第七話 求愛するお人形
「兄様ぁー……騒がしい客人は、懲らしめてくださいました……?」
イリアの背後の扉から、眠そうに目をこすりながら、小さな女の子が入ってきた。
青みがかった長い髪を頭の左右で結んでいて、それだけで可愛いのだが、ツインテールに挟まれた顔はイリアと同じぐらい美少女だった。
ただ、イリア――女神アイリでもいいけれども――がアイドル的な可愛さなのに対して、広間に入ってきた女の子は、フランス人形のような可愛さ、といえばわかるだろうか。
とにかく、ジャンルの違う可愛さをそれぞれが持っていた。
兄様って呼んでいたから、この子が吸血鬼の始祖兄妹の妹、ヴァネッサか。
元の世界で、クラスのみんなは、お兄ちゃん羨ましい、とよく言っていた。
しかし、私はお兄ちゃんのことは好きだが、どちらかといえば妹がほしかった。髪を結んであげたりしてみたかった。
……この子、私の妹になってくれないかな。
「あら……イリア、おはよう」
ヴァネッサは入り口の近くにいたイリアに気付いて、のんきに朝の挨拶をしている。
広間の奥の段差に立つ私には、まだ気付いていないようだ。
「おっ、おはようございます! ヴァネッサ様」
イリアは、慌てて両足を揃えてからお辞儀をした。
メイド服の黒いひらひらスカートと、ニーソックスの間の領域が一瞬広がって、こちら側から見ている私をドキッとさせた。
「あーあ……兄様の眷属でなければ、私があなたの血を吸えるのに……」
顔を上げたイリアの頬に、ヴァネッサは艶かしく手を添えながら言う。
ずいぶんと色っぽい少女だなと思ったが、千年以上の永きを生きているのだろうから当たり前か。
ちなみに色っぽいと大人っぽいは同義ではないので、あしからず。
ヴァネッサは、イリアよりもほんの少し背が小さいようだ。
「でも、ヴァネッサ様……私は、まっちょではありませんよ?」
イリアはどぎまぎしたように、ヴァネッサの言葉に返答する。
意外と……良好な関係なのかな。
慌ててはいるけれども、イリアの声には恐怖というものが感じられなかった。
「いつも言っているでしょ。メインディッシュとデザートは別腹なの」
くすくすと笑いながら、ヴァネッサはイリアの肩をぽんぽんとたたく。
「ところで、あにさ――……えぇっ?」
こちらを向いたヴァネッサは、王様椅子に串刺しになっているヴァラド――兄、頭部がもやもやと復元中――と、その隣に立つ謎の女――知らない人間、確実に犯人――を見たのだろう、驚きの声を上げた。
「おはよう、ヴァネッサ」
タイミングがよくないなぁ、と私は笑顔を取り繕いながら、ヴァネッサに挨拶をする。
私がぺこりと頭を下げてから上げるまで、ヴァネッサの目は点となったままだった。
「ヴァネッサ様……」
イリアが声をかけると、ヴァネッサはハッと我に返ったようで、軽く頭を振る。
青いツインテールがさらさらと揺れて煌めく。
「イリア……これは、どういうこと?」
美しい碧眼で私を睨みながら、ヴァネッサは自分の隣にいるイリアに問う。
「え……えぇと……」
困ったようにヴァネッサと私を交互に見やるイリアは、小動物みたいで可愛い。
可愛いから、もう少しこのままに……とも思ったが、可哀想なので助け船を出す。
「私は、サナ。あなたのお兄様にお話があって来たんだけど、ちゃんと聞いてくれなかったから、こうなっているの」
うん? だいたい合っているかしら?
