念に思った。
いつから娘との会話が無くなったのだろうか。
多忙を理由に娘の話をすぐに切り上げたが、オルタンスはあの時何か言いかけてはいなかったか?
しかしそんな公爵の反省も長くは続かなかった。妻と息子が嬉しそうに言うのだ。
「これで漸く厄介払いできますわね。学院での評判も悪く恥晒しの娘など、公爵家には不要ですわ」
「これで母上が名実ともに我がサフィーク公爵家の女主人となるのですね、いつも母上を見下していた、あの陰気な顔を見ないで済むと思えばせいせいしますよ」
何だと?こいつらは何を言っておるのだ?
オルタンスは私の血を引く唯一の子どもなのだ。それを厄介払い?せいせいする?
何かがおかしい、違う、私はオルタンスを大切に思っている。そう言いたいのだが、口をついて出てきたのは、ああ、全くそのとおりだ、という言葉だっだ。
*
オルタンス・サフィークは自分が聖女に選ばれた事が信じられなかった。
王太子の婚約者候補として、幼い頃から厳しい教育を受けてきたせいか、他人前で感情を出すのが苦手だ。だから顔の表情を変える事なく常に冷静で、面白みのない人間だと思われ、しかも整いすぎた美しい顔をしていた事が仇となり、公爵令嬢は何があっても表情を変えない冷たい人間だと言って敬遠されていた。
本人はのんびりしている性質なので、問いかけに対して気の利いた返事をしたくとも、言葉を選んでゆっくり考えている間に怒っているとか無視されていると勘違いされるのだ。
その上厄介な事に、王太子の婚約者候補同士の争いに巻き込まれてしまった。
王家についで身分が高く、高貴で美しいオルタンスは婚約者候補の筆頭であったので、他の候補者達からすれば共通の敵だった。彼女らは結託して公爵令嬢を貶める事に、全く罪悪感を持たなかった。
そのうちに王太子は新興貴族の伯爵令嬢と仲良くなり、その2人の邪魔をする悪女として真実ではない噂を流されて孤立した。
本来なら味方になるべき義弟は自ら姉の悪口を言いふらし、父親は義母と義弟の言葉を信じてオルタンスを責めた。オルタンスは孤独だった。
なんだか人生に疲れ切ってしまった。誰も自分を信じてくれないし、自分がいてもいなくても誰も気にしないのだと虚しくなった。
そんな中、父親が辺境伯の後妻の話を持ってきた。お相手はかなり年配であり、既に後継者もいるから後継を産む義務はない。いっその事、辺境へ行くのも良いかもしれない、そこに居場所があるのならどこでも良い。どのみち誰も自分の為に憂いてはくれない。オルタンスは諦めていた。
しかしその夜、夢に女神様が現れて、聖女選定儀式を受けるようにと告げられたのある。
目覚めたオルタンスは悲壮な決意をもって、父公爵と向かい合ったのだった。
*
オルタンスは聖女に選ばれたので来年一年は聖女として大聖堂で生活して奉仕活動をする、とサフィーク公爵に告げた。その上で、辺境伯との縁談はお断り願いますとも伝えた。
「しかし、この縁を逃しては、もう二度とお前に縁談があるかどうかわからぬぞ」
「はい、覚悟の上です。わたくしはそのまま修道女として女神様の御許で生きるつもりでおりますから、どうぞわたくしをこの家の藉から抜いてくださいませ」
オルタンスは既に身の回りのものを片付けていた。亡き実母の形見の宝飾品と動きやすいドレスを少し、それらを持ち出すことを許してほしいと父に願い出た。
サフィーク公爵はオルタンスの言葉に衝撃を受けた。いくらなんでも娘を追い出すことなど出来ないと思って、駄目だと答えたところ、オルタンスは持ち出すことを禁止されたのだと思った。
「ではひとつで良いのでお母様の形見を……」
「い、いや、良いのだ。全て持っていきなさい」
後妻は形見の品を持ち出す事に不快感を示したが、それでも引き留める事なく、ああそう、元気でと言った。義弟も同じくである。そんな中で公爵だけは釈然とせず、胸の中に広がる苦い感情に吐き気すら催す程だった。
何故、公爵家の娘が家を出なければならないのだ?藉を抜くだと?一体なぜそんな事になったのか?
