第三十二話 木目なシミュラクラ
魔物を探しながら、もう少し森の奥に入って数時間が経ったころ。
日の昇り具合を考えると、元の世界でいう午前十時ぐらいだろうか。
私の耳が、微かな音を捉えた。
はじめ、風でも吹いているのかと思ったのだけれど、少し違和感があった。
「イリア、なにか聞こえる?」
歩くのを止めて、私と手を繋いで、のんびりと歩を進めていたイリアに聞いてみる。
私に引っぱられるように、イリアは立ち止まった。
耳に広げた手を添えながら、耳を澄ませているようだ。可愛い。
「……うーん、なんて言っているのかまではわかりませんが、声のようなものが聞こえます」
私もイリアといっしょに耳を澄ませていたから、確かに声だとわかった。
人間なのか魔物なのか、はたまた別の生き物なのかはわからないけれどね。
「行ってみよう」
イリアと繋いでいる手をやわらかに引いて歩きはじめると、イリアもとことこと私についてくる。
声を頼りに、ゆっくりと森を進む。
本当に、気持ち悪い。吐き気がしてきた。
無意識のうちに、気付かないようにしていた事実が、声の発生源に近づくにつれて、ゆで卵の殻を剥くように露わになっていく。
あーあ……殻を剥きやすいように、画鋲で穴をあけたり、冷水につけたりしておけばよかったなぁ。
そうすれば、指の爪でガリガリと剥がさなくて済んだのに。
……あれ、なんの話だったっけ。
私がアイピアに降り立って――落とされて?――吸血鬼の街であるダブルリアに着くまでに、巨大樹の森を通ったことがあった。
その森では、十数人が手を繋いで、ようやく幹を一周できるだろうかといった樹が星の数ほどそびえ立っていた。
そして、地面には巨大な落ち葉が積み重なっていて、おそらく、見えている落ち葉の下は腐葉土になっていたのだろう。
腐葉土のおかげか、巨大樹は、すくすくと天に届かんばかりに成長し、地中に暮らす生き物たちは、うにょうにょとうねることができる。
あの場所は、太陽の光が届かなくて薄暗かったけれど、確かに生命を感じた。
それに比べて、この白い木々の森はどうだろうか。
樹の大きさ、太さについて言いたいのではない。
白い樹皮を持つ木々は、元の世界で考える、普通の樹の太さだから。
問題なのは、土壌だ。
私たちが歩いてきた石畳の街道、その横に広がる草原と同じように、この森の地面には草や花が生い茂っている。
この場所に、これだけの木々を養う地力が存在するのだろうか。
森の全容がまだわかっていないが、少なくとも数百本の樹木が育っている。
よしんば、目に見えないだけで、実は豊富な地下資源を有していたとしよう。
それにしても、草花の生長を阻害せずに、こんな規模の森が発生するだろうか。
森の樹木との共存にもかかわらず、草や花の生態系が、草原と変わらないことなどあるのだろうか。
草花の利用する養分と、白い樹木が利用する養分は異なるのではないだろうか。
そういえば――この世界は、人間に対して、残酷なのだった。
森の中に、一本の樹が立っていた。
見た目だけでいえば、他の木々と大差ない。
白い樹皮に覆われた、普通な大きさの樹だ。
しかし、その樹は声を発していた。喋っていた。謡っていた。
耳を傾けてみると、歌の題材がよくわかる。
この世界のはじまり、女神アイリの物語。
自らの善い心から人間を創り出した女神アイリは、そこで力尽きてしまう。
戸惑う人間たちをよそ目に、残った悪い心が変貌した魔物は、横たわるアイリの身体をむさぼり食った。
神のごとき魔力を手中に収めた魔物に、人間たちは為すすべもなく、蹂躙される道を歩むほかなかった。
以前にイリアから聞いた物語よりも、詩的な表現が多用されている、まさに歌だった。
蚊の鳴くような小さな声だが、その澄んだ響きに、思わず聴き入ってしまう。
「綺麗な声……男の人ですかね?」
私の隣で、歌う樹を見上げながら、イリアがささやくように聞いてくる。
私たちが前に立っていても、この樹は私たちの存在には気付いていないようで、歌を披露し続けている。
それにしても、イリアのウィスパーボイスも負けず劣らず綺麗だから、あまり耳元で発さないでほしいわね。
「たぶん、そうだと思うけど……」
私が言い淀んだのは、この樹を目の前にして、イリアがことのほかに冷静だったからだ。