確か最初に、話し合うために来たって言ったと思うから、間違ってはいないだろう。
話を聞かないと頭を失う、というのも怖い話ではあるけれども。
「ヴァネッサ、おとなしく私の話を聞いてくれないかしら?」
無理かも、と思いながらも、私は一応提案してみる。
ヴァネッサの瞳は澄んだ青色だったのだが、徐々に真紅に変わっていく。
先ほどのヴァラドもそうだったように、怒っていると瞳の色が変わるのだろう。
「話を聞く……そうね、聞いてみるわ」
そう言ったヴァネッサの姿が揺らいで、一瞬で消える。
私は足を振りかぶり、ワニワニパニックよろしく私の影から出てきたヴァネッサの頭を蹴り飛ば――そうと思ったけど、可愛い顔が目に入っちゃって、できなかった。
近くで見ると、破壊力が違う。抱きしめたい。
私の首ちょんぱキック――未遂、可愛いって正義――を、ヴァネッサは格段の可愛さによって防いだ。
そして、影から飛び出た勢いのまま、鋭く伸びた爪を有した手刀を私の首に下ろす。
「お前の死体に――ぃっ!」
ヴァネッサの殺し文句は、私の心には届かなかった。
鋭い爪は私の首に侵入することは叶わず、鈍い音を発して根元から折れる。
数本の折れた爪は宙を舞い、途中で黒い霧となり消えていく。
確実に私を殺せるはずの、攻撃だったのだろう。
ヴァネッサは私の首に手を添えたまま、唖然としている。
私はゆっくりとヴァネッサのお腹に右足の裏を押し当てて、そこから一気に前方に蹴り出した。
そういえば、私はまだ裸足だったのか。あとで靴かなにかをもらうことにしよう。
声を発することもできず、大砲の弾が発射されるように飛んでいったヴァネッサは、壁に叩きつけられる。
放射状に影が散らばり、漆黒の向日葵みたいな花を咲かせる。
壁に掛かっていた装飾品のいくつかが、派手な音を立てて床に落ちた。
「さて、話……聞いてくれるかな?」
壁にめり込んだ状態のヴァネッサに向かって、私はぺたぺたと歩きながら問いかける。
ヴァネッサの姿は、飛び散った影によって曖昧なものになっている。
「……なに、この魔力……人間なの?」
黒い影のかたまりから、ヴァネッサのくぐもった声が聞こえる。
「あら、魔力を見ることができるの?」
ヴァラドもそうだったが、どうして始めから使っていなかったのだろう。
私をサーチ――この魔法を彼らがどう呼んでいるのかは知らないけれど――しておけば、もう少し対応の仕方が違ったのではないだろうか。
「人間が……こんな魔力……あり得ない……」
私の問いに答える余裕もないのか、ヴァネッサはぶつぶつとつぶやき続ける。
なるほど、基本的に人間の力量なんて測る必要もなかったということか。
まあ、これが――少しずるいかもしれないけれど――人間の力だ。
「わかったでしょ? あなたたちでは、私には勝てないって」
ヴァネッサの細い腰を両手で抱えて、壁から引っこ抜く。
ガラガラと、壁の破片が床に落ちた。
ヴァネッサを持ったまま、私はとてとてと玉座のところまで戻って、兄のオブジェの隣に妹を下ろす。
その場にへたり込むヴァネッサは、とても恐ろしい吸血鬼には見えない。
どちらかと言えば、いまは私の方が悪役に見えると思う。
「よし……」
とりあえず、この場は制圧したと考えていいだろう。
ヴァラドはお腹に槍が刺さっているし、ヴァネッサは戦意を喪失しているようだし。
「……あの……」
蚊の鳴くような声だったが、いまの私が聞き逃すことはない。
聴力も、視力と同じように、良くなっているようだ。
「どうしたの、ヴァネッサ?」
声の主――ヴァネッサ、可愛い――の目線に合わせて、私はしゃがんでから問いかける。
顔を伏せていたヴァネッサは、私が近くに来たのを上目遣いでちらっと見る。
「あの……お名前は……?」
消え入りそうな声で、ヴァネッサは申し訳なさそうに聞いてきた。
たぶん、名前は覚えていなかったけれど、私が一回名乗ったことは覚えているのだろう。
別に気にしないので、もう一度自己紹介をする。
「私は、サナ。よろしくね」
どさくさに紛れて、ヴァネッサの頭をぽんぽんと撫でる。
絹のような手触りだった。ずっと撫でていたい。
「サナ……様……」
「うん……?」
私の名前をつぶやき、ヴァネッサはその響きを噛み締めるようにしている。
