第三十五話 狂乱の華
リンクさんたちの現状を知ってしまった以上、なるべく早く、楽にしてあげたいとは思う。
手が届く距離で、ただ見ていることはできない、という私のエゴだが。
「どのくらいかかると思っていたの?」
私とヴァネッサが立って話すと、身長の関係で――私が特別、背が高いわけではないけれど――威圧的になってしまいがちだ。
声の調子に、気をつけなければならない。
「三日……いえ、せめて、夜をまたがないと……」
言葉が迷子になりながらも、ヴァネッサは、おそらく正直に伝えてきた。
吸血鬼は、影の性質を持つ魔素で構成されているので、太陽の出ている昼間が苦手だ。
人間でいうと、サウナに入っているようなものだと、私は勝手に思っている。
そのため、夜にならないと本領が発揮できないのだ。
「うーん、一晩かぁ……私の血、飲む?」
私は――意図せず首筋を晒すみたいになったけど――首を傾げて、ヴァネッサに聞いてみる。
私はレベルが高い、五百八だ。
だから、その血は栄養満点、魔力がいっぱい。飲んだら三日は元気がもーりもり。
詳しくはわからないけれど、そんな感じなんじゃないかな。
「…………え?」
今度はテーマーパークで迷子になってしまったのだろうか、ヴァネッサは、なんとか絞り出すように一言を発した。
「私の血を飲んだら、頑張れるんじゃない?」
元の世界では、絶対に言う機会が訪れなかっただろう台詞を、私は繰り返す。
すると、数瞬の後に、ヴァネッサの瞳がぶわっと赤く、紅く光を放った。
あっ、という顔をしたヴァネッサは、両手で顔を隠すように覆って、俯いてしまった。
「……サナ様の血を……血を、飲む……」
顔を覆う手のすき間から、うわごとのようなヴァネッサの声が漏れてくる。
落ち着くために深呼吸をしているのか、ヴァネッサの腕に挟まれた、わりと大きな胸が上下する。
魔物と人間の、構造の違いってどうなっているのかしら。
ヴァネッサには、どきどきする心臓が備わっているのだろうか。
一際大きく、吸って、吐いてをしたヴァネッサは、ゆっくりと両手を下ろした。
しかし、その目はぎゅっと閉じられている。
「私、自分を抑えられると思えません……」
いったい、私の血を飲んだヴァネッサはどうなってしまうのだろうか。
気になるけれど、私も、目をつむったままのヴァネッサを前にして、自分を抑えるのに必死だ。
「ふむ……」
ヴァネッサから目を逸らしながら、私は顎に手を当てて考える。
けっきょく、アルラウネを捕らえるためには、ヴァネッサに頑張ってもらうしかない。
私の血をあげるのがダメとなると、他にできることは、なんだろうか。
ぽくぽくぽく……私の頭の中に、ぱっと天啓が現れた。
「じゃあ、ヒールを使ってあげる」
私の言葉に対して、ヴァネッサは閉じていた目を、おずおずと開いた。
「ヒール……治癒魔法でしたよね? 魔物である私が人間を治癒できないように――」
ヴァネッサが申し訳なさそうに、伏し目がちでもごもごと喋っている間に、私はヴァネッサに一歩近づく。
そして、ヴァネッサの肩を掴むために、左手を伸ばした。
「――サナ様が私に、魔力治癒を施すことはできませ……ん?」
私に肩を掴まれたヴァネッサは、不思議そうに私を見上げた。
滑らかなヴァネッサの肌が、私の左手に吸い付くようだ。
「ヒール」
私はそう言ってから、ヴァネッサの頬を右手で叩いた。ヒールではなく、ビンタだった。
森の静寂を破って、手のひらが柔らかな頬を打つ、ぱぁんと高い音が響く。
「つっ……え?」
突然の暴力に、ヴァネッサは、なにをされたのかわからないというように、唖然としている。
そこで、返す刀――手の甲――を使って、もう一度、今度はヴァネッサの逆の頬を。
「……サナさ――みゃっ!」
ヴァネッサがなにかを言おうとしているのに構わずに、私は手を振り切る。
先ほどよりも低い音が、ヴァネッサの頬から鳴った。ヒールではなく、往復ビンタだった。
「……どう? 元気になった?」
叩かれた勢いで、ヴァネッサは横を向いているので、その表情を窺うことはできない。
青みがかった髪のツインテール、その片方の揺れが収まるのを眺めるだけだ。
まあ、いつもヴァネッサは、お仕置きしろお仕置きしろとうるさいから、きっと喜んでくれただろう。
「……ふざけているのですか?」
私の方に顔を戻したヴァネッサは、瞳を紅くして、私をキッと睨んで言った。
「え……? ご、ごめんなさい」
予想もしていなかった――よく考えたら、叩いたら怒るのが普通だ――反応に、私はヴァネッサの肩から手を離して、思わずに謝ってしまう。
それにしても、怒っているヴァネッサも可愛いなぁ。ヴァネッサの後ろで、不安そうに私たちを見ているイリアも可愛いなぁ。
悪いことをしてしまったという罪悪感から逃避していると、ヴァネッサが私に言った。
「その程度で私が喜ぶと、お思いなのですかっ? もっと、強く! 鋭く!」
紅い瞳をらんらんと輝かせながら、ヴァネッサは私に詰め寄ってきた。
その勢いに、私は足を、退かされる。レベル五百八もあるのに、退かされた。
「二回! たったの? サナ様、算数を学んだことは、おありですか?」
さらに私に近づいて、ヴァネッサは捲し立ててくる。
至近距離、キスできるぐらいの距離で、紅い瞳の虹彩が一筋一筋にわたってよく見える。
「あ、あります……」
