海の見える街
朝が来た。島中を駆け轟いた昨日の雷雨が嘘のような晴れである。窓から日の光が差し込み、目が眩む。一階から母が料理を作る音がかすかに聞こえる。今日は土曜日だが、半日学校があるので、布団から出ねばならない。こういう、うすら面倒な休日を私は地獄と呼ぶ。友達も地獄と呼ぶし、先生もときどきそう呼ぶ。やめてしまえばよいのに、と思うが、誰一人として教育関係の偉い人に直談判したりはしない。そもそもそんな人がどこにいるのか分からない。きっとそんな人はもっと大事な仕事があるのだし、私はその邪魔をしないでおこう。
私はやや急いで階段を降りた。おはよう、と口が動くが声にはならず、おっ……ッと喉がつかえた。喉が乾燥しているらしい。もう一回おはようと言おうとし、実際こんどは声になりそうだと思った「お」の音が出るほんのわずか前、
「おはよう」
と母が言った。先手をとられた私はまたも喉がつまり、背中を曲げ、滑稽な姿勢になりながら右手をあげて挨拶を表示した。母はそんな私の内部の奮闘に気が付かない。
「今日は目玉焼きだけど、あんた何かける?」
「……『朝の幸せシリーズ ツナペースト』」
「それトーストにかけるやつでしょ」
「いいの」
「そ」
私は目玉焼きを食べるとき、あるルールを設けている。実験をすることだ。目玉焼きに何をかけるかということで論争が起き、武力が行使され、村が壊滅したという噂があったりなかったりするこの世界で、私はあえて、あらゆる可能性を試すのだ。塩胡椒も醤油もソースもマヨネーズもケチャップも試し、その他十何種類かのスパイスも試し、ご飯にかけるやつも試し、昨今はトーストにかけるやつを試している。
「いただきます」
……やはり醤油が一番だ。
こうしている場合ではない。遅刻する。現在は七時半。授業は八時半からだが、高校は島の外にあるので船が必須で、それは一時間弱かけてのんびりと本州を目指す。私が置かれた状況は、いわゆる、ギリギリ、というやつだ。
「もっと早く起こしてよー」
「自分で起きなさい」
朝から母と小競り合い鍔迫り合いを繰り広げ、ようやくスニーカーに足を滑らせる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
家の前から港までは大体一本道で、行きは下り坂である。腕と足をバランス良く繰り出し、自己ベストとも言える走りでかけてゆく。ウサインボルトは遅刻しそうなときにあのスピードで走るのだろうか、なんてどうでもいいことで脳が酸素を消費する。もしかすると遅刻しそうな陸上選手は自己ベストを容易に更新しちゃうんじゃなかろうか。ウサインボルトを遅刻寸前に追い込んだら八秒台が出るかもしれない。人類は遅刻によって、叡智では乗り越えられぬ肉体の壁を、突破する。
潮の香り。海が見えてきた。
私の好きな風景はまさにこれである。朝早くに漕ぎ出した漁船が帰ってきて、何やらおじさんたちが仕事をしているのが遠くに見える。昨日は悪天候だったけれど、それは漁にどう影響するんだろう。父は漁師ではないし母も島の外から来た人間なので、私はその手のことに詳しくない。普通の日より獲れるのかな。変わらないのかな。
一匹の大きな魚が現れた。
一瞬の出来事である。
今年の漢字は「巨」となった。
それの生息域は「常識の外側」であった。それはたまに近くを通る観光フェリーの百倍の大きさで、背びれが海面に現れた時の波紋で大波が起こった。それが体をもたげた時、近くを行く船はひしゃげて見えなくなった。それはどうやらグングン大きくなっていくらしく、気づけば港を飲み込んでいた。私が飲まれるのも時間の問題だと思ったが、それはまたしても突然あっけなくしぼみ、切り身と変わらぬ大きさになってしまった。
私はアスファルトに落ちたそれを拾った。もう死んでいるらしかった。
もう一度海の方を見た。港は無惨な姿になっている。一昨日挨拶したおじさんは、あの辺に住んでたから多分死んでいる。父と仲が良いおじさんは、あの赤い船の漁師だったから、そうか、沈んでいるのか。安い美味いでお馴染みの「平野鮮魚市場 うまし食堂」は、その看板が沖へ流されていくのが見えた。
地獄だ。
「おかーさーん」
「何よ。学校は!? 遅刻するよ!」
「これ拾ったから冷やしといて。夜食べる」
「何よこれ……って、ちょっと待ちなさい」
私は母の制止を振り切って再び走った。
もう遅刻は確定だろうし、今日の事件のせいで(おかげで)遅刻扱いにはならないだろうけど、走った。駆け抜けた。港へではない。港はもう無い。どこにも駆けてはいない。ただ駆けた。それだけだった。
「夜になったら食う。やつを食う」
走りながら口の端からこんな言葉がこぼれた。
「食う。ぜったいくう。ほねまでくってやる」
気づけば涙が溢れていた。足は止まらない。止めない。
私は港だった場所にたどり着いた。疲れは感じなかった。制服が汗で肌に張り付いてむかついたので、脱いだ。女子高生が下着だけになったが、そこにいたのはもはや、女子高生を被った怒りそのものであった。
私はその場にしゃがみ込んでわんわん泣いた。後ろから全てを知った母が駆けてきた。朝のニュースで急遽中継されたらしい。泣きじゃくる私の姿を画面に見つけ、ことの重大さに気づいた母がいよいよやって来たというわけである。
「帰ろう」
「……うん」
夕飯はやつの塩焼きだった。頭部は取り外され、小骨まで取り除かれていた。母は魚の小骨を取るのが上手い。
「ザマアミロ」
私は食べてすぐに布団にもぐった。しばらく布団から出たくなかった。
中継のヘリコプターの音が聞こえていた。