トリと黒豚。
国道をまっすぐ南になぞり、しばらくして農免道路に入る。
見晴らしのいい田んぼ道をのんびり上っているうちに、いつしか景色は森の色。
まるで大きな建物の壁のように、杉とヒノキが左右に立ち並ぶ道をくねくねと進んでいくと、トンネルを抜けた時のようにパッと視界が開ける。畑エリアに入ったのだ。
山一面の柿畑。春から夏は緑の絨毯を敷き詰め、秋は山頬を赤く染め、冬は疲れきった木々に白い雪がかかる。
一年を通して色んな表情を見せてくれる場所だ。
ちなみに今は三月上旬。
雪こそないが、緑が増えるにはほんの少し早い頃。
そしてそこには、俺がお手伝いをしている農園『乙葉おれんじふぁーむ』がある。
強面の、見た目通りに厳しい……そして意外にイタズラ好きな農主さん。
明るくフォローしてくれる農主さんのお母さん。
そしてそして、柿畑に舞い降りる小さき可憐なマイエンジェルオブおれんじふぁーむ、乙葉由愛さん。……本人に小さいって言うとすごく怒るんだけどもね。その時の顔もこれまた癒されるんだけども……ぐへへ。
……おっといかんいかん。
ともかく、乙葉の人たちはみな良い人たちで、俺は楽しく仕事を手伝わせてもらっているわけなのだ。
A.M.8:00頃
「うぁぁぁ~……」
農園の傍らの広場に車を停めて、外に出る。同時にひとつ大きなあくびが出た。
姉ちゃんほどではないが、俺も朝は苦手な方だ。それほど忙しくない今の時期でこそなんとかなっているが、繁忙期になるともう一段階早起きしなければならないので、なかなかハードだ。
「ああ、でもいい天気だなぁ」
今朝のおれんじふぁーむの上空には雲が見当たらない。いつ見ても飽きない、いい青空だ。
まだ少し冷たい空気が肺に流れ込んでくると、ほんの少し眠気も散っていくような気がした。
――キェェェエエエエーーーーィィッ!
「……」
……そして、恒例の怪声が聞こえてきた。
声の主……お隣の農園『S・K・E』、その農主さんの祖母で、園の実質ナンバーワン、早乙女トリコさんだ。今日も元気に活動なされているようで……ご苦労さんです。
「でも、毎日凄いよなぁ」
噂によると、今やもう九十歳半ばだという。だのに人一倍といっていいほど、よく働くお方なのだ。叫びながらチェーンソーを振り回すその姿はまさに修羅。
実際、俺がここに仕事に来る時は、トリコさんの声を聞かなかった日は一度もない。
なにか元気の秘訣でもあるのだろうか……。
「……」
……もしかして、あの発声が元気の源……なんだろうか?
ふと思ってしまうと、どうしても実行したくなるのが人間の性というもの。
「んっ……んんっ……」
喉を調整しつつ、俺はすかさず周囲を見渡した。……よし、誰もいないよな。
「ちょっと試しに……き、きぇ~ぃ……」
うお……空気が澄んでるせいか、意外と声が通るぞ?
そして再び周りを見渡す。だ、誰もいないよな……っ?
うん……よし。
これも今日一日、元気に作業をするために……
「き……キェェェェエエエエエ~ィッ!」
目をつぶって、羞恥も捨てて、俺は叫んだ。
と、すぐにやまびこが返ってくる。
「お、おぉ……」
これは、意外に爽快だぞ……? まるで憑き物が落ちたかのようなこの感覚……。
「キェェェェエエぃ! キェェェェ~ィッ!」
おっほほ! だんだん気分が上向いてくる! これは楽しい!
つい何度も叫んでしまう。
気づけば、ここに来るまであったしつこい眠気なんて吹き飛んでしまっていた。
トリコさん……あなたって人は、いつもこんな楽し恥ずかしなことをなさっていたのか!
「キェェェ――ぃぃっ!」
叫ぶ。
「キエエエーイッ!」
豪快に、そして大胆に、両手を広げて俺は叫ぶ。
「キエェェェエエエーーィィッ!」
「おやおやバイト君! 今日は朝から元気だなぁ!」
「ぎょええええぇぇぇーーっ!?」
後方から突然の声!
驚きのあまり、叫びながら盛大に転んでしまった。
「く、黒部氏……!」
トリコさん同様、お隣の農園で働く黒部太郎氏だった。
黒いスーツ風の作業着に黒いサングラス。明らかに余計だろうお腹のお肉が特徴の、陽気かつ危ない男性である。
その容姿と名前のイントネーションから「黒豚さん」と呼ぶ者もちらほらいる。
どうやら、道を挟んで農園の反対側のフェンスに擬態していたようだ……。
くっ、氏の盗聴能力をすっかり失念してしまっていた。さっき見回した時は誰もいないと思っていたのに……!
「視ていたところ、君はトリコさんにあやかろうとしていたのかね?」
「え? あ、ああ……まぁそんなとこっす」
「アッハッハ! まぁ、トリコさんは我ら農業に従ずる者にとっては神のような存在だからな! その気持ちはよぉく分かるぞ! だっはっは!」
う、慰められてるのか笑われてるのかよくわからん……!
とりあえず、恥ずかしい……っ!
ただ、聞かれた相手が黒部氏だけだったのが怪我の功名というやつか。
他の人にバレでもしたら恥ずかしくて悶え死にそうだ……。
トリコさんの新たな凄みを、また別の意味で感じたような気がした。
A.M.10:00
「ふぅ……お疲れさまはなくん。そろそろ休憩しよっかぁ」
「あ、はい由愛さん」
「ところでさ……はなくん今朝、園のそばで叫んでなかった? きぇーいって。ふふふ、なんか面白くてこっそり見ててん」
「ぎゃーっ!?」