なんなら、教科の名前が算数から数学に変わったものを、四年間近く勉強していたよ。
そんな言い返しを許さないような、鬼気迫るヴァネッサの様子だった。
「では、その十倍――いえ、百倍を……イリア! 数えなさい!」
「は、はいっ!」
私を見たまま、ヴァネッサは、自分の後ろにいるイリアに指示をした。
突然に名前を呼ばれたイリアは、慌てて両手を上げてパーにして、指を折って数える準備をする。
「え……二百回も、やるの……?」
目の前のちょっと恐いヴァネッサと、その後ろでオペを開始しそうなイリアを交互に見て、私はつぶやいた。
私のつぶやきを聞いて、ヴァネッサは、嬉しそうな笑みを見せる。
「正解……よくできました」
その笑顔は魅力的であり猟奇的であり、私の思考を破壊する威力を有していた。
「ほら、肩をぎゅっと掴んでください……?」
ヴァネッサは、囁くように言ってから、一歩だけ後ろに下がる。ビンタされやすいように、だろう。
私の左手は、ヴァネッサの声に操られるように持ち上がり、さっきよりも強くヴァネッサの肩を掴んだ。
「んっ……そうです、サナ様の指が、私を侵している……」
恍惚の表情を浮かべるヴァネッサを前にして、頭の中の小さな私は痺れて、なにも考えられなくなっている。
「次は、わかりますよね……?」
ヴァネッサの声に従って、私の右手は、ゆっくりと振りかぶられる。
息を呑んだヴァネッサが瞬きをした瞬間に、ヴァネッサの頬が私によってビンタされた。
「ぁんっ……!」
「いち!」
頬を打つ甲高い音と、ヴァネッサの短い悲鳴、そしてイリアが回数をカウントする声とが、続けて森の中に響く。
「もっと、強く……――んんっ!」
「にっ!」
ヴァネッサが喘いで、頬を張られた衝撃によってなのか、私とヴァネッサの周囲には影の魔素が漂う。
三回目、四回目、五回目、六回目。
自分がどのくらいの力でヴァネッサを打っているのか、よくわからなくなってきた。
辺りが、もやもやとした黒い影によって満たされていく。
手が届く距離にいるのに、だんだんとヴァネッサの顔の輪郭が定かではなくなってきて。
それに反比例するかのように、ヴァネッサの喘ぎ声が艶めかしくなり、私の気分も、なんだか変な感じになっていった。
手のひらで打ったときと、手の甲で打ったときの、喘ぎ声が少し違うなぁ。
私の頭の中にいる小さい私は、ヴァネッサの蕩けボイスによって、余さずに痺れてしまっている。
だから、よくわからないどこか別のところで、私はそんなことを考えていた。
「に、二百……」
ぱん、と私の手のひらが高い音を響きわたらせたときに、イリアは、規定の回数をカウントしきった。
あれ? 偶数回目は手の甲側になるはずだけど……まあ、いいか。気持ちよかったし。
それに、もしイリアが数えてくれていなかったら、私は、永遠にヴァネッサを叩き続ける機械になっていただろうし。
空気中に飛び散ったヴァネッサの魔素は、この場をまるで夜のごとく覆っている。
私がヴァネッサの肩から手を離すと、ヴァネッサ――黒い塊にしか見えないけれど――は、その場に崩れ落ちた。
「ヴァネッサ様……?」
暗闇の中から、イリアがヴァネッサを心配する声が聞こえた。
その声によって、私の思考も少しずつ正常に戻っていく。
操られていた? いや、違う。
頭がぼぅっとしていたけれど、ヴァネッサの頬を打つのを止めようと思えば、いつでも止められた。
楽しかった? いや……違う。
私にそんな趣味は無いはずだ。絶対にそんなことはない。
「……ふふ、うふふ…………」
私の足もと、前方の地面から、女の子のくぐもった笑い声がした。ヴァネッサかな。
その声は、少しずつ大きくなっていき、魔素の闇を濃くしていくようだ。
「ふはっ、ひゃっ……あはははははははははははは!」
狂気な狂喜が含まれた笑い声とともに、ヴァネッサの身体が私の前から消えた。
幾ばくの後に、私たちがいる場所を円の中心にして、黒い影が放射状に晴れていく。
森の木々を露わにしていきながら、影は音も無く、森を駆け抜けていった。
残されたのは、不安そうな顔をしているイリアと、おかしな趣味を目覚めさせられて不満顔の私だけだ。
「……イリア、数を数えてくれて、ありがとう」
よくわからないものを見せられながら、二百まで数えるというのは、なかなかに苦行だったと思う。
私がイリアを労うと、イリアは曖昧に頷いた。
「はい……ヴァネッサ様、大丈夫でしょうか?」
森の奥を見ながら、イリアはヴァネッサを案じる。
私が返事をしようとしたとき、遠くでなんとも形容しがたい叫び声が上がった。
無理やりに例えるならば、カラスが押しつぶされるときの悲鳴?
いや、そんなの聞いたことはないから、完全に想像なのだけれど。
「ヴァネッサ、元気みたいね」
いまの叫びは、おそらくアルラウネのものだろう。
私に叩かれて奮起したヴァネッサが、狩りを始めたのだ。
「……ふふ、安心しました」
イリアが、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
その間にも、森のあちらこちらで、先ほどと同様な悲鳴が聞こえてきていた。
「私たちも、急いで移動するから、そのつもりでいて」
「はいっ!」
イリアはヴァネッサの真似をしているのか、楽しそうな表情で、グーにした手を胸に当てる敬礼をした。
でも、胸の形は、なにも変わらなかった。




