第三話 かつて人間の街
元の世界でいえば、三時のおやつぐらいの時間だろうか。
まあ、アイピアでは私の活動に必要なエネルギーがどうなっているのか、まったくお腹が空いたりしていないのだけれども。
これも、レベルが高いことによる影響なのだろうか。
ともかく、川に沿って歩き続けた私は、とうとう森を抜けることができた。
隣を流れる川の幅はかなり広がっていて、その流れもおだやかになっている。
川下になればなるほど、川の水は濁っていくものだと思っていたけれど、この川の水は澄みきっている。
川岸から、水の中を泳ぐ魚たちのシルエットが確認できるほどだった。
「……あれは、絶対に街。人がいたら、嬉しいけど」
私は、願望が多分に含まれたつぶやきを漏らす。
澄んだ川の流れる先に、明らかに人間が造ったであろう城壁が見えていた。
万里の長城って、こんな感じなのかな。実際に見たことはないのだけれど。
私の視界の端から端まで、こちら側に膨らんだカーブを多少描きながら、城壁は続いていた。
またサーチを使ってみると、多くの人間がそこにいることがわかる。
「待って……人間とは限らない、かもしれないのね」
女神アイリは、人間たちは魔物に支配されているというようなことを言っていたし。
……うーん、集中してサーチを使ってみるが、人間なのかどうかはわからなかった。
わりとレベルが高そうなのがぽつぽつといて、それ以外がわんさかいるといった感じだ。
「とりあえず、行ってみるしかないかな」
私は覚悟を決めて、城壁に向かって歩き出す。
レベルが高いといっても、たぶん私の五百八というレベルの方が強いだろうから、なんとかなるだろう。
人に会えるのではないか、と思って少し早足だったかもしれないけれど。
私は、すぐに城壁のふもとまで着いた。
城壁は、四角く切り出された石がいくつも重ねられていて、私が五人ぐらいいても上まで届かないであろうぐらいにそびえ立っている。
「見張りの人とかいるもの……じゃないのかな……?」
そこだけ木で造られた門みたいなところに来たが、特に誰がいるわけでもなく。
門みたいって考えたけれど、門……でいいのかな? 巨大な丸太が十本ぐらい縦に繋げられている。
……ああ、なるほど。
城壁の上から縄かなにかで丸太を持ち上げて、入れるようにする形式の門のようだ。
「すいませーん……」
声をかけてみても、返事はない。
というか、城壁の中が異様に静かだ。
誰もいないわけではないと思うのだけれど。
「返事がないから、勝手に入りますよー……?」
なんとなく言い訳をしながら、私はひとつの丸太を掴み、自分が入れそうなぐらいに持ち上げる。
きしむ音を立てつつも、繋がった丸太たちは私が掴んでいる一本に合わせて上がっていく。
入る瞬間に手を離したら、ぐえってなりそうだなと思いながら、私は門の中へと身体を滑り込ませた。
「よいしょ」
なるべくゆっくり手を離したのだけれど、門は重く鈍い音を立てて閉まった。
これ、たぶん一人で開けられるような重さではなかったね。
「さて……」
城壁の内部を見渡してみると、ちゃんとした街の風景が広がっていた。
私の視界の左右には、石造りの家屋が整然と並んでいる。
二階建て、三階建てのものも見られるため、建築の技術はかなり高いと思う、たぶん。
まあ、私はただの女の子なので、詳しくはわからないけれど。
ただ、通りに人の姿が見られないのは、不思議だとわかる。
まだ陽も高い位置にあり、時間的には賑わいを見せていてもいい時間なのに。
家の中からは生き物の存在を感じるので、私は一番近くの家までとてとてと歩き、木製の扉をこんこんとノックしてみた。
「すいませーん!」
出てくる様子がないので、もう一度こんこんこん。
「……いるはずなのにな」
この二階建ての家の中には、三つの気配がある。
私の訪問に対して、気付いている様子はあるのだけれど。
もし人間だとしたら、お父さん、お母さん、こども、じゃないのかな。
外の門だったら勝手に開けてもいい気がするけど……うーん、人の家の扉を勝手に開けるのはできないか。
私はその家を諦めて、右手の方に移動して三軒隣の扉をノックする。
その間の二軒の家には、気配がしなかった。
外に置いてある鉢植えや、窓の桟を見てみても、手入れされている様子がなかった。
この一角には、誰もいない家も多くあるのかもしれない。
「すいませーん」
こっちの家も二階建てで、中には二つの気配がある。
私がノックをしたことによって、慌てて動いているようなので、気づいていないということはなさそうだ。
「あっ、言葉が通じていないのかも……?」
いや、それは違うか。
言葉がわからなくても、家の扉をノックされたら出てくるものだろう。
もし、ノックをするのは非常識、門前払いだという文化ならば、お手上げだけれど。
そう思っていたら、扉がそーっと開けられ、若い男の人が中から不安そうな顔をのぞかせた。
「良かった! 人がいた」
久しぶりに人間に会えた嬉しさで、思わず飛び跳ねるぐらいにはしゃいでしまった。
そのとき、男の人は血相を変えて、静かにしろ――と口に指を当てるポーズを示した。
その指は、震えているのを隠せていなかった。
……何か事情があるんだろう、悪いことをしてしまった。
私が手を合わせてぺこぺこと謝ると、男の人はゆっくりと扉を開けてくれた。
たぶん、入っていいってことなのかな。
私が家に入ると、男の人はまたゆっくりと扉を閉めた。
ナマケモノをテレビ番組とかで見たことがあるが、そんな感じの動きだ。
でも男の身体は怠けだらしないボディではなく、引き締まった筋骨隆々な身体といえばいいだろうか。
はち切れんばかりの筋肉に包まれていた。
扉を閉め終わった男の人は、私に向き直ると、口をほとんど動かさないで喋った。
「ついてきなさい」
すっごく細くて小さい声だったから、なんとか聞き取れるぐらいだった。
むきむきな身体とのギャップが、少しおかしい。
男の人の喋ったことが理解できたので、言葉は通じるようだ。
この世界の言葉を一からお勉強する必要がなくなって、本当に良かった。
英語でさえ習得するのに数年かかるのに、完全に異世界の未知の言語なんて、小学校からやり直すなんてものではなかっただろう。
男の人は、私を先導して、一階をゆっくりと進んでいる。
いま歩いている廊下や通り過ぎる部屋を見ると、ずいぶんと広い家なのが窺える。
ただ、お金持ちの豪邸かというと、それは違うような気がする。
調度品があまりなく、無機質な印象を受けるからかもしれない。
まあ、テーブルや食器棚のような必要最低限のものは揃っているので、生活に不便はなさそうだ。
昼間ではあるのに、窓を閉め切っていて、室内は薄暗い。
私の白いワンピースが微かな光を反射して、暗がりに浮かび上がる幽霊みたいになっている。
私が入ってきた玄関から反対方向まで歩いたときに、男の人はかがみ込んだ。
なにがあるのだろうと思って肩越しにのぞいてみると、地下への扉が床に備え付けられている。
男の人は、ぐっとその扉のハンドルを掴む。
むきむきな筋肉が隆起して、鉄かなにかの金属で作られた地下への扉が持ち上がった。
開かれた扉の前から横に移動して、男の人は闇が広がる扉の中を指さした。
たぶん、入れってことだよね。
一瞬躊躇したけれど、私はワンピースを着ているから、どうせ入るなら先がよかった。
暗くてぼんやりとしか見えないが、地下への階段が続いているようだ。
私が男の人に顔を向けると、男の人はこくりと小さく頷く。
私は、暗闇の中に、一歩踏み出した。