【第三話】
「こ、この前、言ってた、小料理、屋さん」
「あら、覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
走ってきたばかりなのに息一つ乱さずそう語るお姉さんの隣で、私は肩で息をしながらもその古民家を眺める。よく見てみると、綺麗にメンテナンスしているのか古いながらも趣のある立派な家だ。
広そうな庭には、この店の名前と同じ、鈴蘭が花壇に植えられていた。その鈴蘭の甘く優美な香りが緩やかな風にのって私の鼻孔をそっとくすぐる。
「綺麗な鈴蘭……」
「でしょう? もっと近くで見せてあげたいんだけど…まずは食事が先ね。さあ、入って」
「え……はい」
引き戸を引くと、しゃりん、と鈴の音がする。その中は古民家をリフォームした和風カフェのような内装でありながらも、よく小料理屋にあるような慣れ親しんだ場所という雰囲気も感じられた。
「適当に座ってね。なにか食べたいものはある?メニューに載っていなくても食材は揃ってるから、ある程度のものは作れるわ」
そう促されてカウンター席に腰を下ろした私は、お姉さんから渡された手書きのメニュー表に目を通す。卵焼き…茶碗蒸し…オムライス…プリン…。なんだか卵料理が多いなと思い、微かな笑みをこぼす。でも、お姉さんの方を見て、申し訳なさのほうが勝ってしまう。
「あの、やっぱり、無理です。タダでご馳走になるなんて……」
「遠慮はいらないわ。昨日も言ったはずよ?」
「でも……」
「ほら、肩の力を抜いて。リラックスして好きなだけ食べなさい」
「ありがとう、ございます」
「気にしないで。なににする?」
お姉さんにそう聞かれて、私はもう一度メニュー表を眺める。最初におでん、という文字が期間限定という言葉とともに、吹き出しで囲まれているのが目に入る。
「じゃあ……おでんが食べたいです」
「ええ、分かったわ。苦手な具材はあるかしら?」
「いえ、特には……」
「そう。ちょっと待っててね」
そう言ってお姉さんは、キッチンのような所へと姿を消した。改めて店内を見渡すと、伝統を重んじるような厳かなお店。というような感じではないけれど、あのお姉さんの温もりのようなものがあり、なんだか優しさで包まれているかのようだ。
そんな事を考えていると、ふとお出汁のいい香りが漂ってきた。目を瞑り、耳を澄ますと、キッチンから色々な音が聞こえてくる。お鍋の中が沸騰してグツグツした音やお皿を取り出すカチャッという音、お玉で鍋の中をかき混ぜるカランという音。
日常の中でよく聞く音ではあるのだろうけど、静まり返った朝早くに聞くその音は、まるで軽快なリズムの音楽を聞いているかのようだった。