悪夢のスピンオフ
アイピアでは、月――と呼ぶのかはわからないけれど――との距離が近いようで、夜空に大きく浮かぶその姿によって、元の世界ほどの暗闇にはならない。
私たちが泊まらせてもらっていた小屋の陰に寄り添う、イリアとヴァネッサの姿も、おぼろげながら確認できる。
しかし、私からは、イリアとヴァネッサの横顔しか見えない。
だから、イリアもヴァネッサも、私が見ていることにまだ気付いていないだろう。
もっとも、おそらく血を吸われているのだろうイリアは目が虚ろになっているし、血を吸っているのだろうヴァネッサも、美味しいご飯に夢中になっている。
私を差し置いて、ずいぶんと楽しそうじゃない?
「――んっ、んくっ、んん……――っ!」
私は、普通に歩いて、さらに数歩近づいた。
すると、喉を鳴らしながら血を飲むヴァネッサが、ようやく私の存在に気付いたのか、おそるおそる顔を上げた。
「あ……サナ、様……」
いたずらが見つかった猫のように、ヴァネッサは呆然と私の姿を見上げた。
妖艶な魅力を放つ口元からは、とがった犬歯を伝うようにイリアの血が垂れているのがわかる。
小屋の壁にもたれかかるイリアの身体は、ヴァネッサが首から顔を離したことで支えを失う。
壁を擦る微かな音を出しながら、イリアは地面に倒れそうになる。
それに気付いたヴァネッサが、慌ててイリアの肩を抱いて倒れないように支えた。
「私……」
自分が支えるイリアの血の気を失った顔と、そばに立つ私を交互に見て、ヴァネッサは言い淀む。
「ヴァネッサ……これは、どういうこと?」
私が言葉を発したことで、ヴァネッサの肩はびくっと跳ね上がる。
ヴァネッサは、なにかを言おうと口を開くが、それを閉じて黙って俯いた。
そのとき、イリアが、焦点の定まらない瞳を私に向けた。
イリアの身体は、がくがくと痙攣している。
イリアもヴァネッサと同じように、その果実を思わせる可愛い口を開いたが、声を発する力まではなかったのか、ゆるゆると首を力なく振るだけだった。
「はぁ……もう一度聞くけど、ヴァネッサ、これはどういうこと?」
私がため息とともに発した問いに、ヴァネッサは、さらに肩をしゅんと縮こまらせる。
ヴァネッサは、意地でも喋らないつもりのようだ。
まったく、嫉妬するぐらい仲が良いのね。
私はしゃがんで、イリアを抱えるヴァネッサに目線を合わせる。
イリアの浅く早い呼吸の音が、よく聞こえるようになった。苦しそうだ。
「ヴァネッサ、イリアになにか言われたんでしょ?」
「えっ?」
私の言葉に、俯いていたヴァネッサが顔を上げる。
「言われたというか……頼まれたのかしら? 血を吸ってほしいって」
ヴァネッサは驚いたように、ぱっちりとした碧眼をぱちぱちと瞬いて、可愛い口をぽかんと開けている。
「イリアに事情を聞くべきだけど、この子は喋られなさそうだから、あなたに聞いているの」
ヴァネッサは、吸血鬼だ。
人間の血を吸わなければ、生きていけない。
だから、夜中にこそこそとイリアの血を奪っていた――そうは思えなかった。
吸血鬼であるということを秘匿したいならば、隠れて人間の血を吸うこともあるだろう。
しかし、ヴァネッサが吸血鬼であることを、私もイリアも知っている。
血がほしいという渇望が我慢できなくなったのか――それも、おかしい。
私に嫌われるかもしれないことに考えが及ばないぐらいに、理性がなくなっていたとしたら、わざわざ人目につかないところまで誘い出さないし、たぶんヴァネッサは私の血を吸いたがるだろう。
まあ……そうだな。
ヴァネッサは、私のことが大好きだから、絶対に、私に嫌われるようなことはしない。
理由は、これに尽きる。
「どうしてこの子が、あなたにそんなことを頼んだのかがわからないから、教えてほしいだけ」
私は、震えるイリアの頭を撫でながら、ヴァネッサに問いかける。
ついでに、イリアにヒールを使ったので、イリアの痙攣が治まった。
落ち着いたように、イリアは目を閉じて、静かな呼吸を繰り返す。
ヴァネッサは、自らの腕に抱えるイリアの顔を、ちらっと見た。
「……眠れない、みたいです」
観念したかのように、ヴァネッサは話しはじめる。
その声音には、心配なのか後悔なのか、それとも怯えか、いろいろな感情が交じっていた。
「眠れない?」
修学旅行で枕が変わって眠れないとか、そういう話ではないだろう。
「寝て起きたら、すべて夢だったことに気付くことになるかもしれないのが、怖いそうです」
私は、元の世界の夢から覚めるとき、どのような気持ちだったのだろうか。
夢の内容って、時間が経つとすぐにふにゃふにゃと形を失って曖昧なものになってしまう。
イリアにとっては、いまの現実が不確かすぎて、夢なのかどうか判断が付かなくなっていたのかもしれない。
「……もしかして、私と会ったときから、ずっと寝ていないのかしら?」
