第十五話 後朝のトースト
目を覚ますと、ちょうど太陽が昇りはじめる頃だったようだ。
丘の上に立つ城の窓に、水平に陽の光が差し込む。
身体を起こした私の目にまっすぐに当たって、思わずに目を細める。
元の世界でいえば、朝の九時ぐらいだろうか。
昨日の朝は、巨大樹の森で日の出とともに起きたことを考えると、今日はよく寝たと思う。
まあ、ぽふぽふの植物のベッドよりも、当たり前だけれどよく寝られる環境が整っていたことが原因だ。
「おはようございます、サナさん」
私が寝ていたふかふかのベッドの横、書き物机の椅子にイリアが座っていた。
朝から可愛いことだ。
「おはよう、イリア」
欠伸をこらえながら、私は朝の挨拶を返した。
少し涙目になった私を、イリアは微笑ましそうに見ている。
あら? イリアがいるということは、どういうことだろう……?
幸いなことに朝は得意なので、寝起きの頭がぐるぐると回って、すぐに看破する。
「ごめんなさい。もしかして、この部屋はイリアの部屋だったかしら?」
昨夜、会議室を出た後、寝ぼけまなこで城の中をさまよい、適当に入った部屋だったのだけれど、イリアのベッドを占領してしまっていたのかもしれない。
いや、嘘をついた。
実は、なんとなくではあるけれども、イリアの部屋だということはうすうす気付いていた。
ただ、女神アイリと同じ香りのする部屋に引き寄せられて、そのまま寝てしまったのだ。
「私の部屋ですけど、どっちにしろ眠るのはこれからなので、大丈夫ですよ」
そうなのか……まあ、年頃の女の子であるので、健康の面を考えると心配になる。
この街の人たちにしても、ちゃんと夜に眠るようにしていくのがいいと思うのだけれど。
「でも、サナさんと一緒に行くから、寝る時間合わせないといけないですね」
夜寝るようにします、と両手をぐーにしてイリアは意気込む。
可愛い生き物で連想するものは、と聞かれたとしよう。
普通は、小犬や猫、もしかしたらコツメカワウソなんて言うのかもしれない。
だが、私は真の可愛いということを知ってしまったので、もう普通には戻れない。
「ふふ……無理しないようにね」
健気なイリアの仕草に、つい笑みが溢れてしまう。
「吸血鬼たちと人間たちの話し合いは、どうなった?」
私は先に寝てしまったけれど、あの後どうなったのだろうか。
「実は、ちょっと前に終わったところなんです」
「え、そんなに続けていたの?」
ブラック企業もびっくりの長時間労働だな。
日付が変わる前に私は寝ていて、いまは、元の世界の時間で考えると、九時ぐらい。
あれ? 九時間ぐらい?
普通に働く大人たちと、同じぐらいの時間になるのか。
お父さん、いつもありがとうございました。
「大丈夫? 喧嘩とかしてなかった?」
私がいないことによって、吸血鬼たちの抑制が効かないとなると、この街の行く末が不安なものになるのだけれど。
「うーん……私の感覚になりますけど、お互いをちゃんと尊重していると思いました」
「そう、よかった……」
私は、ひとまず胸をなで下ろす。ぺったんこだけれども。
まあ、吸血鬼たちにとってヴァラドの存在は大きいものなのだろう。
ヴァラドには、この街の平和の礎になってもらおう。
「サナさん、朝ご飯用意したのですが、食べませんか?」
よく見ると、書き物机の上に、料理の上に被せられている鉄製のあれ、鐘みたいな形のやつがあった。名前は知らない。
「あら、ありがとう」
そういえば、二日ぐらい、なにも食べていなかったのかな。
お腹が空くっていう感覚がないから、あまり気にならなかったけれど。
私はおしりをずらして、ベッドの端に座るようにする。
「もらってもいいかしら?」
私の返事を聞いて、イリアは頷いてから、鉄製の鐘を取る。
その下には、鮮やかな黄身の目玉焼きとブロッコリーみたいな野菜を茹でたもの、サクッとしてそうなトーストされたパンが並べられていた。
人間が考えることって似るのだろうか、元の世界の、まさに朝食といったラインナップだった。
「すごく美味しそう。イリア、あなた料理も得意なのね」
喋る私の鼻に、パン屋さんの匂いが飛びこんできた。
現金なもので、なんだか急にお腹が空いたような気がした。
「最近は自分で食べる分を作るだけでしたが、もともと手を動かすのが好きだったので」
椅子から離れて、鉄製の鐘を配膳台に片付けながら、イリアは照れたように言う。
裁縫も料理もできてなおかつ可愛いなんて、お嫁にきてほしい。
「あっ、ごめんね。私がここに座っていたら、あなたが眠れないよね」
私はベッドからどくように立ち上がり、乱れたシーツを手でできる限り直した。
「ありがとうございます。さぁ、食べてください」
書き物机の椅子を、私が座りやすいように、イリアは引いてくれる。
私が座ろうとすると、よきタイミングでスッと椅子が押し込まれた。
ずいぶんと、できたメイドである。
「ありがとう、イリア」
軽く後ろを振り返ってお礼を言うと、イリアは微笑んで椅子から離れた。
「いただきます」
元の世界のマナーで、両手を合わせて感謝してから、私はフォークを手に取る。
まず、フォークで野菜をさして、口に運ぶ。
ほんのり塩味で、ほんのり温かい。
元の世界のブロッコリーよりも、シャキシャキ感が強かった。
「……そんなに見られていると、食べづらいのだけれど」
私と入れ替わりでベッドの端に座ったイリアが、もぐもぐしている私を眺めているのを感じたのだ。