オルタンスは心優しくおっとりした娘で、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だ。亡くなった妻からら、オルタンスを幸せにしてあげてと頼まれていたではないか。娘よ、行くな、行かないでくれっ!
公爵は手を伸ばし、娘に触れようとしたが、寸前でその手が止まった。
「旦那様、オルタンスさんを引き留めてはいけないわ。女神様のお導きで彼女にふさわしい人生をおくる事になるのですから、祝福してあげなくてはいけません。望み通りに除籍してあげるのが女神様のご意志なのですわ」
後妻のねっとりした声に、公爵は娘に伸ばしていた手を引っ込めた。
*
その頃大聖堂では聖女を迎える準備で慌しかった。これまで聖夜の儀式の為に大聖堂で過ごすと言い出した聖女はいなかったのだ。
「こんな貧乏くさい部屋で過ごせますか!って怒鳴られそうよね。物を投げ付けたり?」
「食事だって、文句言いそうだわ」
修道女達はくすくすと笑いあっている。全く意識が低い事だ。エイプリルは呆れていた。
「それでもオルタンス様は聖夜の前から大聖堂でお過ごしになられるのよ。昨年の伯爵令嬢は聖夜当日しか来られなかった。しかも王太子殿下付きだったから、面倒くさくて随分と困ったじゃない?」
「そうね、早めに来てちゃんと日々のお勤めもこなして聖女としての祈りを捧げる、その気概は評価するわ。たとえ我儘意地悪令嬢でもね」
「これまでの噂はどうでもいいの。こちらに来たからには、聖女様といっても我儘は言えないわよ」
世間に流布している公爵令嬢の悪い噂を、同僚達は信じ込んでいる。エイプリルだって聖女の事をよく知っているわけではない。
「とにかく噂や先入観ではなく、ご本人を知って正しく評価して差し上げないとね」
とそこへ、マーティン司祭に連れられたオルタンスがやってきた。護衛として聖騎士が同行しているのはオルタンスが公爵令嬢であるからだろう。
長い金髪を一つにまとめ修道女と同じ黒地の地味な修道服を着て化粧もしていないが、かもしだす気品は隠しきれていない。
「皆様、この度恐れ多くも女神様の御導きで聖女に選ばれ得たオルタンスでございます。どうぞよろしくご指導願います」
美しい姿勢で軽く腰を折って礼をするオルタンスに、エイプリル達修道女は感嘆の声を漏らした。
「オルタンス・サフィーク公爵令嬢は、聖女として選ばれた事に誇りを持ち、自分のなすべきことと真摯に向き合う覚悟でいらっしゃる。その高潔な魂は女神様のお導きによるものである。その意味を重々理解して、聖女様に対してくれぐれも粗相のないように」
「いえ、司祭さま。わたくしはサフィーク公爵家から籍を抜く身です。たとえお飾りであっても聖女として選んでいただいたからには、この身は一生女神様にお仕えしたく存じます。
聖女としてのお勤めが終わりましたら、正式に修道女になりたいのです。どうぞわたくしの願いをお聞き入れくださいませ。
皆様のお仲間になるのです、仲良くしていただけると嬉しいですわ」
オルタンスはその美しい顔に柔らかな微笑みを浮かべていた。
「聖女様、その意思が誠のものであるのなら、私どもは貴女のその願いを受け止めましょう。女神様は全てをお見通しであられる。
貴女が生きてきたこれまでの軌跡を全てご存知なのです。それゆえ、貴女が聖女に選ばれたのでありましょう」
マーティン司祭のその言葉は、オルタンスの胸を熱く震わせた。
ここにはわたしの居場所があるかもしれない。涙が一筋頬を伝った。
お読みいただきありがとうございます。
オルタンスはいわゆる悪役令嬢ポジションです。
父親のサフィーク公爵はどうもなんか操られている感じがあります。




