保科のジレンマ
※保科綾:草太の大学時代の後輩。ど田舎から越してきた、世間知らずな少女。ちび娘。
三月だと、そろそろ春の気配が農園に広がってくる頃だ。
荒れた土を見せていた地面から雑草が伸びだし、それにとまるテントウムシや、園内を舞うモンシロチョウなど、小さな住民たちがちらほらと姿を見せはじめる。
少しずつ生き物たちで農園が賑わうけれど、夏などに比べればまだまだ静かなほうだ。
「今日は良い天気で、動きやすいねぇ」
「そうですねー由愛さん。心地よく作業できますねぇ」
「うー、うー……」
そんななか、俺と由愛さんはいつものように枝拾いを続けていた。
空には雲ひとつない。たまにふわっと風が吹くぐらいで、穏やかな天気だ。手をとめると思わずあくびが出てしまいそうになる。
そして、今日は土曜日。
俺の大学の後輩、保科綾も手伝いに来ているのだが……。
「こ、腰が……腰がやべぇっす……」
その保科は、さっそくやってきた腰痛の洗礼を浴びていた。小さい体躯をげっそりと曲げて肩をぐったりと落としている。
「おいおい保科。まだ始まって一時間ほどだぞ?」
「せ、先輩がた……よくもそんな平然と続けられるっすね……」
枝拾いは、一日の大半を中腰で過ごすこの作業だ。腰に非常に負担がかかる。
だが、数ヶ月間ずっと続けてきて、知らないうちに体も慣れてきたんだろう。保科の様子を見て、ここ数ヶ月の成長をハッキリ実感できた。
「綾ちゃん、こんな作業普段やらへんのに、いきなりやもんね……。無理せんとやってな」
「うう由愛先輩……お心遣いが腰に沁みるっす……」
「……」
腰に沁みるってなんじゃい。それより、由愛さんから羨ましいお言葉を頂戴しやがってからに……!
「キェェエエエエエーーーーィッ!」
『ひ、ひぇぇぇぇぇ~~ぃ……!』
と、保科に向けてお茶目な嫉妬心を抱いていると、お隣の農園から奇声が聞こえてきた。
すぐそばのフェンスの向こう側には、近辺で屈指の経営規模を誇る大農家『S・K・E』こと早乙女柿農園がある。
声の主、一人はトリコさんだ。
そしてもう一方の太い声々は、黒部氏とその下っ端たちの声だろう。……黒部氏たちの声、奇声というよりむしろ悲鳴のようだったんだが、そのへんは気にしないでおこう。どうせ、トリコさんにシゴかれでもしてるんだろう。
『お、おたすけぇぇ!』
「わっ」
ガシャンと音をたて、途端にフェンスに群がる無数の黒豚……いや、黒服の男たち!
総じてデブである! あ、一人だけガリガリな奴がいた。どのみち、見ていて気持ちのいいものではない!
その黒服たちは散り散りにフェンスを這ってどこかへ逃げていった。いや、なんで地面じゃなくわざわざフェンスを這う?
いつもながら不可解な連中である。
「早乙女さんちはいつも元気やねぇー」
尋常ならぬ奇声に普通なら驚きそうなところだが、慣れたものだ。由愛さんはまったく動じない。
今もほのぼのと麦わら帽をかぶり直していらっしゃる。
「か、かっけーっす……」
そして保科の口からは、俺が思うのとほぼ真逆の感想が溢れ出ている。
「なんてワイルドな方たちっすか」
「いや、うん、ワイルド……か?」
たしかに野生的ではあるのか?
ともかく、以前一度だけ黒服集団を見て以来、保科はすっかり彼らに憧れの念を抱いているようなのだった。
時たま、ああして不意に現れた時には、目をキラキラさせながらその様子を見つめている。
あれか。小学生が生まれて初めて望遠鏡を覗く時のような感じか。ロマン的な。
「お前、黒服さんのこと相当お気に入りなのな」
「ええ。大学の卒業論文のテーマにしたいくらいっす」
「それは全力でやめとけ?!」
もはや研究するレベルなのか!?
その後、枝拾いを再開しても保科の黒服熱は冷めないらしく。
「あのグラサンの奥には一体どれだけの情熱が……」やら「どうすればあのハードボイルドさを出せるのかぶつぶつ……」やら独り言が耳に入ってきた。
「なぁ、そこまで黒服の秘密が気になるならさ、直接教えてもらえばいいんじゃないか?」
あまりにも独り言が耳につくので、思わず尋ねてみた。
……それがいけなかった。
「そこが問題なんすよ!」
保科は、悔しいような困ったような表情でビシっと指差してきた。
「先輩は、アタシが朝花さんを師匠と呼んでいるのは知ってますよね?」
「ああ」
いつからだったか。
ど田舎から引っ越してきて、大学でも友達のいなかった保科。彼女がひょんなことから俺と姉ちゃんと知り合って、気さくにかまってくれる姉ちゃんを慕うようになるのに時間はかからなかった。
その頃から、保科はなぜか姉ちゃんのことを師匠と呼ぶようになっていたのだ。なにか保科好みの人生論でも説かれたのだろうか。あの姉ならやりかねん。
「で、それが問題なのか?」
「ええ。だって、朝花師匠というものがありながら、アタシが黒服さんたちをリスペクトするなんて、そんな……」
「んん? それがどうマズいんだ?」
「つまり、綾ちゃんははなちゃんに悪いと思っちゃうんやね?」
「そうっす……」
由愛さんが合いの手を入れてくれて、ようやく理解した。
つまり、姉ちゃんを慕いながら黒部氏たちもリスペクトする。そうすると、先に師事してる姉ちゃんの立場がない。そんなとこか。
……てか、そんな重く考える話しなのか……?
