丑三つの逢瀬
吸血鬼の街を旅立ってから、一時間ぐらい歩いたとき、私たちは石畳の道が左右に分かれている丁字路にたどり着いていた。
この頃には、左右に見えていた小麦畑は、その姿を消していて。
私たちの視界に入るものは、石畳の道、草原やちょっとした林、そして前方にそびえる大山脈だけだった。
「イリア、もう一度地図を見せてもらっていいかしら」
私の言葉に頷いてから、イリアは背負っていたバックパックを身体の前に回した。
そして、教会の図書室から書き写してきた地図を、バックパックから取り出す。
かなり張り切って模写したようで、細かいところまで正確に描かれた地図は大きく、一度見ただけでは覚えられない情報量を有していた。
だから、写してきた日に一度見せてもらったにも関わらず、いま、また地図を広げてもらっているのだ。
お父さんが新聞を広げるように、イリアは大きな地図を両手に持つ。
私はイリアの斜め後ろから、その地図を覗き込んだ。
……この位置関係だと、イリアの耳に息がかかってしまうかもしれない。気をつけないと。
私は、えっちだと言われたことを、未だになんとなく意識してしまっているのだ。
「この分かれ道を右に行くと……コップルリアで、左に行くとミッツルリアね」
「はい、大きな街でいうと、そうなりますね」
イリアが持つ地図を見てみると、まず地図全体に渡るように大きな円が描かれているのがわかる。
そして、ちょうどそれの上下左右に、かつての人間の街が存在しているようだ。
他にもいくつかの村なのか集落なのかが描かれているが、名前も付いていないので、とりあえず目指す場所にはならないだろう。
吸血鬼の街が、東西南北の地区に分かれていたから、この地図もその方角で考えていいよね。たぶん。
私たちがいた吸血鬼の街は、円の下方――地図の南側に描かれている、ダブルリアという街だったらしい。
ただ、街の人間であるはずのイリアも、地図を書き写すまでは街の名前を知らなかったようだ。
確かに、名称が有効になるのは他と区別するときなので、街の外に出ないイリアたちにとっては、名前なんてあってないようなものだったのだろう。
ちなみに、地図に書かれた文字は元の世界で見たことのないようなものだったが、言葉と同じように、意識しなければ普通に読むことができた。
人間の頭っていうのは、つくづく便利なものね。
「このコップルリアとか、ミッツルリアがどんな街か、イリアは知ってる?」
私は身を乗り出して、地図の東側のコップルリアと、西側のミッツルリアを順に指し示した。
地図で見る距離的には、どちらも大差ないようだったから、私としてはどっちに行くでもいいのだけれど。
「いえ、わからないです……もしかしたら、そういう書物があったのかもしれませんが……」
イリアが申し訳なさそうに言うので、私は努めて明るく振る舞う。
なにか情報があれば、と軽い気持ちで聞いただけだから、そんなに悲しい顔をしないでいいの。
「とりあえず、ヴァネッサに聞いてみよう。亀の甲より年の功だから、きっとなにか知っているはずよ」
「――お呼びでしょうかっ」
突然に、私の影から長生きおばあちゃん――推定ミレニアム以上――が飛び出してきた。
吸血鬼であるヴァネッサは太陽の光が苦手だから、昼間は私の影にいることに決めた。
でも、影の中ではほとんど寝ていると聞いていたけれど。
たまたま、起きていたのだろうか。
「サナ様が、私の名前を呼んだ気がしたので、目が覚めましたっ」
ヴァネッサの瞳は、寝起きには見えないぐらいに爛々としている。
ちょっと名前を呼んだぐらいで、そんなに張り切られると、私も困るのだけれど。
「えーと……東のコップルリアに行こうか、西のミッツルリアに行こうか悩んでいるのよ。ヴァネッサは、どっちがいいと思う?」
ヴァネッサは、私と反対側からイリアの持つ地図を覗き込みながら、真剣な顔で考えてくれている。
ただ、ヴァネッサはパーソナルスペースをあまり意識しないのか、私とイリアの顔の距離と比べて、ヴァネッサとイリアの距離がとても近い。
ちょっと横を向いたら、イリアの頬にヴァネッサの唇が当たってしまうのではないだろうか。
なぜだか、私がドキドキしてしまう。
