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サナの人類救済の旅  作者: あおば
第二章 第二節 曼陀羅華の花
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第三十五話 狂乱の華



 リンクさんたちの現状を知ってしまった以上、なるべく早く、楽にしてあげたいとは思う。

 手が届く距離で、ただ見ていることはできない、という私のエゴだが。


「どのくらいかかると思っていたの?」


 私とヴァネッサが立って話すと、身長の関係で――私が特別、背が高いわけではないけれど――威圧的になってしまいがちだ。

 声の調子に、気をつけなければならない。


「三日……いえ、せめて、夜をまたがないと……」


 言葉が迷子になりながらも、ヴァネッサは、おそらく正直に伝えてきた。

 吸血鬼は、影の性質を持つ魔素で構成されているので、太陽の出ている昼間が苦手だ。

 人間でいうと、サウナに入っているようなものだと、私は勝手に思っている。 

 そのため、夜にならないと本領が発揮できないのだ。


「うーん、一晩かぁ……私の血、飲む?」


 私は――意図せず首筋を晒すみたいになったけど――首を傾げて、ヴァネッサに聞いてみる。


 私はレベルが高い、五百八だ。

 だから、その血は栄養満点、魔力がいっぱい。飲んだら三日は元気がもーりもり。

 詳しくはわからないけれど、そんな感じなんじゃないかな。


「…………え?」


 今度はテーマーパークで迷子になってしまったのだろうか、ヴァネッサは、なんとか絞り出すように一言を発した。


「私の血を飲んだら、頑張れるんじゃない?」


 元の世界では、絶対に言う機会が訪れなかっただろう台詞(せりふ)を、私は繰り返す。


 すると、数瞬の後に、ヴァネッサの瞳がぶわっと赤く、紅く光を放った。

 あっ、という顔をしたヴァネッサは、両手で顔を隠すように覆って、(うつむ)いてしまった。


「……サナ様の血を……血を、飲む……」


 顔を覆う手のすき間から、うわごとのようなヴァネッサの声が漏れてくる。

 落ち着くために深呼吸をしているのか、ヴァネッサの腕に挟まれた、わりと大きな胸が上下する。

 魔物と人間の、構造の違いってどうなっているのかしら。

 ヴァネッサには、どきどきする心臓が備わっているのだろうか。


 一際大きく、吸って、吐いてをしたヴァネッサは、ゆっくりと両手を下ろした。

 しかし、その目はぎゅっと閉じられている。


「私、自分を抑えられると思えません……」


 いったい、私の血を飲んだヴァネッサはどうなってしまうのだろうか。

 気になるけれど、私も、目をつむったままのヴァネッサを前にして、自分を抑えるのに必死だ。


「ふむ……」


 ヴァネッサから目を逸らしながら、私は顎に手を当てて考える。

 けっきょく、アルラウネを捕らえるためには、ヴァネッサに頑張ってもらうしかない。

 私の血をあげるのがダメとなると、他にできることは、なんだろうか。


 ぽくぽくぽく……私の頭の中に、ぱっと天啓が現れた。


「じゃあ、ヒールを使ってあげる」


 私の言葉に対して、ヴァネッサは閉じていた目を、おずおずと開いた。


「ヒール……治癒魔法でしたよね? 魔物である私が人間を治癒できないように――」


 ヴァネッサが申し訳なさそうに、伏し目がちでもごもごと喋っている間に、私はヴァネッサに一歩近づく。

 そして、ヴァネッサの肩を掴むために、左手を伸ばした。


「――サナ様が私に、魔力治癒を施すことはできませ……ん?」


 私に肩を掴まれたヴァネッサは、不思議そうに私を見上げた。

 滑らかなヴァネッサの肌が、私の左手に吸い付くようだ。


「ヒール」


 私はそう言ってから、ヴァネッサの頬を右手で(はた)いた。ヒールではなく、ビンタだった。

