第二十五話 旅のはじまり
たこつぼの中から見えるたこさんの瞳が、私に助けを求めるように潤んでいたので、そろそろ助けてあげようと思う。
「――はい、静かに!」
手を二回打ち鳴らして、私は――幼稚園の先生になった気分だ――この場を静める。
そして、取り散らかってしまっている状況を、無理やりにまとめる。
「エリちゃん、私がこの街に戻ってきたら、好きなだけその頭を撫でさせてもらうわ」
嫌そうにエリザベートは顔をしかめるが、しぶしぶといった様子で頷いてくれた。
ふふ……私が期間や回数を指定しなかったことに、エリザベートは気付いていないようね。
やはり、意外と純粋なポンコツさん――だから可愛い!――だこと。
「イリア、いまになって思えば、あなたの耳が弱すぎただけだったんじゃない?」
でも、と言い淀みながら、イリアはもじもじとする。
イリアのいじらしさは、私にとって脅威かもしれない。
あまり甘やかしすぎると、女神アイリとの約束を遂行する上で、大きな障害になりかねない。
イリアには、厳しく接するようにしていかなければならないだろう。
「いや、私が耳元でつぶやいたのがダメだったよね? ごめんね、イリア」
あれ? 心もしくは頭で思ったことと、違う言葉が口をバールでこじ開けて外に出ていく。
「いえ……私の耳が、弱いんです」
そう言いながらイリアは、両手で耳を覆うようにして俯いてしまう。
たぶん、私のことをえっちと罵ったことを、気にしているのだろう。
ちゃんと、食堂でのことは気にしていないと、イリアに伝えなければならない。
「えーと……今度確かめてみようね」
「えっ?」
私の言葉を聞いて、下を向いていたイリアが、ぱっと顔を上げた。
イリアは目をしばたたかせて、唖然とした赤らめ顔を私に向けている。
やばいやばい、また思ってもいないことを口走ってしまった。
これ以上イリアと話していたら、自分がどんな失言をしてしまうかわからない。
私は、イリアの影から頭だけをにょきっと出しているヴァネッサに、視線を移す。
どれほど美しい蚕の繭ならば、この神秘的な青い艶めきを生成することができるのだろうか。
そのように思わせるほどの絹を小さな頭に載せたヴァネッサが、柔らかそうな頬を少し膨らませて、私を見ていた。
……よく考えたら、ヴァネッサもかなり危険な存在なのよね。
もし、ヴァネッサがイリアのいじらしさを身につけてしまったら、吸血鬼に金棒、トマトジュース――美少女が絶対可憐……もうとにかく、わけのわからないことになってしまうだろう。
「……ヴァネッサ、なにを怒っているのかしら?」
ハムスターでないならば、こんなに不自然に頬が膨らんだりはしないはずだ。
「別に怒ってはいないですけど、私も抱きしめてほしいって思っただけですっ」
ヴァネッサは、気持ちを隠すということを、ほとんどしない。
いまも、本当に怒っているわけではないし、抱きしめてあげればそれで機嫌を直すのだろう。
「そんなこと言ったって、しょうがないじゃない」
しかし、物事には流れというのが存在するのだ。
じゃあ、これからヴァネッサちゃんとサナちゃんが抱き合いまーす、ひゅーひゅー。
……そんな状況で、ハグなんてできるわけがない。
ヴァネッサは、子どものように口をとがらせる。
その姿は、よくデパートにいる、おもちゃを買ってもらえなくて不満そうな小学生だった。
「ふふ……子どもだったら、まあ、いいのかな」
そうつぶやいてから、私はヴァネッサに歩み寄る。
怪訝そうに、近づく私をヴァネッサは見上げてくる。
私は、私の何十倍も長生きしているはずの――百倍以上かも――お子ちゃまの頭を掴んで、イリアの影から引っぱり出した。
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げたヴァネッサを、私はぎゅっと抱きしめる。
魔物は魔素で構成されているらしいのだが、ヴァネッサの体温は、人間となんら変わりがないように思えた。
突然に抱きしめられたことで、最初は、ヴァネッサはあわあわと慌てていた。
しかし、状況が把握できたのか、嬉しそうな声を上げてから、私を抱き返してきた。
というか、ヴァネッサはコアラみたいに私にしがみついている。
重いということはないけれど、こんな子どもをあやすような抱き方でいいのかな。
