おっさんXの研修?
薄っすらとだが、嫌な灰色の雲が覆う空。
そんなある日のことだった。
その日は農主さんが用事でおらず、由愛さんと俺の二人で作業をしていた。
これまでの枝拾い作業も先日終わり、今は柿の木の皮むき作業……正確には"粗皮削り"という作業の真っ只中だ。
"削り"といっても、刃物やヘラなどでゴシゴシするのではなく、高圧洗浄機を使って水圧で表面の皮を削ぎ落としていく。
そんな作業を今、俺は由愛さんの教えのもとに行っているのだが。
「やっぱり、慣れるまでは怖いですねぇ」
「うん。いくら簡単といっても、油断したら危ないからねぇ。怖いって思うのは大事なことやで」
水といえど高圧、しかも木の皮を剥いてしまうほどの威力だ。下手に手でも当ててしまえば、大怪我は必至。
作業自体はなんでもないが、それなりにプレッシャーが掛かる。
出勤してから、黙々と作業をこなす。
由愛さんにチェックしてもらいつつ、丁寧に水をかけていく。
「ところで、どうして木の皮を剥くんです?」
「ん? それは、木と皮の間って、害虫の住処になっちゃうからやねん。暗いし湿気もあって、虫にとっては格好の場所なんやろうね」
「なるほどぉ」
そんな虫が蔓延るということは、もちろん柿にとっては良いことはない。
その対策なのかぁ。
「……あ」
「ん? どうかしたんですか由愛さん?」
「ああ~、ちょっと休憩道具忘れてしもて……」
いつも由愛さんが持参してくれる休憩道具一式。
午前十時と午後三時に訪れるまったり休憩タイムには必須のアイテムだ。
どうやら、今日はそれを家に置き忘れてしまったらしい。
「もうすぐ休憩やし……今から急いで取ってくるわ! 十時には戻れると思うから、それまではなくん、作業続けててくれる?」
「あ、はい。わかりました」
と、由愛さんはとてとてと農園の道を駆けていった。
しばらくその光景を拝ませていただいたあと、俺は作業に戻る。
だだっ広い農園に一人だと、なにかと心細い。
が、由愛さんが俺に任せてくれたんだ。ここはしっかりできることをせねば。
「……気をつけて作業しなくちゃな」
「そうでんなぁ……」
由愛さんのチェックが無いぶん、より慎重に高圧の水を浴びせていく。
「でも、水を飛ばして皮を剥くって……改めて凄いよなぁ」
「そうでんなぁ」
「圧をかけるだけで、こんなに威力が変わりますもんねぇ。技術って奥深いっすね」
「そうでんなぁ」
そうして俺は、次の木に移るべく、会話しつつも高圧洗浄機の機械を一旦停止させる。
……。
……え?
思うと、途端に背筋に寒気が走った。
今……俺……。
誰と話してたんだ……?
振り返ると、そこには一人の"おっさん"がいた。
「え、えっと……」
印象のないごく普通の中肉中背。髪型も平凡。縁のあるメガネ。
ホームセンターなどで安売りされているような作業着に、白一色の帽子をかぶっている。
いたって普通のおっさんが、そこに立っていた。
ただ……そのおっさんが突然、この農園にいる。
この状況がまず普通じゃない。
停止状態の俺を置き去りに、おっさんは洗浄機で木の皮を洗っている。
あれ? その洗浄機、いつの間にそこに? 俺が使っているのとは別の機械だ。
「あ、あなたは……?」
「……と……」
「え?」
名前らしきものを言ったようだが、ボソボソ声で全然聞き取れなかった。
……いや、待てよ。
そういえば、今朝農主さんが言ってた気がする。
『今日は俺がおらんが、手伝い呼んでるからな。それまでは生きろ』
最後あたりの意味はイマイチわからんが、お手伝いさんが来ると確かに言っていた。
そうか、この人がそうなのか。
「あ、俺は塙山草太っていいます。今日はよろしくお願いします」
どうぞよろしゅう、と挨拶を受けて、俺たちは二人で粗皮削りを再開した。
「……」
「……」
「えと……今日は微妙な天気っすね」
「そうでんなぁ」
「……」
「……」
ただ、その間会話などは全くなく、黙々と洗浄機のノズルを操作するのみだった。
* * *
「お待たせ~。ふぅ~、なんとか休憩に間に合ったぁ」
「あ、由愛さん。おかえりなさい」
「ごめんねはなくん。ちょうどいい時間やし、そろそろ休憩しよか」
開けた場所に休憩道具を広げる由愛さん。俺も機械を停めて額を拭う。
あ、そうだった。
今日はおっさんがいたんだったな。
「あのー、そろそろ休け……あれ?」
声を掛けようと振り向いた方向には、誰もいなかった。
あれ? おかしいな……。ほんの今までそっちにいたはずなんだけど。
機械はその場に置いてあるし、小便にでも行ったのかな?
「はなくん?」
「あ、今行きます!」
シートの上に腰を下ろして、由愛さんから缶コーヒーを受け取る。
「ありがとうございます」
「うん。それにしても……結構頑張ったね、はなくん」
「え?」
「だって、私がおらん間にだいぶ進んでるやん」
にっこりと笑顔で、俺が作業していたあたりの木を眺める由愛さん。
やった! 褒められちったぜ! ぐへへ!
と、飛び跳ねたい気分だったが、この功績は俺一人のもんじゃないんだよなぁ。
「今日は、あのおっちゃんがいてくれたから、助かったんです」
「え?」
「今トイレにでも行ってるのかなぁ。もうすぐ戻ってくると思うんですけど……あ、おっちゃんの分のコーヒーも頂けます?」
「あ、うん。いいけど……はなくん?」
「はい?」
「その……おっちゃんって……誰?」
「へ?」
……。
おやぁ?
お互いに首を傾げ合う。
由愛さんは、あのおっさんのこと知らされていないのかな?
「あの、今日農主さんが手伝いの人を寄越すって……」
「うん。それは知ってるねんけど……あ、来た来た」
俺の肩越しに視線を向ける由愛さん。その先、農園の入り口付近からやってくるのはあのおっさん……
……ではなく、野々古姉妹だった。
おれんじふぁーむの近隣に暮らす双子の女の子たち。黒いオカッパ頭で、てっぺんのアホ毛が一つ出ているのが紅ちゃん、二つ出ているのが碧ちゃんだ。
『こんにちは~。草太さんもお久しぶりですね~』
今日も今日とて、二人の声は綺麗に二重奏を紡いでいる。
「こ、こんにちは紅ちゃん碧ちゃん。……いや、あ、あれぇ~……? 今日手伝いに来てくれるってのは……」
「うん。紅ちゃんたちやで」
農主さんが言っていた手伝いの人。
それは、野々古姉妹だった。
……いや、じゃあ……。
「あのおっさんは?」
「おっさんって……誰なん?」
あ、あっれぇ~?
――その後、俺と由愛さん、そして野々古姉妹で作業を再開した。
結局、あのおっさんは戻ってこなかった。
別の日、それとなく農主さんに尋ねてはみたが、そんなおっさんは知らんとのこと。
ど、どういうこっちゃねん……?
平凡な格好のいかにも平凡なおっさん。
でも、あの謎のおっさんはたしかに、あの日一番の非凡だった。
結局、誰やねん?