 森の静寂を破って、手のひらが柔らかな頬を打つ、ぱぁんと高い音が響く。


「つっ……え?」


 突然の暴力に、ヴァネッサは、なにをされたのかわからないというように、唖然としている。

 そこで、返す刀――手の甲――を使って、もう一度、今度はヴァネッサの逆の頬を。


「……サナさ――みゃっ!」


 ヴァネッサがなにかを言おうとしているのに構わずに、私は手を振り切る。

 先ほどよりも低い音が、ヴァネッサの頬から鳴った。ヒールではなく、往復ビンタだった。


「……どう? 元気になった?」


 叩かれた勢いで、ヴァネッサは横を向いているので、その表情を(うかが)うことはできない。

 青みがかった髪のツインテール、その片方の揺れが収まるのを眺めるだけだ。

 まあ、いつもヴァネッサは、お仕置きしろお仕置きしろとうるさいから、きっと喜んでくれただろう。


「……ふざけているのですか?」


 私の方に顔を戻したヴァネッサは、瞳を紅くして、私をキッと睨んで言った。


「え……? ご、ごめんなさい」


 予想もしていなかった――よく考えたら、叩いたら怒るのが普通だ――反応に、私はヴァネッサの肩から手を離して、思わずに謝ってしまう。

 それにしても、怒っているヴァネッサも可愛いなぁ。ヴァネッサの後ろで、不安そうに私たちを見ているイリアも可愛いなぁ。


 悪いことをしてしまったという罪悪感から逃避していると、ヴァネッサが私に言った。


「その程度で私が喜ぶと、お思いなのですかっ? もっと、強く! 鋭く!」


 紅い瞳をらんらんと輝かせながら、ヴァネッサは私に詰め寄ってきた。

 その勢いに、私は足を、退かされる。レベル五百八もあるのに、退かされた。


「二回! たったの? サナ様、算数を学んだことは、おありですか?」


 さらに私に近づいて、ヴァネッサは(まく)し立ててくる。

 至近距離、キスできるぐらいの距離で、紅い瞳の虹彩が一筋(ひとすじ)一筋(ひとすじ)にわたってよく見える。


「あ、あります……」


 なんなら、教科の名前が算数から数学に変わったものを、四年間近く勉強していたよ。

 そんな言い返しを許さないような、鬼気迫るヴァネッサの様子だった。


「では、その十倍――いえ、百倍を……イリア! 数えなさい!」


「は、はいっ!」


 私を見たまま、ヴァネッサは、自分の後ろにいるイリアに指示をした。

 突然に名前を呼ばれたイリアは、慌てて両手を上げてパーにして、指を折って数える準備をする。


「え……二百回も、やるの……?」


 目の前のちょっと恐いヴァネッサと、その後ろでオペを開始しそうなイリアを交互に見て、私はつぶやいた。

 私のつぶやきを聞いて、ヴァネッサは、嬉しそうな笑みを見せる。


「正解……よくできました」


 その笑顔は魅力的であり猟奇的であり、私の思考を破壊する威力を有していた。


「ほら、肩をぎゅっと掴んでください……?」


 ヴァネッサは、囁くように言ってから、一歩だけ後ろに下がる。ビンタされやすいように、だろう。

 私の左手は、ヴァネッサの声に操られるように持ち上がり、さっきよりも強くヴァネッサの肩を掴んだ。


「んっ……そうです、サナ様の指が、私を侵している……」


 恍惚の表情を浮かべるヴァネッサを前にして、頭の中の小さな私は痺れて、なにも考えられなくなっている。


「次は、わかりますよね……?」


 ヴァネッサの声に従って、私の右手は、ゆっくりと振りかぶられる。

 息を呑んだヴァネッサが(まばた)きをした瞬間に、ヴァネッサの頬が私によってビンタされた。


「ぁんっ……!」


「いち!」


 頬を打つ甲高い音と、ヴァネッサの短い悲鳴、そしてイリアが回数をカウントする声とが、続けて森の中に響く。


「もっと、強く……――んんっ!」


「にっ!」


 ヴァネッサが喘いで、頬を張られた衝撃によってなのか、私とヴァネッサの周囲には影の魔素が漂う。


