第十一話 女神な誤解
人間の代表者たちが来るまで、イリアを手伝うことにしようかな。
誰も――吸血鬼の串刺し、華美な椅子を添えて、以外――いなくなった部屋で、私は手持ち無沙汰になったので、そんなことを考える。
「お兄ちゃん、私が戻ってくるまで、おとなしくしてなさいよ」
私の言葉に、ヴァラドはうんざりしたような表情を見せる。
とっとと行け、とでも言うように手を振って私を広間から追い出す。
入り口の扉を閉めるときに、ヴァラドが眠るように目を瞑っているのがちらっと見えた。
反省はしてやらん、とは言っていたけれども、長い時――吸血鬼にとって長いかは不明――をそのまま過ごしてみて、考えが変わってくれればいいと思う。
広間から出た私は、可愛い召使いさんがどこにいるのか探すため、サーチを使用する。
「下の階かな……」
サーチでは城の構造まではわからないので、何度か行き止まりにつまりながら、私は城の中の一室にたどり着いた。
開いていた扉から中を覗くと、玉座の間よりも小さいが、学校の教室が四つ分ぐらいの部屋が広がっていた。
調度品も落ち着きがあり、話し合うための場所って感じがする。
部屋の隅に並べられた椅子のひとつに、イリアが座っていた。
ヴァラドを串刺しにしている王様椅子ほどではないけれども、そこそこ豪奢な装飾の為された椅子だ。
そこに、ちょこんと座るイリアは、部屋の中空を虚ろな目で見ている。
こんこん、と開いている扉をノックすると、イリアは音を探すようにゆらっと首を動かして、入り口に立つ私の姿を見つけた。
「サナさん……」
小さな果実のような唇が、ほんのわずかに動いて私の名前を紡ぐ。
果実から出てきた私の名前は、重力にとらわれずにふわふわと消えていった。
「イリア、なにか手伝うことあるかしら?」
はっと我に返ったような顔をしたイリアが、椅子からすくっと立ち上がる。
「ちょうどよかったです。私ひとりでは、机を持ってくることができなくて……」
そう言いながら、イリアはこちらに向かって歩いてくる。
「隣の部屋にある机を、こっちの部屋に持ってきます。サナさん、手伝ってくれませんか?」
私の目の前まで来て、少し見上げて問いかけてくる。
無理している、とわかるような表情をしていた。
いろいろな感情を整理するためには、一日や二日では足りない時間がかかるのだろう。
でも、何か作業をしていた方が、気が紛れていいのかもしれないな。
「わかった、行きましょう」
そう言ったものの、隣の部屋が、どっちの隣なのかがわからないため、私はイリアが部屋を出て行くのを待つ。
イリアは私の横を抜けて、左側に向かう。
私は、その艶やかな後ろ姿に、ついていく。
「ここです」
イリアが先導して入った部屋は、物置といった様子で、机や椅子以外にも、飾られなかったのだろう絵画や美術工芸品が雑多に積まれていた。
「サナさん、そっち側を持ってください」
部屋の奥側に回って、イリアが机に手をかけるけれども。
「……イリア、あなた、これ持てるの? 大丈夫?」
私に持ってくれと促しているのは、立派な一枚板の木材で作られた長机で、とても二人で運ぶのは難しそうなものだった。
サッカーのゴールって六人ぐらいで運ぶと思うのだが、そんな感じだった。
「持てますよ?」
不思議そうな顔で、イリアは返答する。
さして苦ではなさそうに、重厚な机の短い辺を両手でぐっと持ち上げる。
「あっ……吸血鬼の眷属になると、身体能力が向上するんです」
そうなんだ、それは初めて知った。
眷属に注入された、吸血鬼の魔素が関係しているのだろうか。
「すみません、ご存じかと思いました」
私の不思議そうな顔を見て、イリアは申し訳なさそうな顔をする。
「いえ、違うのよ。どうして身体能力が上がるのかなって思っていただけよ」
イリアに話しかけながら、私はイリアと反対側を持ち上げた。
物置のような部屋といっても、サッカーゴールぐらいの入り口は有していたので、ながーい机も問題なく運び出すことができた。
物置部屋を出て廊下を進み、会議室へ。
二分ぐらいの間だったが、イリアは重厚な机を一回も床に置くことなく運びきった。
私は言わずもがなであるけれど、眷属の力というのも、なかなか強力なもののようだ。
「サナさん、ありがとうございました」
きれいな角度で、イリアはぺこりとお辞儀をした。
美しい艶が見て取れるイリアの黒髪を眺めながら、私は少しの間悩む。
うーん……眷属の力が残っているから、わかってはいると思うけれど。
ちゃんと、報告しておくのがいいよね。
「イリア、ヴァラドは生きていたわ」
イリアは一瞬だけ目を見開いたような気がしたけれど、やはり、驚いていないようだ。
「そうですか、残念です」
