第二十二話 無慈悲なパラドックス
私の前に座るイリアは、指をひとつずつ折りながら、旅に必要なものを考えているようだ。
イリアに任せておけば、つつがなく旅を始められそうだ。
超絶有能メイド――特に可愛い――だから、嫁にほしいという殿方は星の数に達するだろう。
しかし、どこの馬の骨ともわからんようなやつに、イリアをあげることなんてできない。
「私も、サナ様のお手伝いがしたいです!」
私がイリアの嫁入りのことを考えていると、隣できもちわるい声を上げながらぴくぴくしていた吸血鬼さんが、元気よく懇願してきた。
私への愛情を煮詰めて濾して、目薬で差したようなヴァネッサの視線を受けながら、私は考える。
ヴァネッサに手伝ってもらうことか……なにか、あるかな。
ふむ、いまから私は、街の東地区の人間たちを癒やしに行くつもりだ。
ヴァネッサが西地区から癒やしていってくれるなら、時間短縮になるかもしれない。
「あなた、人間の治療できる?」
私の問いかけを聞いて、元気のよかったヴァネッサは急激にしょんぼりする。
「……魔物は、人間を治癒することはできません」
そうなんだ……じゃあ、ヒールは自然界の精霊によるものではなく、人間固有の魔力によるものなのかな。
残念ながら、傷の精霊さんは存在していなかったのかもしれない。
気になるから、ヴァネッサに聞いてみよう。
「ヴァネッサ、ヒール――治癒魔法の名前ね、これを使って、どうして怪我とか病気を治せるのか知ってる?」
私の質問を聞きながら、ヴァネッサのしょんぼり具合に拍車がかかったことに気付いた。
これは、知らないのだろうな。
「……私は、あまり難しいことはわかりません、兄様だったらわかると思うのですが……」
「ふむ……」
私がヴァラドに聞きに行く時間が取れるのかを考えていると、ヴァネッサはなにを勘違いしたのか、椅子を倒さんばかりの勢いで、私の足もと――椅子もと?――に跪いてきた。
「サナ様! 私が役立たずだからと、兄様と交換しようとしておいでですかっ?」
いや、そんな気はさらさらなかったのだけど。
私はヴァネッサを連れて行きたい。可愛いから。
でも、なんか面白そうだし、もう少しだけ顎に手を当てて考えているふりをしておこう。
「っ! えっと、えと……ヒール? ヒールは、人間の中でも使えるやつはあまりいません。そもそも、自分の魔力を他人に分け与えられるほどの余剰魔力を持っていないといけないからです」
ヴァネッサは早口で、持てる限りの知識を披露しはじめた。
必死になりながら、ちらちらと私を上目で見て、ご満足いただけたのかを確認しようとしている。可愛い。
「現在はもう存在していないと思うのですが、百五十年前は、切り落とした腕をくっつけて治療していたやつもいました」
「へえ……それ、腕がどっかに行っちゃったとしても、ヒールで生えてくるとかするのかしら?」
私が反応したことによって、ヴァネッサに笑顔の花が咲く。
元の世界の、デルフィニウムかネモフィラか。
中学校の朝読書の時間に読んだ、図鑑――植物図鑑を読んでいるのは私だけだった――のページが思い出される。
「いえっ! そこまでの治癒術士は見たことがありません。あと、こうやって肩から脇腹まで――」
ヴァネッサは自分の手を、左肩から――わりと大きめの胸を通って――右の脇腹まで動かした。
「――ズバッと人間を切断したときは、隣に治癒術士がいましたが、為すすべがなかったようでしたっ」
嬉しそうに報告をしたヴァネッサは、私の視線が数度冷ややかなものになっていることに、敏感に気付いたようだ。
言葉の終わりのまま口をぽかんと開けながら、頭の中では急ピッチで原因究明を図っているところだろう。
しかし、ヴァネッサが原因を看破することはできない。
なぜなら、神のいたずらとも言うべき運命によって、ヴァネッサは理不尽な怒りをぶつけられているからだ。
「……あっ! 私、人間を殺した話などを……申し訳ありませんっ!」
やはり、不正解だ。
ヴァネッサは私の椅子もとで、頭を床にこすりつける勢いの土下座を披露するが、それは無駄土下座だった。
「そんなことはどうでもいいのよ……」
私が怨嗟の込められたつぶやきをすると、ヴァネッサはおそるおそる顔を上げた。
私は、眼下のヴァネッサの胸を眺めながら、思案する。
さて、どうしたものか。
「……なにかご不満を感じたならば、おっしゃってください。必ず、解消いたしますっ」
私の視線と沈黙に耐えきれなかったのだろう、ヴァネッサは悲壮な表情で私に訴えかける。
「ふぅん……あなたが、そこまで言うなら」
「……んっ」
ヴァネッサの生唾を飲み込む音が、私の耳にまで届いた。
いったい、私がどんなことを言うと思っているのだろうか。
ヴァネッサは少し上気した頬で、潤んだ上目遣いで私を見つめてきている。
「吸血鬼は、言ってしまえば影なのよね?」
ヴァネッサは少し考えたあと、こくっと頷く。
頷いたと同時に、長いまつげを有したヴァネッサの目が、艶めかしくまばたきをした。
「いまのあなたの姿は、自分で作っているものなの? それとも、自然とその姿になるものなの?」
ヴァネッサは幾ばくか私の意図を考えたようだが、わからなかったのだろう。
逡巡しながら、私の質問に回答した。
「……この姿は、私が、自分という存在を認識したときから変わりません」
「変えることはできないの?」
例えば、その私に比べれば豊満な膨らみとか……ふむ、元の世界の私に比べたら、小さいかもしれない。
そのことが逆に、私のむなしさ――空虚であること、私の胸といっしょね――を加速させる。
「……うぅ、うっ」
私の言葉を聞いて、ヴァネッサは急に泣き出してしまった。
うっ……罪悪感が私を苛めてくる。
「しゃ……しゃなしゃまは、私の、ぐすっ……外見が、おっ、お嫌いなのですね……」
「いや、そんなわけないじゃない。あなたは――可愛いと思うわ」
私は焦ってしまって、語彙力をどこかに落としてしまっていた。
ねえ、私のどこが好き?
