序章
俺は幼少期、今ではそんな事は覚えていないが両親にこう言ったらしい。
『目が2つある』
この言葉だけ聞けば、一体何を言っているんだ?と普通ならば感じるだろう。目が2つあるなど健常者の人間であれば当然だ。だが、幼少期の俺にはこの時、起きていた事象に対する正しい言葉なんてものは持ち合わせていなかった。両親はこの言葉に対する真意に気付く事はなく、幼子の親の気を引く為の些細な言葉として受け取っていた。自分でも当時の記憶が鮮明にある訳ではないが、おそらくこの時に俺はこの事に関しては誰にも理解されることはないと諦観することを決めたんだと思う。
かくして、俺…《新屋類》は自分が他人とは違う人間であると気付き、誰にもこの胸に抱えたものを話す事なく年を重ねていた。
「…い。おい!聞いてんのかよ?ルイ」
ふと友人の声で現実へと引き戻される。どうやら電車に揺られ、かなりぼーっとしていたらしい。
「悪い。何の話だ?」
俺のそんな雑な返しに友人は「もういいや」と少し不貞腐れたように次の話題に切り替えていく。どうやら彼は明日から始まる冬休みに期待を膨らませている様であった。しかし、俺にとってはこの電車というのがかなり憂鬱な時間であり、彼の会話も半分ほどしか頭に入ってなかった。
『◯◯駅。◯◯駅。お降りの際は足元にお気を付け下さい』
電車が止まり、人の乗り降りが始まる。俺達の最寄りの駅ではない為、特に席から立つ必要は無く、人混みが波打つ状況を何となしに見つめていた。
その瞬間であった。激しい吐き気と共に自らの視界にノイズが掛かるような感覚に襲われた。
昔から電車の中などの人混みが多いところではよく気分を悪くすることはあったが、ここまでのものは人生でも初めての経験であった。そしてこの吐き気を感じるような嫌悪は不特定多数の人間ではなく、1人の人間によるものであると俺は気付いていた。
ーー誰だ!?
俺は辺りを見渡し、1人のハットを被った男に視線を落とす。この嫌悪感と激しい吐き気。その原因は間違いなくこの男であった。
「おい、大丈夫かよ?」
友人には俺が今にも吐きそうな悍ましい顔に見えていただろう。俺にとってはそれほどにこの男との邂逅は異質のものであった。俺は友人に気分が悪いからと自宅よりも1つ前のこの駅で降りると告げ、その男の後を追う。
駅から出ると、男とある程度の距離を置いて後ろをついて行く。その時にはある程度吐き気も治まっていた。その後もかなり歩き続け、冬ということもあってか周りが薄暗くなっていく。道も初めは駅の近くということもあり、人通りも多かったが、道が狭く大通りではない現在は少し人通りは少なくなっていた。
「私に何か用かな?少年」
その男は振り返りざまそう呟いた。その目線は20メートルは離れている俺と交わっていた。……そう思わずにいられなかった。
「…あんたこそ何で俺を誘い込むような真似を?俺に気付いていたんだろ?」
そうこの男は俺の存在に気付いていた。気付いていた上で咎めることなく、人通りの少ないここに誘い出した。
「ふむ。理由は簡単だ。私を追う理由を知りたいからだ。君は一体なんだね?」
「あんたこそ一体なんなんだ!どうしてそんな風に人間を視れるんだ!?」
その瞬間、俺は瞬時に横っ飛びする。俺の立っていたところには黒い影のような黒い物質が漂っていた。
「…ほう、何故ソレに気付いた?背後からの奇襲であったろうに」
ソレとは間違いなくこの黒い物質に対しての言葉であろう。だが、俺にとってはそんなことより問い質したいことがあった。
「俺の質問に答えろ!あんたは何で人間を……食料を視るような眼で視る!?」
ーー刹那、その男の口角が上がるのを俺は視た。
「……そんなもの。言わなくてもわかるだろう?」
その言葉の響きが終わるより先に20メートルはあった俺とその男の距離は目と鼻の先になる。
俺が動揺している隙に相手は腹部に拳打を1発入れようとする。しかし、俺は自らの手で弾くようにガードする。その隙に俺は男と距離を取る。男は俺に拳打を防がれたのが余程不思議だったのかその場で拳打を繰り出した体勢で少し固まっていた……かと思えば口を開く。
「フッ、そういうことか。…覗いているな?私の視界を」
…そう。俺は人の視界を視ることが出来る。この異能に気付いたのが3歳頃。もう14年来の付き合いであるこの眼。これによって背後からの攻撃であった黒い影や今の拳打も躱すことが出来た。この眼に関して今まで誰にも気付かれた事もなかったが、この男は瞬時に俺の眼の異常性に気付いた。だが、俺がこんな危険な奴が目の前に居て、これほど冷静な判断を行えるのは、自分がこんな異能を持っているなら万が一とはいえ他にも特殊な能力を持ってる奴が居るのではと心の奥底で考えていたからであった。
ーーそう。俺だけが特別ではない…と。
「あぁ、だからあんたの異常性にも気付いてるよ。あんたの視界は今まで視た誰よりも吐き気を催したよ」
「それは最高の褒め言葉だ。人間が私の視界を覗いて正気を保っているとはなかなかの精神力だ。
だが、ここまでだ」
その瞬間、相手の視界を視ていた俺の視界が暗くなる。またしても一瞬であった。距離を瞬時に縮められ、胸を貫かれた感覚が時間差で訪れる。
「…グッ」
どうしてと言葉を続けようとしたが、声が掠れて言葉にならない。胸からは血が出続け、息すら満足に吸えていないのがわかる。
「…簡単なことだ。君に戦闘の経験はない。ならば目を瞑って間合いを詰めさえすればなんとでもなる」
その男は冷静を装っているが、既に口角が上がり、俺を只の食材かのように眺めていた。
「…俺、を食…う、つ…もりか?」
「当たり前だ。食わなくては失礼にあたるからな。だが、その眼は珍しいからな。私が頂いておこう」
そう言って、男が俺の眼に手をかけようとした瞬間。黒い影が俺の身体を飲み込む。俺は自分がここで死ぬのだろうと沈みゆく意識の中で感じていた。ただ最後に男が残した言葉に疑問を感じることもなく……。
「……ほう、奴め。この少年を選んだか」