「この地図、イリアが書いたの? すごい綺麗ね」
すると、地図からイリアに視線を移して、ヴァネッサはイリアを褒めた。
その至近距離からヴァネッサに微笑まれて、イリアは恥ずかしそうに俯く。
「もともとあったものを、書き写しただけですよ……?」
ぼそぼそとつぶやくイリアの耳が、赤く染まりはじめているのが、私からは見えた。
しかしヴァネッサはそんなことお構いなしに、俯くイリアを見つめる。
「それでも、とても見やすいわ。サナ様、ここからここまで、山脈があります」
一頻りイリアを褒めたあと、ヴァネッサは、地図の北東から南西に描かれていた、円を斜めに二分するギザギザの線を示しながら言う。
地面に亀裂が入っているのか、山々の連なりを表しているのか、どちらかだと思っていたが、どうやら後者だったようだ。
じゃあ、いま私たちの前に見えている、壁のごとくそびえる山々は、それの一部分なのかな。
「いまの季節、山脈の向こうは雪が降り積もり、歩くのが困難だと考えられます」
アイピアにも、季節があるのね。
でも確かに、女神アイリのタブレット端末には、地球と同じような惑星が映っていたから、季節があってもおかしくはないだろう。
「だから、とりあえずは、山脈のこちら側の街に行くのがいいかと思います」
私たちと同じ側として、東の街コップルリアをヴァネッサは指さした。
「じゃあ、コップルリアに行こう」
「人間の街の名前はわかりませんが、そうですね」
地図から私に視線を移して、ヴァネッサは微笑みながら頷いた。
うっ……可愛すぎる。
私は、ヴァネッサのせいで鼓動を速めた心臓を落ち着かせるために、視線を逸らした。
「……ヴァネッサが、ちゃんと役に立ったの初めてね」
ごまかすための、ちょっとした悪態を吐いてみる。
「えっ? 人間との話し合いのとき、吸血鬼の性質を説明したと思いますが……」
そういえば、そんなことがあったような気もする。
基本的にヴァネッサはきもちわるいから、変態という印象が勝ってしまっていたのだろう。
「ヴァネッサは、山脈の向こうにも行ったことあるの?」
あからさまに話題を切り替えてみたが、ヴァネッサは不満そうな様子もなく答えてくれる。
「この街を吸血鬼が支配するようになる前は――」
地図の南にあるダブルリアを指さしながら、言葉を続けた。
「この辺りに、兄様と城を構えていました」
ダブルリアから、ほっそりとした指が地図上を滑り、北西の端で止まる。
西の街、ミッツルリアのちょうど真北ぐらいの場所だった。
「季節によっては吸血鬼の私でも寒いぐらいだったので、こっちの街を分配してもらえて、よかったです」
百五十年前の、魔物による支配地域分配のことを言っているのだろう。
どういう風に分配したのかが気になったが、支配されていた側の、イリアの前でする話ではないかと思って、止めておく。
「あまり寒くなることがないですからね、この辺りは」
そんな私の気持ちをよそに、イリアは楽しそうな声を上げる。
特に、気にしている様子ではないようだ。
ヴァネッサと、仲良さそうにいちゃいちゃしている。
「この前初めて、雪ってものを見たんですよ」
イリアは私の方を向いて、微笑むのだった。
そんな話をしてから、東のコップルリアに向かう途中でたどり着いた、石造りの簡素な小屋で、私たちは野営をすることにした。
簡素な小屋とはいっても、造りはしっかりとしていて、中には用途の使い分けは不明だが、三部屋もあった。
もしかしたら、街道沿いにはこのような小屋がいくつか存在するのかもしれない。
そして現在、幽霊とかお化けが出そうな時間帯。
私は、その小屋の入り口の扉をそっと開けて、外に出る。
内部の部屋と部屋の間には扉がなかったけれど、さすがに外との間には鉄製のしっかりとした扉が存在していた。
入り口からは見えない、小屋の角の向こう側にイリアとヴァネッサはいるようだ。
ゆっくりと歩みを進めて、私はそちらに向かう。
聴力が強化されている私の耳に、微かな喘ぎ声と、水を舐めるようなぴちゃぴちゃとした音が聞こえる。
角を曲がった私の視界に、壁にもたれかかり座っているイリアと、その首筋に顔を埋めるヴァネッサの姿が広がった。