「ごっ、ごめんなさい! 人に食べてもらうのなんて久しぶりだったので」
イリアは恐縮して、膝に置いていた手をぎゅっとする。
あれ? イリアのほっそりとした脚を見て気付いたけれど、イリアはまだシックなメイド服を着ている。
「大丈夫、ちゃんと美味しいわ。それより、あなた、その服のまま寝るの?」
私みたいに、この白いワンピースしか持っていないのです、ということでもないだろう。
私がいるから、寝間着に着替えられないのかもしれない。
そういうことなら、私は目をつむっているのだけれど。
「えーと、実はまだお仕事が残っていて……」
言いにくそうに、指をつんつんとしながらイリアは話す。
「お仕事……?」
もうあなたがやる必要ないじゃない、と言おうと思ったが、たぶんイリアは、やりたくてやっているのだと感じた。
無理に止めさせることもないのだけれど。
「なにが残っているの?」
私は目玉焼きを半分に割って、口に運ぶ前に聞いてみる。
イリアの返事を待ちながら、ぱくっとしてもぐもぐする。
目玉焼きは黄身が濃厚で、元の世界で食べていたスーパーマーケットの卵とは格が違った。
……なんの卵なのだろうか、普通にニワトリさんだったらいいのだけれど。
「えーと、その食器を片付けるのと――」
「これは、私が食べ終わったら適当に片付けておくわ」
トーストはカリッとしていて、たぶんバターだと思うけど、それがのせられているところはジュワッとしていた。
実際に食べてみると、少し違うところもあるけれども、どれも元の世界の食べ物に遜色はなかった。
「でも、食堂の場所とか――」
「探してみる。あとの仕事は?」
イリアの言葉を食い気味に処理していく。
ついでに、イリアが用意してくれた朝ご飯も美味しくいただいていく。
「ヴァネッサ様が浴場を使用したので、片付けを――」
「ヴァネッサは寝ているの? たたき起こして……いや、これから私が入るから、片付けておくわ」
まあ、ヴァネッサは昨日、けっこう動き回ってくれたし、寝かしておいてあげよう。
私、昨日は水浴びしかできなかったから、石けんとかあれば嬉しいなぁ。
「それなら……仕事は終わりです」
なぜか残念そうに、イリアは言った。
「じゃあ、早く着替えて、寝るといいわ」
私は、手に持っていた食べかけのトーストをそっとお皿に戻して、椅子から立ち上がる。
「イリアの服は、ここ?」
書き物机が置いてあるところから、部屋の反対側にあったタンスに向かって歩きながら、私はそれを指し示す。
イリアがベッドから離れて、後ろをついてきているのが気配でわかる。
「はい、そうですけど……」
タンスの前で止まった私の横に歩いてきて、イリアは言葉を返す。
「私、このワンピースしか持っていないの。イリアの服を借りてもいいかしら」
私はワンピースの裾を両手で広げながら、イリアにおねだりをする。
イリアは不思議そうな顔を浮かべたが、素直に頷いてタンスを開けてくれる。
タンスの中は上段と下段に分かれていて、上段はイリアが着ているシックなメイド服と同じもの、他のトップスや外套などが掛けられている。
そして下段は、さらにいくつかの引き出しに分かれていた。
ズボンやスカート、下着や靴下なんかで分類されているのだろうか。
イリアは少し屈んで、その中のひとつを引き出す。
おそらくスカートが、綺麗に折りたたまれて収納されている。
「ここに穿くものがあるので、お好きに使ってください」
イリアは屈んだまま、私に顔を向けて微笑んだ。
「うん、ありがとう……下着は?」
「はい?」
笑顔のまま、イリアの表情が固定される。
いや、私は、自分が失礼なことを言っていることは、重々承知している。
しかし、いくら女神アイリの加護を授かっていて汚れないパンツだからって、毎日身に着けているのは、気持ちの面でもやもやするのだ。
だから、私はイリアに下着を借りなければならない。
こんな可愛い女の子はどんな下着を穿いているのだろう、などという好奇心では絶対にないのだ。
「えぇ……と、下着も、ですか?」
屈んだ体勢から身体を起こしたイリアは、片手で前髪を触りながら、私に聞いてくる。
どうやら、照れているようだけれども……女同士なのだから恥ずかしがることないのに。
髪をいじる手によって、ちらちらと隠れたり現れたりしているイリアの目を見て、私はこくっと頷く。
私の頷きを見たイリアは、目をちらちらと泳がせてから、タンスに視線を向けた。
「えと……ここに、入っています」
もう一度屈んだイリアは、一番下の段に軽く触れることで、場所を教えてくれる。
開けるのは恥ずかしかったのだろう、イリアの横顔は上気して頬がうっすらと赤くなっていて、ショートの黒髪から覗く耳は、もっと赤みを帯びていた。
「わかった。朝ご飯を食べ終わったら、そこから服を借りて、食堂に寄って、お風呂に行くことにする。大丈夫だから、あなたは寝なさい」
はい、と小さな声で返事をしたイリアの頭をぽんぽんと撫でて、私は書き物机に戻る。
イリアが着替えるために、タンスの前を空けるのだ。
私が椅子に座って、食べかけのトーストを持ち上げたとき、後ろから衣擦れの音が聞こえた。
これは、天使の羽ばたきか、もしくは悪魔の囁きか。
私は目を閉じて、美味しい朝ご飯の味に集中することで……余計に聴覚が研ぎ澄まされて、イリアが着替える物音が気になってしまうのだった。
……いや、なにも気にする必要はないのだけれども。
なんなら、イリアの着替えを肴に、トースト食べてもいいんだけどね。