第二十話 癒やしの御手
私が二階の一室に入ると、ベッドのような家具に横になっている女の人――ミルナのお母さんだよね、状況を考えると――と、そこに寄り添うミルナの姿が目に入ってきた。
室内には小さなテーブルやタンスなどが置かれていて、普通の部屋という印象だけれど、窓が開け放たれているのが目についた。
リースさんの家の窓は、すべて閉めきられていたからね。
「ミルナ、お母さんの様子はどう?」
ベッドに歩み寄りながら、私は静かな声でミルナに聞いてみた。
「寝てるみたい……」
私の声が伝染したように、ミルナも静かな声で返事をする。
ベッドの横に立って、私はそこに寝ている女の人の姿を見下ろした。
確かに、寝ているだけといえば、寝ているだけなのだけれど。
私に医学の知識なんてないから、正しいかどうかはわからない。
しかし、不規則な呼吸を繰り返していること、そして血の気の引いた顔色、うっすらと現れている目の下のくまなど、この女の人が元気でないという事実は明らかであった。
「……どうでしょうか?」
どこかから持ってきた金属製の水差しと、いくつかのコップを手に、リッツさんが部屋に入ってきて私に聞く。
私は、リッツさんに恨めしげな視線を送る。
なにが、寝ているだけだ。ふざけんな。
その視線を受けたリッツさんは、びくっとして、水差しの中で跳ねた水が外に出て床を濡らした。
「……あなたたちは、もっと自分を大切にすべきよ」
「えっ?」
私のつぶやきは、部屋に入ってきたばかりのリッツさんにも、お母さんの様子を必死に見ているミルナにも、よく聞こえなかったようだ。
しかし、私の視線を受けたリッツさんは、また少し私を恐がるようになってしまったかもしれない。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「ミルナ君、ちょっとどいてもらっていいかしら?」
私の方を振り返ったミルナは、小さく頷いてから立ち上がり、リッツさんのところにとことこと歩いた。
ミルナがお父さんの横にちゃんと収まったのを確認してから、私は寝ている女の人に向き直る。
もしかしたら、魔法の繊細なコントロールとかが必要なのかもしれないからね。
私は、女の人の首もとまでかかっている毛布を、お腹の辺りまで下げた。
「心労がたたって……? たぶん、頭とか心臓だよね……」
私はぶつぶつとつぶやきながら、私の左手を自分の胸に、右手を女の人の胸に当てる。
どくん、どくん、と私の心臓は一定のリズムを刻んでいるが、女の人の心臓は鼓動が速く、ところどころ乱れていた。
「……おかしい、速すぎでしょ…………不整脈って、呼吸にも影響するのかな……?」
うーん……学校の保健の授業を、もっとちゃんと受けておくべきだったかしら。
まあ、週に一回だけだったし、そもそもなにを授業でやっていたのかも、うろ覚えだし。
次に、女の人の足先を、毛布をめくって掴んでみる。
足を触られているのに、女の人が起きる様子はない。
私だったら、くすぐったくて跳び起きてしまうと思う。
別に寒い気温ではない――だから窓を開けているのだろうが――にも関わらず、女の人の足はひんやりと冷たかった。
手も同じように触ってみると、やはり冷たい。
「心臓の力が弱くなっている……いや、そもそも血が足りない……?」
私は毛布を元に戻してから、ミルナとリッツさんのところに、とてとてと歩み寄る。
「リッツさん、手と足を触らせてください」
返事を待たずに、私はリッツさんの手を取って、その温度を確認する。
リッツさんは困惑しているが、なにも言わずに、為すがままにされてくれた。
「靴、脱がせますね」
私は次に、リッツさんの足もとに跪き、靴のひもを解いて靴と、靴下も脱がせる。
足の指先を覆うように、私はリッツさんの足を掴む。
「ひっ」
……くすぐったかったようだ。
リッツさんが足を引こうとするのを、私は力でねじ伏せる。
男なんだから、少しは我慢しなさい。
私が足から手を放すと、リッツさんは後ろにたたらを踏んだ。
「リッツさん、あなたと――ミルナのお母さんが、最後に吸血鬼に血を吸われたのは、いつですか?」
私は立ち上がりながら、リッツさんに質問する。
リッツさんの手と足は、普通に温かみを感じた。