どのくらい時間が経ったのだろう、私とイリアが城の前で初めて会ってから。
たぶん……三日か四日ぐらいは経過しているはずだ。
あれだけ動き回ってエネルギーを使っているのに、睡眠が取れないのは、身体も気持ちも限界だったのではないだろうか。
「おそらく、そうだと……私は、イリアが寝ている姿を見ていません」
ヴァネッサは、イリアの顔にかかる前髪に優しく触れて、顔にかからないようにして言った。
そういえば私も、イリアが寝ている場面を、直接は見ていない。
「なるほどね。それで、どうして血を吸ってくれって?」
たぶん、心的外傷なんちゃらかんちゃら――残念ながら詳しく覚えていない――だろう。
すり傷は時間が経てばきれいに治るが、傷つけられた心は、永遠に傷ついたままだ。
治ったように見えても、水を入れたらどこかから漏れ出すのだ。
「……そうすれば、現実だとわかるからって」
私は、血の気がなくなっているイリアの顔を見つめる。
血が足りないのを、ヒールでは完全に対処することはできない。
せいぜい、急激な血液の減少によるショック症状を緩和することだけだ。
「……ばかね、この子は」
そうつぶやいてから、私は、背中にかけていた毛布を手に取る。
ヴァネッサとイリアの間に腕を通して、イリアを毛布で包み、お姫様抱っこするように持ち上げる。
イリアは、軽かった。
私の身体が魔力によって強化されていることとは関係なく、消えてしまいそうな薄さをしていた。
ちゃんと、食べさせるようにしよう。
ダブルリアから持ってきていた携帯食料に加えて、そこら辺で採って――獲って――くる植物や動物を、たくさん食べさせて太らせるのだ。
お菓子の家を作った魔女は、いまの私のような気持ちだったのだろうか。
小屋の中の、古ぼけた部屋に戻ろうと数歩進んだとき、ヴァネッサが私の後ろで、まだしゃがみ込んだままだと気付く。
「どうしたの? ヴァネッサ」
振り返りながら、私はヴァネッサに問いかける。
「……私を、罰しないのですか?」
ヴァネッサは寂しそうな顔で、私と、私に抱きかかえられたイリアを見つめていた。
自分の欲情のために、お仕置きをしてほしいというわけではなさそうだった。
「どうして、あなたに罰を与えるの?」
まあ、ヴァネッサは、もしかしたら我を忘れてイリアの血を貪っていたのかもしれない。
……そんなに美味しいのかしら。ちょっと舐めてみようかな。
しかし、吸血鬼は血を吸わなければ生きていけない。
その行為を悪だ、と決めてはダメだろう。
「だって、頼まれたとはいえ……」
ヴァネッサは、目の前の地面を見つめてしゅんと俯く。
イリアの血を飲んだから、イリアのいじらしさが乗り移っているのだろうか。
儚げで可愛すぎる。持って帰りたい。持って帰ろう。
「そんなに罰が欲しいなら、早く来なさい」
私はそう言い捨てて、踵を返す。
小屋の入り口まで歩いたときに、とぼとぼとしたヴァネッサが追いついてきて、イリアを抱える私の代わりに、入り口の扉を開けた。
「……サナ様、罰とは……?」
俯きがちに私たちを振り返ったヴァネッサが、おずおずとつぶやく。
「あなた、いま眠い?」
私の問いかけは、ヴァネッサが予期していない内容だったようだ。
ヴァネッサは怪訝そうな顔をしながら、返事をする。
「……いえ、昼間にさんざん休ませていただいたので、いまは別に」
「じゃあ、いっしょに横になりなさい」
ヴァネッサの横を通って、イリアをお姫様抱っこした私は小屋に入る。
「え……?」
私の後ろで、ヴァネッサの疑問の声が聞こえた。
きっと、きょとんと無邪気な顔を浮かべているに違いない。
「眠くないあなたの隣で、私たちはすやすやと寝てやるわ」
「それが……罰、ですか?」
私はイリアを抱えたまま、小屋の中にある三部屋のうち、私たちが寝ていた部屋に入る。
遅れて部屋に入ってきたヴァネッサの声には、少し嬉しそうな感情が交じっているようだった。
「そうね、眠りたくても、眠くない――残酷な仕打ちだと思うわ」
私がヴァネッサを憐れむ顔で告げると、対照的にヴァネッサはぱっと顔を明るくさせた。
「真ん中は、私ですよね? その方が、より辛いと思います」
「ばかね、真ん中は私……いや、イリアが真ん中ね、今夜は」
毛布が敷いてあるところに、イリアを寝かせて、毛布をちゃんと首までかける。
その隣に、私が横になって、イリアと同じように毛布に包まる。
床から見上げたヴァネッサの顔は、ちょうど月明かりの影になってよく見えなかったが、おそらくにやにやと微笑んでいるのだろう。
「しょうがないですね」
なんだか嬉しそうなヴァネッサの声が聞こえて、私と反対側の、イリアの隣に寝転ぶのがわかった。
私とヴァネッサで、イリアをサンドウィッチにする形だ。
少しでも、イリアが安心して眠れるならいいのだけれど。
石造りの部屋には、はしゃぐヴァネッサの声と、眠そうな私の声が、しばらく響いていたのであった。