私を見つめる表情は、完全に恋する乙女のそれだった。
陶器のような白い肌はうっすらと桃色に上気して、ヴァネッサの青みがかる髪とのコントラストが蠱惑的だ。
私は危険を感じて、ヴァネッサから目線を外しながら、立ち上がる。
「危なかった……これが、チャーム……!」
もう少しヴァネッサを見ていたら、魅了の魔法にかかっていたことだろう。
私は心臓の鼓動を抑えるために、薄い胸に手を当てる。当てやすい。
「……お前とヴァネッサの魔力差では、チャームは効かないと思うぞ」
「あら? おはよう」
頭の復元が完了したヴァラドが、醒めた目でこちらを見ている。
きれいに治るものなんだな、と傷ひとつないヴァラドの端整な顔を見て思った。
それにしても、チャームではないですって? そんなまさか。
「こんなにドキドキしているのに、魅了されてないとでも?」
「そもそも血の支配が……いや、とにかく、魔法ではない」
なんだか呆れたような様子で、ヴァラドはため息混じりに言う。
むう……納得はいかないけれども、ヴァラドが嘘を言っている感じはしない。
「ねえ、お兄ちゃん。あなたの妹、どうしちゃったの?」
視界の外から、ヴァネッサの好き好きハートが飛んでくる――もちろん比喩だが――のを、ひしひしと感じる。
「お兄ちゃんと呼ぶな……!」
おお、怖い。
まあ、ニワトリは焼き鳥屋のおっちゃんのことが絶対嫌いだろうから、仕方ないか。
串刺しにしておいて、私のことを嫌わないで、なんて言うつもりはない。
怒気を見せていたヴァラドだが、怒っても意味がないと悟ったのか、軽いため息を吐いてから言う。
「ヴァネッサは、強さというものに憧れを抱いている」
あら、中学生の男の子みたいね。
もしくは、三ヶ月ぐらい山にこもる格闘家。
「自分を殺せるかもしれない存在に対して、わくわくするらしい」
「あなたたち、なかなか死ねなさそうだものね」
私は、ヴァラドのお腹に刺さる槍を見て言う。
人間だったら、一時間も保たずに死んでしまうだろう。
「まあ、健全なんじゃないかしら? 自分が強いからって、弱いものをいじめる誰かさんより好きよ」
私の言葉を聞いて、ヴァラドは反論のためだろうか、一度は口を開きつつも、そのままそれを閉じた。
「――ヴァネッサ、いいかしら?」
私は心を落ち着かせてから、ヴァネッサに向き合う。
油断していると、すぐに心が惹きつけられてしまうのだ。
「はい!」
私に名前を呼ばれたヴァネッサは、私の足下に正座する。
正座しろとは言っていないのだけれど、まあいいか。
「私は、あなたたち――吸血鬼の支配から、人間を解放するために、この街に来ました」
ヴァネッサは、私が喋る一言一句も逃さないというように熱心に耳を傾ける。
「ただ、吸血鬼を皆殺しにして……というのは、楽しいとあまり思えません」
私の言葉の前半を聞いて、なぜだかヴァネッサは嬉しそうにニヤけたが、後半を聞いて、残念そうに眉を下げた。
殺されるかもしれないというのが、わくわくするのは本当のようだ。
人間である私には――魔物たちにとっても、そうかもしれない――よくわからない感性ではあるけれど。
「だから、あなたたちには、人間と仲良く暮らしてもらうことにしました」
「なっ……!」
ヴァネッサは黙って頷きながら聞いていた――おりこうさんね――のに、隣のヴァラドが驚きの声を挙げて邪魔をした。
「ちょっと、お兄ちゃん。何か文句でもあるの?」
口をぽかんと開けたままのヴァラドを、私は軽く睨みながら聞いてみる。
「いや……無理だろう」
私の視線から逃れるように、ヴァラドは顔を背けて言う。
「まあ、あなたたちはプライドが高いようだし、ずいぶんと人間相手に好き勝手やってたらしいから、相容れないでしょうね」
いままで奴隷だ家畜だと思っていた人間と同じ立場になるのも、地獄の釜の主を許さなければいけなくなるのも、ヴァラドの言うとおり難しいことだろう。
「でも、あなたが無理だと言うならば、やっぱり、私はそうすることにしようかしら」
その方が楽しいからね、と私はヴァラドに微笑みかける。
私の言葉を聞いたヴァラドは、それに反論するのを諦めたように目を閉じる。
勝手にしろ、という意味だと私は解釈した。