これの返答が、可愛い、だけの彼氏はすぐにフラれてしまうと思う。
もしフラれないとしたら、けっきょく彼女の方が彼氏のことを大好きなのだろう。
「え……可愛い、ですか……?」
ヴァネッサは、ちょろいヒロインだったようだ。
可愛い、ともう一度うわごとのようにつぶやいたヴァネッサは、にやにやとした顔を隠すためか、俯いてしまう。
顔を下に向けても、涙のしずくが落ちることはなく、ヴァネッサが機嫌を直してくれたのがわかった。
というか、吸血鬼も涙を流すのね。
「あなたの外見は、嫌いじゃないわ。ごめんね、紛らわしいこと言っちゃって」
女神アイリへの怒りによって、ずいぶんと我を失ってしまっていたようだ。
あれもこれも、嫉妬という醜い感情によって、私から胸を奪ったアイリが悪い。うん、そういうことにしておこう。
「うふふふ……イリア、サナ様が、私のことを可愛いっておっしゃってくれたわ」
ヴァネッサはすっかり元気になって立ち上がり、机の向かいで事態の成り行きを紅茶とともに見守っていたイリアに、なぜか勝ち誇ったように告げた。
よく考えたら、私はこの二人の関係をなんとなくしかわかってないのよね。
一緒に朝のティータイムを過ごしていたのだから、仲良しだと思うのだけれど。
「よかったですね、ヴァネッサ様は、可愛いに決まってますもの」
イリアは微笑みを浮かべて、ヴァネッサを素直に褒める。
ヴァネッサのどや顔が深まり、嬉しそうに顎を上げて、まさに鼻高々という感じだ。
やっぱり、イリアとヴァネッサの関係は良好のようだ。
これから長い旅になるだろうから、仲良しなのがなによりである。
「ちなみに――」
微笑むイリアの瞳の中に、ちらりと光が見えた気がした。
それは、元の世界のドキュメンタリーで、野生のヤマネコがジャングルの中からこちらを窺っている瞬間を見たときのような、不気味さを感じた。
「私が泣いてしまったとき、サナさんは優しく抱きしめてくれました。私が泣き止むまで、ずっと、背中をぽんぽんと」
「なっ……!」
ヴァネッサは、開いた口がふさがらないといった様子だ。
それを見て、イリアがわずかに口角を上げたことに、私は気付いた。
「まあ、愛情のこもった言葉をいただけたのですから……ヴァネッサ様、よかったですね」
さっきのよかったですねと、いまのよかったですねのニュアンスが、微妙に違った。
ヴァネッサもそれに気付いたようで、悔しそうに地団駄を踏んでいる。
「くぅ……サナ様っ! 私も抱きしめてください!」
「いやよ、恥ずかしい」
両手を広げて、私の座る椅子の横まで近づいてきたヴァネッサを、にべもなく斬り捨てた。
しかし、斬り捨てた――つもりだったのだけれど、ヴァネッサは諦めずに抱擁への糸口を探している。
「恥ずかしい、ということは……? イリア、悪いんだけど、少し席を外してくれないかしら? あなたに見られていると、サナ様が存分に私を抱きしめることができないみたいなの」
さも当然のことのようにヴァネッサは話しているが、別にイリアが見ているから恥ずかしいと言ったわけではない。
いくら女同士とはいえ、なんの理由もなく抱き合うとなると、どんな心持ちで臨めばいいのかわからない。
それに、ヴァネッサをハグしたら、せっかく静まった怒りが再燃することは必至なのだ。
わざわざ、可愛い女の子を泣かせてしまう悪鬼羅刹を産み出す必要は、ないだろう。