あまり残念ではなさそうに、イリアは返事をする。
その表情からは、どのような感情なのかを窺い知ることはできない。
「この部屋に椅子を運ぶときに、なんとなくまだ生きているんだとは思いました」
イリアが机のそばに置いてあった椅子を、片手で持ち上げる。
簡素なものではないので、けっこうな重量があるはずだけれど。
小柄な女の子が、自分の半分ぐらいはある椅子をひょいと動かす光景は、まるで手品だ。
「……サナさんは、女神の話、覚えていますか?」
突然、イリアが私に向かって聞いてきた。
まだ椅子を下ろしていないので、なんとなくそっちに目がいってしまうが、私は言葉を返す。
「おとぎ話?」
女神の善い心から人間がつくられ、悪い心の魔物が善い心に嫉妬しているって話だったか。
覚えているもなにも、ほんの二時間ぐらい前に聞いた話だ。
いや、この二時間はイリアにとって、校長先生の話のように長く感じたのかもしれない。
私の返事に、イリアはこくりと頷く。
「私、あの話、実はまったく信じていなかったんです」
母には悪いけど、とイリアはつぶやく。
いままで持ち上げていた椅子を、イリアはそっと床に戻す。
「あら、どうして?」
確かに、神話にありがちな現実味のなさはあったと思う。
まあ、女神がソファに寝転びながら世界を運営しているのと、どちらが現実味がないかはわからないけれども。
「だって、私の心は善いもののはずなのに、憎悪が止めどなく溢れていて」
言葉とは裏腹に、イリアは少し微笑む。
私は、その妖艶な微笑みから目を離すことができなくなる。
「ヴァラド様を、殺してやりたいって思って……私、夢の中では、ヴァラド様を何度も殺しました。何度も」
微笑んだ表情のまま、イリアの目から、静かに涙が零れる。
一滴、二滴、まばたきの度に、光の粒がイリアの足もとに落ちていく。
「もう……時間の問題だったと思います。ヴァラド様に、私の殺意を悟られて殺されるか、私が、壊れてしまうか」
手で頬を触ったイリアが、濡れた指先を不思議そうに眺める。
元の世界で観た映画で、ロボットが初めて涙を流すワンシーンが思い起こされた。
「でも……サナさん……あなたが、助けに来てくれました……」
私に一歩近づいて、イリアは言う。
その手は神に願うかのように組まれていて、白い布かなにかを被っていれば、服装も相まって修道女のようだった。
「女神様……なんですよね?」
疑問形ではあるけれども、イリアは、確信を持っているという表情をしている。
イリアに潤んだ瞳で見つめられたら、思わず頷いてしまいそうだけれども。
「私は、女神ではないわ」
私は、事実を伝える。
神の使い――なのかもしれないが、そう言うと説明がややこしくなりそうなので、事実のみを伝える。
どちらかと言えば、私にとっては、イリアの方が女神アイリだと思われる。
私の返事を、どう受け取ったのかはわからないけれど、イリアが私を見る眼差しは変わらない。
私の家は無宗教だったので、完全に想像なのだけれど……神様を前にしたとき、こんなに瞳が輝くのね、と感心した。
「ふふ、私は女神ではないけれど……」
イリアの瞳の輝きを受けて、つい微笑んでしまう。
私は、ぎゅっと組まれたイリアの手を覆うように、自分の両手を添える。
ほっそりとして弱々しい手だけれど、確かな暖かみを感じた。
「――保証する。あなたの心は、穢れてなんかいないって」
私の言葉に、イリアは驚いたかのように目をぱちぱちとまばたきさせる。
そして、ゆっくりと静かに目を閉じて、一筋の涙を頬に流した。
「ねえ、イリア」
私が名前を呼ぶと、イリアは閉じていた目をゆっくりと開いた。
部屋に焚かれたランタンの灯りを反射しているのだろうか、その瞳は輝きを秘めている。
「最初に会ったときも言ったのだけれど、私の旅についてきてくれない?」
なんか、告白するみたいだな。
断られたらどうしようって、心臓が鼓動しているのがよくわかる。
男の子は、こんな気持ちで返事を待っていたのか。
「……はいっ……うぐっ、うぁっ……」
はい、という返事のあとの言葉は、ぼろぼろと崩れてしまっていた。
言葉を発したことで、ダムが決壊するかのように、感情が溢れ出してしまったようだ。
イリアは、がんばって続きを話そうとするが、涙が邪魔をして口をぱくぱくさせることしかできていない。
「わかってるから、大丈夫……大丈夫……」
私はイリアを抱き寄せて、赤ちゃんをあやすように、その背中をぽんぽんとたたく。
イリアの涙がアイリからもらった白いワンピースに染みていき、私の胸に――女神アイリに小さくされた胸に――ひんやりとした感触が伝わってくる。
この冷たさがなくなるまで、私は、そのままイリアに寄り添っていたのだった。




