1 小野君と氷室さん
「私、ふと思ったのよ」
それは掃除時間の時だった。
「結婚したら苗字が変わってふつうは違和感を感じるものだけど、私と小野君が結婚しても違和感ないんじゃないかって」
なんて言いながら、彼女は手を動かしている。僕は耳が熱くなってきたというのに。
反応に困った、返事が出来ない。
氷室さんが言った。
「小野賢二、氷室雪」
小野賢二は僕、氷室雪は氷室さんのことだ。
「もし結婚したらどちらかが苗字を変えるから小野由紀、もしくは氷室賢二」
氷室さんはうんうんと首を縦に振り
「やっぱり違和感ないわ、どちらも自然で合っているわ」
「そ、そうだね」
僕と氷室さんは付き合っていないのに、二人が結婚した世界戦の話なんて・・・もしかして、氷室さんは僕のこと・・・なんて思ったけど、いつも何考えてるかわからないし、たまに変なこと言ったりするから大した意味なんてないか。
そう思うと、耳に溜まった血液は引いて行った。
「でもさ、慣れ親しんだ苗字が変わるんだよ、例え字面に違和感がなくても誰だって違和感があると思うよ」
「あら、じゃあ小野君は氷室に変わったら違和感を感じるの?」
彼女は相変わらず手を動かしている。
「そりゃ、まあ・・・」
氷室賢二、うん、やはり違和感を感じる。
「でも大丈夫よ、私が小野に変ればいい、小野雪と名乗ればいいのよ」
氷室さんは顔色も表情も崩さず、抑揚のないトーンで言い出す。それに対し僕はきっとさっきより赤くなってるに違いない。
時は夕暮れ
この高校に入学してから早一か月が経った。
僕は今一つの問題に悩まされながら学校のベンチに座っていた。傍から見れば僕は考える人だ。
「僕の悩みなんて、他者からすれば大したことのない些細な悩みなんだろうけど、青春を謳歌したい僕にとって本当に・・・」
と、静かに独り言をいっていたら、左肩に重みを感じた。制服越しではあったが、女性の手だと分かった。
「小野君、こんなところで何を悩んでいるのかしら」
声と手の持ち主の方向を振り向くと、そこにはサファイアの様な青い瞳で僕を見つめる氷室さんがそこにいた。
「氷室さんこそまだ帰っていなかったんだ」
「いろんな人に声をかけられて足が進まなかったのよ」
彼女の白い額には少しの汗が。
「そうなんだ」
こんなにきれいで、だけど謎めいている人がいたら、気になって声かけちゃうよね。
校庭から野球部の掛け声が聞こえてくる。
皆、血と汗を流しながら一生懸命頑張っている。
「よっこらセックス」
僕は何も聞いていない。氷室さんはただ僕の横に腰を掛けただけだ。
「はいこれ」
「ありがとう」
氷室さんの手には僕の好きなミルクティーがあった。
手に取った時、菅は冷たい寄りの常温だった。きっと彼女の手によって温められたんだろう。
僕の一番好きな温度だ。
「明日御金返すよ」
「押し間違えただけよ、気にしないで」
「そうなんだ、でもありがとう」
僕は缶のふたを開けて、ゆっくりと一口飲んだ。
「うまい!」
甘党の僕にとって、甘々すぎるミルクティーは僕にとってのキャビアとフォアグラとトリュフなんだ。
「あなた本当にミルクティーが好きなのね」
氷室さんはそういうと、僕と同じミルクティーの缶のふた開けた。相当のどが渇いていたのだろうか、顎を空に向けて口に含んだ。喉から、ゴク…ゴク、と音が鳴る。
輪郭がしっかりした横顔の向こう側には茜色の空があって、彼女の美しさがより映えていた。
僕は気になって質問した。
「なんで僕がミルクティーが好きだって知ってるの?僕氷室さんにそんなこと言ったかな?」
喉の音が止まった。徐に手と顎をを下した。
「・・・」
氷室さんさんはなぜか反応に困った表情をしている。不謹慎だけど、困り顔もとてもきれいで僕はほんの一瞬見惚れていた。
氷室さんは逃げるかのように、茜色の空に視線を移した。僕も何だか可哀想だと思ったので、それ以上何も言わず空を見た。
茜色の空を見ていたら、何か胸に染みるものを感じた。わびしさというか寂しさというか・・・。
氷室さんはこの空を見て何か感じただろうか。
そんなこと思いながら、いつの間にか夜が見え始めていた。そろそろ帰らないと。
「氷室さん、僕そろそろ帰るね」
「待ちなさい」
立ち上がろうとした僕を制止した。
「小野君は女の子をこんな夜道に一人で帰らせる気かしら」
僕はぐうの音も出なかった。確かに女の子に夜道は危険だ、氷室さんだと余計に。
「じゃあ一生に帰ろうか」
氷室さんは徐に立ち上がり、僕と並んで歩いた。
立ち際、ほんの一瞬微笑んでいた。