 三回目、四回目、五回目、六回目。


 自分がどのくらいの力でヴァネッサを打っているのか、よくわからなくなってきた。

 辺りが、もやもやとした黒い影によって満たされていく。


 手が届く距離にいるのに、だんだんとヴァネッサの顔の輪郭が定かではなくなってきて。

 それに反比例するかのように、ヴァネッサの喘ぎ声が(なま)めかしくなり、私の気分も、なんだか変な感じになっていった。






 手のひらで打ったときと、手の甲で打ったときの、喘ぎ声が少し違うなぁ。


 私の頭の中にいる小さい私は、ヴァネッサの(とろ)けボイスによって、余さずに痺れてしまっている。

 だから、よくわからないどこか別のところで、私はそんなことを考えていた。


「に、二百……」


 ぱん、と私の手のひらが高い音を響きわたらせたときに、イリアは、規定の回数をカウントしきった。

 あれ? 偶数回目は手の甲側になるはずだけど……まあ、いいか。気持ちよかったし。

 それに、もしイリアが数えてくれていなかったら、私は、永遠にヴァネッサを叩き続ける機械になっていただろうし。


 空気中に飛び散ったヴァネッサの魔素は、この場をまるで夜のごとく覆っている。


 私がヴァネッサの肩から手を離すと、ヴァネッサ――黒い塊にしか見えないけれど――は、その場に崩れ落ちた。


「ヴァネッサ様……?」


 暗闇の中から、イリアがヴァネッサを心配する声が聞こえた。

 その声によって、私の思考も少しずつ正常に戻っていく。


 操られていた? いや、違う。

 頭がぼぅっとしていたけれど、ヴァネッサの頬を打つのを止めようと思えば、いつでも止められた。

 楽しかった? いや……違う。

 私にそんな趣味は無いはずだ。絶対にそんなことはない。


「……ふふ、うふふ…………」


 私の足もと、前方の地面から、女の子のくぐもった笑い声がした。ヴァネッサかな。

 その声は、少しずつ大きくなっていき、魔素の闇を濃くしていくようだ。


「ふはっ、ひゃっ……あはははははははははははは!」


 狂気な狂喜が含まれた笑い声とともに、ヴァネッサの身体が私の前から消えた。


 幾ばくの後に、私たちがいる場所を円の中心にして、黒い影が放射状に晴れていく。

 森の木々を露わにしていきながら、影は音も無く、森を駆け抜けていった。

 残されたのは、不安そうな顔をしているイリアと、おかしな趣味を目覚めさせられて不満顔の私だけだ。


「……イリア、数を数えてくれて、ありがとう」


 よくわからないものを見せられながら、二百まで数えるというのは、なかなかに苦行だったと思う。

 私がイリアを労うと、イリアは曖昧に頷いた。


「はい……ヴァネッサ様、大丈夫でしょうか?」


 森の奥を見ながら、イリアはヴァネッサを案じる。

 私が返事をしようとしたとき、遠くでなんとも形容しがたい叫び声が上がった。

 無理やりに例えるならば、カラスが押しつぶされるときの悲鳴?

 いや、そんなの聞いたことはないから、完全に想像なのだけれど。


「ヴァネッサ、元気みたいね」


 いまの叫びは、おそらくアルラウネのものだろう。

 私に叩かれて奮起したヴァネッサが、狩りを始めたのだ。


「……ふふ、安心しました」


 イリアが、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

 その間にも、森のあちらこちらで、先ほどと同様な悲鳴が聞こえてきていた。


「私たちも、急いで移動するから、そのつもりでいて」


「はいっ!」


 イリアはヴァネッサの真似をしているのか、楽しそうな表情で、グーにした手を胸に当てる敬礼をした。

 でも、胸の形は、なにも変わらなかった。



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