第二十九話 鉄花の処女
私の股とお腹に挟まれて興奮なのかなんなのかで、ヴァネッサが息も絶え絶えだ。
そんなヴァネッサが、そろそろ本格的にきもちわるくなってきた。
私は、膝を伸ばして脚をまっすぐにしてから、ヴァネッサの頭を片手で突き飛ばした。
私の脚の上をころころとヴァネッサの頭が転がっていって、それにくっついている身体も同じように回転する。
勢い余って、私の足の先を通り越して、地面に敷いた布の上を三回転、くるくるくるとヴァネッサは止まった。
ちょっと痛かったかもしれないが、ヴァネッサはにやにやと笑みを抑えられないぐらい嬉しそうだから、まあいいか。
「いま、この森には魔性があるんでしょ? イリアがなにも恐怖を感じていないのは、吸血鬼の魔性に慣れているからなの?」
地面に転がるヴァネッサに、私は疑問を投げかける。
私でさえ少し嫌な感じがする――魔性が原因かわからないけど――のに、イリアはこの森に対してなにも感じていないようだった。
恐怖に慣れすぎて、そういった感情が麻痺してしまっているのだろうか。
「それは、サナ様がイリアに下賜した花が、イリアを魔性から守っているからだと思います」
横になったままのヴァネッサが、顔だけをこちらに向けて答えた。
「……ああ、なるほどね」
向日葵の髪飾りを着けているイリアを、私は目を凝らしてじっと見る。
私に凝視されて恥ずかしそうに俯くイリアの周囲には、雪の結晶のような魔力障壁――だと思う、たぶん――が幾重にも張り巡らされていた。
「あれって、そんなに強いの?」
見た目はすごそうなバリアだけれども。
髪飾りを指して聞いてみると、ヴァネッサは身体を起こして、すっと立ち上がった。
「試してみましょうか」
そう言ってから、ヴァネッサはとことこと歩いて、座っているイリアの後ろに回った。
ティーカップを両手で大事そうに持つイリアが、ヴァネッサを目で追う。
「イリアは、前を向いていて」
ヴァネッサの言葉に、イリアは素直にしたがって、前にいる私の方を向いた。
イリア……あなたは、少し疑うということを覚えないと、悪い男の子に騙されちゃうよ。
ぼけっとしている――私からは、そう見える――ような顔のイリアの将来を、私は心配した。
「サナ様、心配なさらずに――止めますから、寸前で」
イリアの背後に立ったヴァネッサが、私にそう言ってから、美しい陶器のような手を振りかぶる。
その瞳は真紅に燃え上がり、ランタンの光よりも強く、森の闇に輝いていた。
そして、普通の人間には視認できないであろう速度で、ヴァネッサの手がイリアの側頭部に振り下ろされた。
鎌と化した陶器が、イリアの頭を刈り取るかと思われた瞬間、陶器は音もなく砕け散り、黒い霧となって辺りに舞った。
霧が晴れたあとには、きょとんとした顔で私を見ているイリアと、片手の肘から先を失っているヴァネッサが残されていた。
さっき言ったとおりに、ヴァネッサは、イリアに届く前に振り下ろした手を止めるつもりだったのだろう。
しかし、さらにその直前に、ヴァネッサの手が魔力障壁に触れることで、かき消されてしまっていた。
「……このぐらいかしら」
私が両手を、三十センチぐらいの間隔を空けて前に掲げると、私の意図を汲んだヴァネッサは頷いた。
「そうですね、おそらく……」
ヴァネッサは、無事な方の手を、今度はゆっくりイリアの頭に近づける。
すると、私の示した間隔ぐらいに、可愛い頭に近づいた可愛い手は、じりじりと焦げるかのように、手を動かす速度に合わせて影になって消えていった。
よくできた手品を見ているような気分だ。
手首ぐらいまで消えたときに、ヴァネッサは手を止めて、私にその手を自慢するかのように見せた。
「サナ様、さすがですね。所有者のイリアにまったく反動なく、私の攻撃を防ぐほどの魔力障壁を纏わせるとは……」
ヴァネッサが喋っている間に、どこかから現れた影によって、消えていたヴァネッサの両手が元に戻る。
真紅に染まっていた瞳も、いつもの碧眼に戻っていた。
ヴァラドに刺した槍の時もそうだったけど、私が考えてもいない効果まで付与されるのはどういうことだろうか。
いや、無意識下で望んでいたのかもしれないのか。
「なんにしても……よかったわね、イリア。あなた、いまヴァネッサとケンカしたら、勝てるみたいよ」
「ふぇ……?」
気の抜けた声で私に答えたイリアは、ちらっと自分の後ろにいるヴァネッサを振り返る。
私の位置からはイリアの表情がよく窺えなかったけれど、それを見たのだろうヴァネッサの眉がぴくんと上がった。
「ふぅん……イリア、覚悟はできているの?」
「よくわかりませんが、私の方が強いらしいですけど……」
楽しげな声を上げたヴァネッサに対して、イリアも立ち上がって対峙する。
座っている私からは、イリアの背中とそれに半分隠れたヴァネッサしか見えない。
まあ、ヴァネッサが本気でイリアの相手をするとは思えないし、イリアもヴァネッサをからかおうとしているだけだろう。
私は、手に持っていたカップに残っていた紅茶を、くいっと傾けて飲んだ。
あっ……ヴァネッサの紅茶だったのだが、ぜんぶ飲んでしまった。
イリアが淹れてくれる紅茶が、美味しいのがいけない。うん、きっとそう。
「あっ」
私が目を逸らしている隙に、ヴァネッサがゆったりとした動作で、イリアに組み付こうとしていた。
エンチャントした向日葵を装着しているイリアに、近づいたら危ないんじゃないの。
そう思って、つい私は声を上げてしまった。
しかし、私の心配は杞憂に過ぎなかったようで、なぜかヴァネッサはイリアに抱きつくことができる。
「えっ、ちょっと待って、ヴァネッサ様っ……!」
慌てたような声で制止を促したイリアだったが、もう遅い。
ヴァネッサは、柔道の大外刈りの要領でイリアを倒す。
いつの間にか、もわもわと地面に漂っていた影のおかげで、ヴァネッサに体重をかけられたままイリアが倒されても、ぽわんとして痛くなさそうだった。
でも、ヴァネッサのなめらかな太もものどちらもがイリアの脇腹に固定されて、地面に倒れたイリアは馬乗りにされる。
そして、お腹の上に跨がるヴァネッサは、口角を上げて妖艶に微笑んで、イリアを見下ろしていた。
よく見ると、イリアの両手首に影が纏わり付いていて、腕も動かせないように固定されている。
私からはヴァネッサの身体が邪魔で見えないけれど、おそらく足も同じようにされているだろう。
「イリアの意志で、障壁を発動できるわけではないのね……」
確かに、さっきヴァネッサの手刀を防いだときも、イリアはそれを認識すらしていなかった。
たぶん、傷つくほどの攻撃なのか、それとも傷つける意志があるのか、その辺りが発動の鍵になるのかな。
私のつぶやきを聞いて、ヴァネッサが私の方を向いた。
「はい、こういうものは、あくまで受動的であると決まっているんです」
得意そうな様子で頷きながら、ヴァネッサは私に教えてくれる。
「ふーん……魔力障壁を出しながら突撃とか、強そうだと思ったんだけどね」
強靱な吸血鬼の魔素も一瞬で溶かしてしまうのだから、まさに一騎当千の働きができただろうに。
まあ、どんな攻撃でも防げる装備を、イリアが着けといてくれれば安心だから、それでいいか。