けっこうショッキングな光景だとは思うのだけれど。
地面に近いところは周りの樹と変わらないのだが、私の手が届くか届かないかといった上の方、人間の顔のような模様が浮かんでいる。
顔のような、と表現したのは、本来皮膚であるところの、ほとんどが白い樹皮でできているからだ。
さらに、目があるはずの部分は、眼球の代わりにぽっかりとした洞が填め込まれていて、あらゆる光を吸収するブラックホールみたいになっている。
鼻の形は残っているが、ささくれ立った樹皮がなんとも痛々しく、唇の部分も同様だ。
遠くから見ると、なんか人間の顔っぽく見える樹だね、という印象になるだろう。
しかし、目の前に立ってよく見るとわかる――この樹は、もともと人間だった。
「ヴァネッサ」
「はっ!」
私が名前を呼ぶと、私の足もとの影からヴァネッサが跪いた状態のまま出てきた。
さっきから、私の影にいるヴァネッサの雰囲気が変わっていたから、起きているのはわかっている。
「人間が樹になっているの。心当たりはあるかしら?」
「おそらく、アルラウネの仕業かと考えられます」
私の疑問に対して、ヴァネッサはすぐに返答した。
たぶん、影の中から状況を把握して、記憶を掘り起こしてくれていたのだろう。
「アルラウネ?」
うーん、聞いたことないけど、ファンタジー的にはメジャーな魔物だったりするのかな。
私は、そういった界隈には疎い。
有名なところで、せいぜいヴァンパイアとかドラゴンしか知らないし。
「アルラウネは、植物の魔物です。芳香な魔素を放つことで、惹き寄せられた獲物を捕らえます」
ごきぶりほいほいみたいな魔物なのね、という軽口を言いそうになったが、イリアにもヴァネッサにも伝わらないだろうと思って止めた。
「捕らえた後、どうするの?」
私は、ちらっと目の前の樹を見上げてから、樹と私の間に跪くヴァネッサに、視線を落として聞いた。
「子飼いの植物を寄生させて、宿主の魔力を養分として成長させます」
……そうして育ったのが、この樹なのかしら。
いったいどれだけの時間をかけて、ここまで成長したのだろうか。
「アルラウネ自身は、子飼いの植物を介して魔力を吸い取ったり――」
「――獲物が人間だったら、植物に寄生されるっていう恐怖を奪う」
昨日の夜に、ヴァネッサが教えてくれた魔物の生き方が頭に浮かんで、ヴァネッサの言葉の続きを、つい口走ってしまった。
「さすがです、サナ様。その通りです」
跪いたまま、ヴァネッサは私を褒める。
ヴァネッサが悪いわけではないけれど、まったく嬉しくはない。
「そこまで知っているのに、どうしてアルラウネの存在に思い至らなかったの?」
これは、完全に八つ当たりだ。
私の気持ちも樹のように、ささくれ立っているのかもしれない。
昨夜の段階でヴァネッサが気付こうが、いま気付こうが、そこに大差はないのに。
「はっ! 申し訳ありませんっ! アルラウネは強い魔物ではありません。そのため、これほどの規模の農園を造れるとは思わずに、無意識に選択肢から外していましたっ」
おでこが地面に着くのではないかと思うぐらいに頭を垂れて、ヴァネッサが早口で弁明する。
私は軽く息を吸って、吐いた。もう一度吸って、吐く。うん、落ち着いた。
いま私が苛ついても、なんの意味もない。
「ヴァネッサは、この森の樹すべてが人間だと思う?」
たぶん、そうなんだろうなぁ、と思いながらヴァネッサに聞いた。
ヴァネッサは、顔を地面に向けたまま、すぐに返答をする。
「はっ! どの樹も同じような外見をしているため、同じ種類の魔力を養分にしていると思われます。その可能性は、高いかと」
なるほど……さっきヴァネッサが農園と言ったが、まさに人間農園なのね。
「次からは、間違っていてもいいから、なんでも話しなさい……仲間なんだから」
私はためらいながらも、心に浮かんでしまった言葉を、なんとか紡いだ。
絶対に顔が赤くなっている。だって、こんな恥ずかしいこと、十六年の人生の中ではじめて言った。
ヴァネッサも、私を見上げてきょとんとしてしまっているじゃないか。
「――……そこに、誰かいるのか?」
私が二の句を探していると、頭上から、男の人の、澄んだ声が降ってきた。




