あねきのにっき。
小さな町のオフィス通り、その一角にある喫茶店。
田舎ながらも、むしろ田舎だからこそか、まわりに競合する店もなく、おかげでそれなりに混み合う店だ。
とある平日の昼下がり。かろろん、とベルが鳴り、一人の女性が店内に入ってきた。
「いらっさいましー」
「らっさいませ~」
もはや怠惰を隠す気もないウェイトレスたちの声が、世間話に花を咲かせる客たちの声に紛れて消える。もちろんその女性の耳まで届いてはいない。
キュロットにカッターシャツ、その上にチェックのベストをまとっている。いわゆるOLのような風貌のその女性。スラリとした容姿、肩までおろした黒髪……店内の男性客たちが無意識に見直してしまうほどには美人だった。
そんな男どもの視線を知ってか知らずか、女性は涼しげな表情で店の隅、やや奥まったところに空席を見つけてそちらに足を向ける。
そのまま颯爽と歩き始めたところで、
ガッ。
「ぎゃっ」
やや通路側に出ていた椅子の脚、そこに小指をしたたかに打ちつけた。
「……! ……!」
静かに悶絶。痛みに耐えながらもどうにか奥の席に辿りつく。その間、先ほどとは別の色の眼差しが女性に注がれた。
さすがにそれには気がついたのか、女性は火照る頬を誤魔化すようにウェイトレスに手をあげた。
「いらっしゃいませ、ご注文ですかー?」
「えっと……」
……しまった。
女性は思う。
咄嗟に手をあげたものの、肝心の注文を決めていなかった。
メニュー表を見直すふりをしつつ確認。
「えと、たまごサンドと、クリー……」
一瞬、とても魅力的な飲み物が視界に入ったものの、今の自分の立ち位置を思い返し、改める。
そう、今はOLの優雅なお昼時。それらしく優雅に振る舞わなければ。
「たまごサンドと、あとはいかがいたしましょう?」
「あ、わ……、ぶ、ブレンぢょ……」
噛んでしまった。
「ブレンドですね。少々お待ちください」
何気なく注文をとり去っていったウェイトレスだが、その口元に笑みが浮かんでいたのを見逃さなかった。
「くぅぅ、今日は冴えないなぁ……」
しばらくの間、女性は羞恥に顔を上げられず、ただひたすらジンと痛む小指を揉んだ。
* * *
ほわりと湯気を立てるブレンドのカップを手の中で弄びながら、女性――塙山朝花はため息をこぼす。
ただ、気分が下がっているのは今に始まったことではない。
小さな会社の事務員として仕事を始めてはや数年。延々と代わり映えしない日常で蓄積された疲弊が、こうして喫茶店に来るたびに吐き出されていた。
今日も今日とて、午前の仕事を片づけると同時に一目散に会社を飛び出し、こうして息継ぎに励んでいるのだ。
「あ~ぁ~、脱サラしたいっ」
ここ最近、呪文のように繰り返している言葉である。
そしてその言葉のあと、必ずする行動として、朝花は鞄から手帳を取り出した。
チェック柄のおれんじ色の手帳。その内側には、朝花の仕事やプライベートにおけるスケジュール・雑記が散りばめられている。
長い間愛用しているシリーズの手帳。ただ、就職当時と比べて草臥れるのが随分早くなっている。それは単純に、手帳を手にする機会、中に記す文字数が増えたからだ。
ホルダーからペンを抜き、ぱらぱらとページをめくる。
会議用書類の提出期限、合コンの数合わせ依頼、その他どうでもいい事柄は華麗にスルーすると、浮かび上がるのは我が親愛なる弟のこと。
そして彼、塙山草太が働く農園『おれんじふぁーむ』のことだ。
『乙葉おれんじふぁーむ』
……学生時代来の親友である乙葉由愛、彼女とその家族の営む農園という縁もあり、朝花自身が草太にアルバイトを勧めた場所だ。
幼少の頃からなにかとちゃらんぽらんだった弟。ちゃんと仕事をこなせるのか、勧めた身としてもはじめは少々心配だった。だが、草太は案外真面目に働いた。
農作業だけあって、もちろん楽ではない。時には苦いこともあったようだけれど、由愛や農園の人たち、それに朝花自身も手伝って乗り越えた。少しずつ前へ進んでいく弟を見て、朝花はホッとした。
そんなこんなを通じて、朝花の中にも新たな気持ちが芽を出し始めていた。
「あ~、あ~、脱サラ農業したいっ」
元々体を動かすのが得意なほうである朝花。彼女もいつしか、将来の夢に「脱サラ農業」を掲げるようになっていたのだ。
彼女の脇にあるビジネスバッグ、その入口からも「稼げる! 脱サラ農業のすすめ!」という本がちゃっかり顔を覗かせている。
手帳のカレンダー。視線を次の休日に移すと、「農」の字が丸で囲まれている。「乙葉おれんじふぁーむ」に手伝いに行く予定を表している。そしてその日を楽しみに、朝花は日々を頑張っているのだ。
「……おっしおっし、やる気出てきたぁ」
手帳の世界から意識を戻し、伸びをひとつ。すっかり冷めたブレンドコーヒーを一息にあおると、肩にかかる髪を後ろでひとつに結った。その頃には、さっきまでの下がった気分はすっかり消え去っていた。
「さて、と。ほんじゃ、次の休日までもうひと踏ん張りすっかなぁ」
そうして朝花は立ち上がり、颯爽とレジへと向かった。
ガッ。
「ぎゃっ」
そして再び椅子の脚を蹴りつけた。
* * *
――これは彼女、塙山朝花の手帳の世界。
景勝の地『おれんじふぁーむ』にて、彼女たちが見た、聞いた、体験した、おまけに夢に見た、妄想した……そんな日々のお話。