第三十話 負けず嫌いの夕餉
「じゃあ……引き分けってところかしら」
ヴァネッサはイリアを拘束したものの、攻撃することはできないし。
イリアにいたっては、動くことすらままならないのだ。
「いえ、勝負の結果は、サナ様次第です」
私次第? ヴァネッサの言葉に含まれた意味がわからなくて、私は首を傾げる。
私の様子を見たヴァネッサは、にやりと、静かに獰猛な笑みを浮かべた。
そして、ツインテールに結んでいた青みがかった長い髪を解いて――むだに色っぽい――から、ゆっくりと、イリアに覆いかぶさる。
身体を動かせないイリアは、ヴァネッサのたわわな胸の圧力を、その貧相な胸で受けるしかない。ああ、可愛そうに。
でも、ヴァネッサの胸があるからこそ、イリアの顔の上空に、こぶし三つ分ぐらいの距離を空けて、ヴァネッサの顔が止まる。
もし胸がなければ、イリアの初めて――たぶん、私の願望を多少なり含む――は、あっさりと不届き者に奪われていただろう。
「……ヴァネッサ様、なにを……?」
イリアの顔の左右には、滝のようにヴァネッサの髪が流れていて、イリアは正面のヴァネッサを見るしかできない。
そのためだろうか、イリアの問いは不安や怯えが混じり、微かに震えていた。
ヴァネッサは、その問いには答えずに、上目遣いで私を見た。
睫毛の一本一本に至るまで、美しさが散りばめられている。
「サナ様は、ここまではお許しになるのですね」
「……なるほど、その花の魔力障壁が発動するのは、エンチャントした私次第ってこと?」
意識していたわけではないが、私は、所有者を守る効果を向日葵の花に付与した。
イリアが発動をコントロールできないということは、それを行っているのは向日葵自身、つまり私だ。
ヴァネッサは私を見つめたまま、こくっと頷く。
揺れたヴァネッサの髪がイリアの首筋をくすぐったのか、イリアはびくっと身じろぎをした。
「まあ確かに、許すかどうかは置いておいて……」
特に、押しつけられてむにっと形を変えている脂肪――魔素?――のところなんかは、許されざる領域を侵している気がするけれども。
「攻撃では、ないわよね」
なにをされるかわからないという不安を、イリアは感じているのかもしれない。
しかし、痛いことをされそうになったら向日葵が防いでくれるから、攻撃とはいえないだろう。
「ふふ……これは、どうでしょうか」
ヴァネッサは私に艶めかしい視線を向けたまま、唇の間からちろりと真っ赤な舌先を出した。
そして、両手を優しくイリアの顔に添えて、ぐいっとそれを真横に向かせる。
イリアは抵抗しようとしているようだけれど、力ではヴァネッサに敵わない。
「ヴァネッサ様? ちょっと、もしかして……!」
ヴァネッサの青い髪のベールに包まれて見えなくなっているけれども、イリアの焦った表情が目に浮かぶようだ。
イリアの声を無視して、ヴァネッサは、色欲の象徴のような口元を、イリアの耳に向かってゆっくりと下ろしていく。
「いやです……いや……んぅっ!」
ヴァネッサの艶めかしくうねる舌が、イリアの耳に触れそうになって、イリアは小さく悲鳴をあげる。
その瞬間、ヴァネッサの姿が、ふぁっと夜の闇にかき消えた。
まっさらな静寂が、辺りに響きわたる。
「……さすがに、怒られちゃったかな」
それはダメだと向日葵が判断したのだろう、障壁が現れて、ヴァネッサは排除されてしまったようだ。
私は、仰向けに寝転がるイリアに、慰めの言葉をかける。
「イリア、大丈夫?」
もうヴァネッサの影による拘束は、解かれている。
しかし、イリアは拘束されたときの姿勢のまま、息を整えるように呼吸をしていた。
「……はい……大丈夫ですぅ」
幾ばくの後に返されたイリアの声は、少し乱れていて色が感じられるものだった。
そしてイリアは、ゆっくりと身体を起こして、寒そうに自分の身体を抱きながら、辺りを見渡す。
その一連の動作にも、どこか艶めかしいものが感じられた。
「サナさん、ヴァネッサ様は……?」
乱れた黒い髪が顔にかかっていることにも構わずに、イリアは私を振り返り、ヴァネッサへの心配を口にする。
「危なくて消されたけど、しばらくしたら戻ってくると思うよ」
ヴァラドも何回か頭を吹っ飛ばされても大丈夫だったし、ヴァネッサもあれぐらいでは死なないだろう。
それに、女の子の耳を舐めようとしたら召されました、なんて吸血鬼としては末代までの恥になりそうだし。
「そうですか……――あっ!」
ほっと安心したという表情を浮かべたイリアが、はっとなにかに気付いたように肩を跳ねさせた。
それから、ちらっとこちらを見たイリアが、急にくしゃっと泣き顔になる。
そんな顔も愛くるしい――ではなくて、いったいどうしたというのだろう。
「うぅ、サナさん……弄ばれましたぁ」
イリアは、そう言って泣きながら、私ににじり寄ってくる。
いや、完全に嘘泣きじゃないの。
思いながらも、私の口はイリアを咎めるために開くことはない。
イリアは、座っている私のお腹に顔を埋めるように、しなだれかかってきた。
「よしよし、恐かったね」
イリアの背中に手を回して、ぽんぽんと背中をたたく。
すると、イリアは甘えたような声をどこかから出した。
「んぅー……ぎゅうぅ……」
発する声と行動がリンクしているのだろうか、イリアは私の腰にがっちりと両手を回した。
それにつられて私も、強くイリアを抱きしめる。
「はぁ……安心できます……」
至福です、と言いたげな声を上げたイリアを見下ろすと、黒髪のすき間から綺麗な耳がのぞいていた。
私が耳を舐めたらどうなるのだろう、花の魔力障壁は発動するのだろうか、イリアはどんな声を上げるのだろうか、好奇心がうずく。
魔物が潜む不気味な森の中で、私は、自らの好奇心とイリアの柔らかさに負けないように、必死に理性を保つのだった。