「んっ……ふふ、んふっ……」
なんかご満悦なようだから、まあいいか。
私の頬に、ヴァネッサの吸い付くようなしっとりもっちりほっぺたがすりすりされる。
「――あぁ……サナ様ぁ、もっと強く……」
……なんか調子に乗ってきたから、もういいか。
ヴァネッサの両方の脇腹を持って、離されまいと抵抗してくるヴァネッサを、私は無理やりに引き剥がす。
「……もういいでしょ」
赤くなっているであろう顔を隠したかったのだが、両手でヴァネッサを抱え上げているからできなかった。
「んはぁ……はぁい、満喫、しました……」
陶然とした表情を、ヴァネッサは浮かべている。ちょっときもちわるい。
まあ、ヴァネッサが満足してくれたことで、この場の憂いはすべて解決した。
心おきなく、人類救済の旅が始められるだろう。
「じゃあ、先に行っていて」
ヴァネッサは蕩けた様子だったから、私の言葉の意味を理解できていなかったかもしれない。
「え、先に、とはいったい……?」
我に返ったように、ヴァネッサがつぶやいた。
そのとき、もう私は、両手で抱えたヴァネッサを大きく振りかぶっていた。
北側の門は……あっちの方向だったよね。
「私たちもすぐに行くから」
そうヴァネッサに告げてから、私は両手でヴァネッサを投げた。
コマ送りのアニメーションのように、ヴァネッサの姿がどんどん小さくなっていく。
お兄ちゃんが出場した、サッカーのインターハイを観に行ったとき、どんな背筋を持っているのだろうと思うぐらい、飛距離のあるスローインをする選手がいた。
それと比類することができないぐらいに、大きな放物線を描いて飛んでいったヴァネッサが、北の門の上空に消えていったのを確認する。
「じゃあ、エリちゃん、人間たちをよろしくね」
ヴァネッサが飛んでいった方向を呆然と眺めているエリザベートに、私は声をかけた。
そして、同じように口をぽかんとさせているイリアを、私は抱き上げる。
背中と、お尻にそれぞれ腕を回して、しっかりと私にイリアの身体を固定した。
バックパックは、ちゃんと背負える形状のやつだから、大丈夫だろう。
もし落としてしまったら、拾いに戻ればいいのだ。
「……もしかして、歩いて行かないつもりか?」
エリザベートが、大理石の階段にちらっと目線をやってから、確認するように聞いてくる。
「ええ、あんな大勢の人の中を通りたくはないわ」
しかも、私のことを女神だと思って崇めてくるような視線を浴びるのだ。
考えただけでも、恥ずかしい。
「……ヴァネッサは飛べるのだから、わざわざ先に投げておかなくてもよかったんじゃないか?」
……ああ、確かに、蝙蝠の姿になればいいのか。
いや、なんかきもちわるかったから、つい投げちゃった。
「え、サナさん……つまり、どういうことですか?」
私に抱きかかえられたイリアが我に返ったようで、私の耳の近くで疑問の声を発する。
……確かに、耳元で喋られると、むずむずとくすぐったいわね。
「跳ぶから、舌を噛まないように、口を閉じていなさい。あとは、私にしがみついていればいいわ」
私が端的に必要なことだけを伝えると、イリアは言われたとおりに黙って、私に抱きつく力を強めた。
見た目は華奢な女の子だけれども、イリアは吸血鬼の眷属だ。
もし普通の人間がイリアに抱きつかれたら、骨の一本や二本どころか、骨抜きにされてでろんでろんになってしまうだろう。
私は、大丈夫だ……身体的には、大丈夫だ。
「丘の下に集まった人間たちは、どうするんだ?」
ずずっと私の影から出て――呪われたビデオのやつみたいに――いきながら、エリザベートが私に聞いてくる。
「サナは、もう行ってしまった――人間たちには、そう伝えておいて。このままだと、あなたたちもゆっくり休めないでしょ?」
実際に、いまも歓声というか嬌声というか、丘の上まで人間たちの声が響いてくる。
もしかして人間たちは、いままで静かに生活させられていた憂さ晴らしをしているのではないか――と思うほどだ。
「まあ……そうだな、わかった」
とりあえず納得したといった感じで、エリザベートは頷いてくれた。
「あとは……ヴァネッサを、よろしく頼む。なんだかんだ、妹みたいなやつなんだ」
そう言うエリザベートの顔には、なにか温かな感情が見て取れた。