まあ、起きて歩き回っていたリッツさんと、ずっと横になっていた女の人を比べるのもおかしいかもしれないけれど。
リッツさんは記憶を探るように、顔をしかめながら考えてくれる。
そんな顔をしてもかっこいいのだから、もっと自分に自信を持てばいいのに、と少し思った。
「えーと……二人とも同じぐらいの時期で……確か、五十日以上は前だったと、思います」
「なるほど、ありがとうございます」
じゃあ、吸血鬼に血を吸われたことでどうこう――ということではないのだろう。
私は、女の人の隣に戻ってくる。
「……うん、わからないわね」
私は小さくつぶやいて、確認を終えた。
もしなにか原因がわかって、それに対処できるようになるなら――そう思って試行錯誤してみたのだけれど、精神的なものなんて、どうにかできるというものではない。
「やっぱり、やってみるしかないか……」
寝ている女の人の鎖骨と鎖骨の間に、私は手を添える。
原因でありそうな心臓、もしくは頭や肺に近いところで魔法を使うと、より効果がありそうな気がしたからだ。なんとなく、だけど。
ミルナの傷を治したときと同じように、この女の人が元気になるように、私は願った。
幾ばくか時間が過ぎたとき、ミルナのお母さんの呼吸が安定しはじめた。
それに伴って綺麗な――ずいぶんと可愛らしいお姉さんだ――顔に血色が戻り、目の下のくまも目立たなくなった。
私は、女の人の様子を確認してから、魔法を使うのを止める。
「……ありがとう、精霊さん」
どこにいるのかわからないけれど、私は精霊に感謝を述べる。
女の人の髪の毛が少し乱れていたので、手ぐしでささっと直した。
そして、後ろで待つミルナとリッツさんに振り向くと、二人は、不安と喜びを足してから平均をとるために割ったような、不思議な表情を浮かべていた。
「もう、大丈夫だと思います。目が覚めたら、お水でも飲ませてあげてください」
「お母さんっ」
ミルナがベッドに駆け寄り、お母さんの顔を覗き込む。
その振動でベッドが少し揺れたけれど、お母さんが起きる気配はまだない。
「急に身体が元気になってびっくりしているかもしれないから、自然に起きるまで待ってあげてね」
私がそう言うと、ミルナは両手で自分の口を押さえて、力強く頷いた。
「ミローナ……」
お母さんの名前だろうか、亡霊のようにベッドに歩み寄りながら、リッツさんがつぶやく。
むきむきリースさんの奥さんの名前が確か、ミリーナだったから、なにか地域性みたいなのがありそうだ。
リッツさんの目から数滴の涙が流れるけれど、リッツさんはそれをぐしぐしと袖で拭って、私の方を向く。
「本当に……本当に、ありがとうございまし――てっ!」
私に向かって頭を下げたリッツさんの後頭部を、私はすぱんと叩いた。
感極まったのかもしれないけれど、声がでかすぎだ。
ミローナさんが、起きちゃうかもしれないでしょ。
何事かと振り向いたミルナに、なんでもないよと微笑む。
「静かにしなさい、ばか」
ミルナに聞こえないように、私は小声でつぶやいた。
「あ……そうですね、すみませんでした」
リッツさんは、声とともに態度まで小さくなってしまった。
確か、リッツさんはエリザベートの眷属なんだよね。
尻に敷きたくなるというかなんというか、エリザベートの好きそうな男の人だなぁと思う。
「えーと、聞きたかったことなのですが」
気を取り直して、人間の魔法について聞いてみよう。
リッツさんは頷きながら、はい、という口の動かし方をしたのだけれど、音は出ていなかった。
「この街の人間たちは、魔法をどのくらい使えるのですか?」
私は、部屋の入り口の方に移動しながらリッツさんに聞いてみる。
ミローナさんを起こさないようにしないとね。
「魔法……サナ様の使っていたような……?」
私の後ろをついてきたリッツさんが、小さな声でつぶやいた。
「ええ。例えば、火を出すのは?」
「それは、みんなできると思います。小さい子どもは家事といっしょに、生活に必要な魔法を教わりますから」
私の問いに、リッツさんは淀みなく答える。
さすがファンタジーの世界、魔法というものが当たり前に根付いているのだろう。
「じゃあ、私が火を発生させたとき、どうしてあんなに怯えていたのですか?」
人間も魔法を使えるということであれば、そんなに驚くことではないと思うのだけれど。