「アタシは、師匠は二人とらない主義っす」
「いや、それ普通師匠側が言うことだから」
弟子のくせにナニサマやねん?
ただまぁ、保科の悩みはわかった。こいつは、ある種のジレンマに陥ってるわけなのか。
「わかるにはわかったけど……やっぱり俺にはわからんな」
「え? 先輩……日本語は正しくお願いするっす」
「バカにしてんのかこら! 俺が言う"わからん"は、"共感できない"って意味だよ!」
「……、……つまり?」
俺は、保科のジレンマに共感できない。いや、コイツが悩んでいるのは可哀想ではあるのだが、その問題の解決がとても簡単だから、だ。
「ま、とりあえず保科。今日はうちに来い」
「へ、先輩のアパートっすか?」
「ああ。悩みがあるなら、まずは師匠である姉ちゃんに相談しなきゃな」
それですぐに解決すると思うしな。
* * *
「なーんだ、そんなことかぁ」
所変わって、俺んち。
ちゃぶ台を囲んで、俺と保科、そして姉ちゃんが顔を合わせている。
保科が自身の抱えるジレンマを打ち明けてすぐ、姉ちゃんから軽ーいお言葉が飛び出した。
「なんか綾ちん、暗い顔してるからさ。もっと壮絶な真実を明かされるのかと思ったよ。実は綾ちんは、あたしたちの隠された姉妹だったとかさ」
「さ、さすがにそんな真実はないっす……! けど、アタシとしては結構ガチな悩みなんす」
「そっか、ガチかぁ。まぁ要は、綾ちんは黒豚さんをリスペクトしてるわけなんでしょ? でも、あたしを師匠と呼んでくれてる以上は、それが後ろめたい、と」
「うぐ……そ、そのとおりっす」
「うん。綾ちんは真面目だね。そんな融通の効かないところも好きだよ、あたしゃ」
姉ちゃん……。それは褒めてるのか? 小バカにしてるのか?
「でも、それなら解決は簡単だよ」
「え……っ?」
「お? 姉ちゃん、良い案があるのか?」
わざとらしくも尋ねてみる。
姉ちゃんは、こんな些細な事で機嫌を損ねるような繊細な性格は持ち合わせていない。もともと、保科の悩みは杞憂そのものなのだ。
だから、姉ちゃんの軽い反応は予想どおりだ。
「綾ちんは、あたしの妹になればいいんだよ」
「は?」
「へ?」
二人して変な声を出してしまった。
ん? 何言ってんのこの人?
「つまり……どういう?」
「あたしが、綾ちんの"師匠"じゃなく、"姉ちゃん"になったげるってこと。そうすりゃ、綾ちんは二人の師匠をもたずにすむし、気兼ねなく黒豚さんをリスペクトできるっしょ?」
「あ……あぁー、なるほど……」
つまり、保科は姉ちゃんの弟子でなく、妹的存在になれと……そういうことか。
「その考えは目からウロコっす……」
まさに屁理屈。
俺の予想とはまた違う方向性だが、案外良いかもしれない。
今回の保科の件、何よりも心のもちようが重要だもんな。その的をしっかり点く姉ちゃんの発想は見事なもんだ。
なかなか考えたな、姉ちゃん。
「もちろん、綾ちんがそれでいいならだけどね?」
「むむ、むしろ光栄っす!」
さっきまでのイチモツ抱えたような表情から一転。保科はクリスマスプレゼントを貰った子どものように、今にも飛び跳ねそうな笑顔を浮かべていた。
こうして、保科のジレンマは無事解かれることと相成った。
~数日後~
「ただいま~……って、保科。また来てんのかお前」
「あ、先輩。おかえりっすー」
おれんじふぁーむから帰ると、保科が台所でなにやら料理に励んでいるところだった。
帰ってすぐ、夕飯にありつけるのはありがたい。
ありがたいのだが……保科がうちに来てご飯を作ってるのは、あのジレンマ解決の日から実に十日連続。
いくら大学の後輩といえど、他人である女子がうちに入り浸っている。それがすっかり見慣れた光景だというのは、どうなんだろうか……。
こうなった原因は、つまりはこういうことだ。
「今日も朝花姉さんのために晩ごはん作るっす。先輩に弟の座は渡さないっすよ!」
「いや、お前どう頑張っても妹がいいとこだろ」
そう。よりによってコイツは、俺と弟の座を巡って張り合おうとしているのである。
色々とわけがわからん。
そもそも、なぜお前は「弟」に拘る……。
どうやら、俺が巻き込まれた案件は思った以上に面倒くさいものだったようだ。