初めて見るエリザベートの表情だったので、なんだか嬉しくなってしまう。
「へえ……」
私がにやにやとしているのを見て、エリザベートはなにかに気付いたようにハッとする。
「ばか! 妹っていうのはっ……違うぞ、ヴァラド様のことは関係なくてだな――」
私はなにも言っていないのに、エリザベートは顔を赤らめながら、ごにょごにょと言い訳していた。
「まあ、愛というのは平和の礎になるものだからね……」
争いの火種にもなるけれど……それだけ、愛情が大きなエネルギーを秘めているってことなのかしらね。
愛とか言うなっ、とエリザベートが怒るのを横目に、私は街の北側に身体を向ける。
私が動いたことで、イリアは私にしがみつく力をさらに強めた。
「じゃあ、行ってきます」
「……行ってらっしゃいっ」
まだ怒りが収まっていない様子の、エリザベートの声が耳に届いた。
怒っていても、見送りの言葉はかける――微笑ましいわね。
私は、石畳の地面を強く蹴って、吸血鬼の城が立つ丘から飛び出す。
風を切る音が耳元で騒がしく列をなしていて、さらに眼下を早送りで街の景色が流れていく。
丘の下に集まっていた人間たちは、私の姿が見えただろうか。
鳥かなにかにしか、見えなかったに違いない。
そうでなければ、ワンピースを着ている私は、困ってしまう。
「――よっ、と」
私とイリアを合わせた力学的エネルギーは、そのままぶつかれば北側の門を粉砕してしまうかもしれない。
だから私は、上手く力を受け流しながら、門の横に立つ塔に着地した。
塔と、それに続く城門や城壁が揺れた音がしたけれども、壊してしまったということはなさそうだった。
ここは、西洋風な街の景色と、黄金色の小麦畑の景色をまとめて楽しめて、いい場所ね。
「……サナさん?」
耳元で、イリアが私の名前をつぶやくのが聞こえた。
景色から目を返してもらって、私はイリアに言う。
「もう少し待って、外に降りるから」
イリアが頷く気配がしたので、私は塔から街の外に向かって飛び降りた。
この前はちゃんと門から外に出たけど、今日の方が、なんだか少しわくわくする。
「はい、もう大丈夫」
まだ私にしがみついているイリアの肩を、私は、ぽんぽんとたたいた。
ゆっくりと、イリアを地面に下ろしてあげると、イリアは辺りをきょろきょろと見渡した。
地平線まで永遠と続く石畳の一本道と、その左右には小麦の道が、やはり永遠に続いている。
「……街の外に出るのは、久しぶりです」
感慨深そうに、イリアが私に言った。
その表情には、はるか遠くを懐かしむような穏やかさを感じた。
「久しぶりってことは、出たことはあるの?」
言いながら気付いたのだけれど、小麦畑が外にあるのだから、街の人間が外に出られないことはないのだろう。
「はい、小さい頃は、お父さんの畑仕事を手伝ったり、友達と遊んだり……外だったら、昼間でも思いっきり遊べたので……」
いま、この場にイリアは存在していなくて、過去の思い出の中にタイムスリップしているのだと思う。
心ここにあらず、とは言い得て妙だ。
私は、イリアが帰ってくるのを、のんびり待つことにしよう。
長かったのか短かったのか、幾ばくの後に、イリアは微笑みを浮かべた。
「――サナさん、行きましょう! ヴァネッサ様が、きっとすねていらっしゃいますから」
確かに、この道の先、かなり遠くにヴァネッサの気配を感じる。
肉眼で直接見えるわけではないけれど、体育座りをして、いじけている姿が目に浮かんだ。
早く行ってあげなきゃね。
私の手を取って、イリアは歩き出した。
イリアに引っぱられるようにして、私も前に進んでいく。
イリアは、少しずつ歩く速度を上げていき、ついには、走る――といっても差し支えない速度になっていく。
逃げているのか、それとも進んでいるのか。
私からは、ひたすら前を向くイリアの表情は窺えない。
嗚咽の微かな音が石畳に落ちて、進む私たちの後ろに転がっていくのが、わかるだけだ。
籠の中の鳥が外に出たら、幸せになれるのだろうか。
囚われていたときを思い出して、こうして涙を流してしまうのではないだろうか。
私に、なにができるのかは、わからない。
だから、せめては、ただこの手を離さずにいよう。
簡単に離すことがないように、私はアイリから力を授かったのだから。