「あ、あんなに大量の火を出すことは、なかなかできません。それに、火をなにかの形にするなんて……」
リッツさんは私の顔をちらっと見て、おどおどとしはじめる。
ふむ、なんだろう……リッツさんの思考を想像してみる――ぽくぽくぽくと木魚をたたく音が私の頭に流れる――と、なんとなくわかった気がする。
「――普通の人間にはできない?」
私の言葉を聞いて、リッツさんの肩がびくっと跳ねる。
言葉のニュアンスはわからないけれど、当たっていたようだ。
「ふふ……気にしないでください。私は自分のことを普通だとは思っていません。もしかして、人間じゃなくて魔物かもしれない、とも思ったのではないですか?」
「……少しだけ、思いました」
別に私は心を読む魔法を使ったりしているわけではなく、それだけリッツさんがわかりやすいということだ。
悪い人ではないのだけれども、うーん……私のタイプではない。
私は、十六年の人生の中でまだ出会ったことはないのだが、お兄ちゃんみたいな人がタイプなのだ。
元の世界の友達には、理想が高すぎてドン引きする、と真顔で言われたけれども。
「私が人間でよかったですね」
「はい、それはもう……本当に……」
ちょっとした皮肉を込めた言葉も、素直に受け取られてしまった。
私より頭ひとつ分以上は背が高いのに、リッツさんはとても小さく見える。
「さて、聞きたかったことも聞けたので、私はお暇します」
ちょっとやりたいことができたから、早めに移動をしていこう。
「あっ、はい。わかりました」
リッツさんは頷いてから、部屋の扉を開けてくれようとする。
「お見送りとかはいらないです。ミローナさんに、ついていてあげてください」
リッツさんの動きを遮り、私は自分で扉のドアノブに手をかける。
木製だけれど、ざらざらとした感触ではなく、手触りを良くする加工が施されていた。
「はい、すみません」
頭を下げるリッツさんの肩の辺りを、私は手をグーにして力を込めて押した。
私に押されて、リッツさんの顔が前を向く。
「こんな小娘に、と思うかもしれませんが……」
急に肩に触れられて、困惑の表情を浮かべているリッツさんを見て、私は言う。
「あなたたちは、吸血鬼の言うことをへいこら聞くことで生きてきました。怒られるかもしれませんが、誰かの言いなりでいるのは、楽なことです。責任がないですからね」
けっこう辛辣なことを言っている自覚はある。
この街の人間が聞いたら、私は人間失格の烙印が押されるだろう。
もしそうなったら、魔王としてこの世界を支配しようかな――なんてね。
しかし、リッツさんは私の言葉を黙って聞いている。
「これからあなたたちは、仲間を、家族を――ミルナ君やミローナさんを、守らなければならない。そのために、自分で考え、努力し、自分の責任で行動しなければいけません」
リッツさんの瞳には困惑ではない、なにか別の感情が宿ったように感じた。
私への怒りとかでもいい、力になるのならば。
「いい人ではなく、強い人になってください。この街を、任せましたよ」
口を一文字に引き結び、リッツさんは大きく頷いた。
リッツさんを、ほぼ睨みつけている私の視線に怯えることなく。
「……じゃあね、ミルナ君」
私は、ミローナさんの様子を黙って見ているミルナに、ぎりぎり届くぐらいの声量で別れの言葉を述べた。
聞こえていなければ構わない、と思ったがミルナはこちらを振り返って、とことこと歩いてきた。
「お姉ちゃん、行っちゃうの?」
ミルナの問いに私が頷くと、ミルナは寂しそうな顔で私の腰の辺りをぎゅっとしてきた。
「ふふ……ミルナ君、あなたも強くならないとね」
私のロングスカートに顔を埋めながら、ミルナが頷いた振動が私に伝わる。
イリアに借りている服だから、泣いたらダメだからね。
そう思ったけれど、ミルナが泣いているような様子はない。
必死に耐えているのか、それとも実は私のことなんかどうでもいいとか。
……まあ、嬉しいことに前者だと思われる。
ミルナの両手には私のスカートの生地が握られていて、それが微かに震えているのがわかるのだ。
あっ、それもダメだ、しわになっちゃうから。
私はそっとミルナを離して、ミルナの頭をわしゃわしゃと撫でる。
やっぱりくすぐったそうに目を細めるミルナを見て、つい私は、微笑んでしまった。




