事情
「はい50スヴェン」
旅人はひらひらと掌を少女へと差し出し、貨幣の値を口にした。
少女は、唇を嚙みながら懐から要求通りの金額を抜き取ると、その掌の上に落とした。
「どうも、確かに頂戴した。いや、対費用効果の良い楽な仕事だった。また縁があれば、よしなにしてくれよ」
男は流れるような動作で受け取った賃金を小物袋へと仕舞い、興味を無くしたかのように少女から目を逸らした。
――なんとも呆気ない縁であった。
路地裏から這々の体で逃げ出した少女であったが、運悪く出た先は街の中心にある広場だったのだ。
そこには、下級騎士達が己を捕えるために監視の目を強めている筈であり、先ほどの路地に戻るなんて愚を犯すわけにもいかない。
進退窮まった彼女の目の前にいたのが――この飄然とした旅人であった。
彼は、どこかの商人が捨てたであろう木箱の上に座り、広場の様子を面白そうに眺めていた。
そこへ駆け寄り、少女は懸命に乞い願った。
お願いします、ほんの少しだけ、そこの中に匿ってくれないですか――。
見るからに怪しい風貌だったであろう。
突然の願いもあからさまに怪しく、厄介事の悪臭もさぞ立ちこめていたことであろう。
しかしながら少女にそのあたりの事情を事細かに説明する時間は残されておらず、今にもあの鎧の足音が近付いてくるような錯覚まで感じていた。
真っ青になりながらも、残された細い糸に縋る彼女に対し、旅人はにこりと微笑んで、木箱の蓋から少し腰を浮かし、蓋を空けた。
50スヴェンね。
少女は、一瞬だけきょとんとしたが、深い意味を探る余裕はなく、こくこくと必死に頷いて、まるで巣に帰る小動物のように、その箱の中へと収ったのであった。
その後彼は騎士の問いかけを容易くいなし、報酬までをも回収することで無事仕事を終えていた。
広場に散らばっていた下級騎士達は、あの猪突猛進な大男の一声で集められ、あらかた別のエリアへと移動している。
一先ずの危急をやり過ごした少女は、急いでその場を離れるでもなく、じっと目の前の旅人を見つめていた。
「……その。恩に、着る」
「ん? あぁ、今のは俺に言ったのか? いやいや、いいよ。約束の報酬にお礼なんて入っていないからね。不要だよ」
なんとも嫌みったらしい言い方をするものである。
旅人は少女を見ようともせず、同じようにひらひらと手を振って一方的に別れを告げようとしていた。
だが、この逃亡者にはまだ、彼に用事があったのだ。
彼女は旅人の前まで周り込むと――突如、家臣が王にするように恭しく傅き、もう一つのお願いを乞うた。
「旅人よ。君を戦士と見込み、ある大仕事を依頼したい。報酬は言い値でいい、また成し遂げられば果てなき名誉すら上乗せされるだろう。頼む、滅びに瀕した哀れな村を――」
「暴虐の竜から救ってくれ、とかそんなバカを言い出すんだろう? はは、なるほどこの手配書の通りだなぁ」
台詞を先取りされ、言葉を継げなくなった少女。
旅人は頭を振りながら溜息を吐いた。
「いいよ、身の上の説明とか。察しは付くから。君は次の『贄の村』の住人ってわけだ。本来であれば竜が来る直前までどこの村が選ばれるのかわからないけど、その情報がまぁ、どこからしらから漏れた。このまま待っていれば村の住人全員が皆殺しされてしまうから、竜を殺せるほどの用心棒を求めて街で騒いでいる、と。そりゃ、騎士様も出るハメになるわけだ」
守護神たる竜が乱心し、手当たり次第にそこらの集落を襲うようになり、手の打ちようのない災害となった。
帝国はこの未曾有の事態に頭を悩ませながらも、特使を竜の塒へと向かわせ、何度も交渉を繰り返すことにより、ある契約を締結させた。
――竜の暴虐を肯定する。ただし、襲う集落は帝国側で選定し、周期もある程度管理することとする。
それは正しく悪魔の契約であった。
人自らの手で虐殺をコントロールするという帝国苦肉の策は『贄の村』と呼び習わされ帝国民の顰蹙を買ったが……しかしながら、大多数の安寧は守られているのだという事実が大きく、時が経つにつれ、この悪習は徐々に受け入れられることとなったのだ。
「竜ほどの超存在が、人間とのお約束を律儀に守る必要なんて無いんだが、そこは特使の頑張りなんだろうな。毎年盛大に人の肉を喰らう以外は、まぁ大人しくしてくれてるさ。そんな繊細な状況で、用心棒なんか雇って反撃してみろ。契約違反だって竜が怒り出したら、帝国が……いや、世界が滅亡してしまうかもしれない」
これが、こんな年端もいかない少女を、騎士が必死になって追い回す理由であった。
『贄の村』に選ばれた以上、立ち向かうことも、逃げることすらも許されない。
予定していたよりも「肉」の総量が少なかったら、これも契約違反と捉えられかねないからだ。
天命と受け入れ、諦めるしかない。
少女のように、抗うことはむしろ天に唾する行為に他ならないのであった。
そんな一般常識を滔々と説く男に対し、彼女は悄然と項垂れた。
それでも止まらず、追撃するように言葉を重ねる旅人。
「それにね、仮に村が本気で竜への反撃を目論んでいたとしても……それの人集めをこんな小娘一人に任せるかな? 外套もぼろぼろで、頬も痩せてるね。しばらくまともなものを食べてないだろう。ロクな路銀すら持たされず、こんな無茶をしているわけだ。つまり、これは村の責任者が決めて実行していることではなく――君個人が勝手に動いているだけだと推察することができる。報酬は言い値? 果てなき名誉? ハハハ! 全く、現実は呆れるくらい真逆じゃないか!」
少女は、ただの一言も返すことができなかった。
旅人が推察した通り。これは長の決定ではなく、彼女が勝手に抗っているだけ。
何の保証も無く、悪逆とすら誹られるだろう。
だが彼女は――それでも、諦めることはしなかった。
「……確かに、私は村の意思とは全くの別で動いている」
「ああ、だろうね。それじゃあ、まぁ、物好きな義士が集まることを願っているよ」
「だが、私が言ったことは決して嘘では無い……! 救国の英雄という名誉も、望むままの報酬だって与えることができる……!」
そう言うと少女は胸元をまさぐり、服の内側から銀色のペンダントを旅人に向かって突きつけた。
シンプルな装飾に見えるが、近くでよく観察してみると、実に細やかな紋様が刻まれていることがわかるだろう。
男はそれを見て、さっと血相を変えた。
「――王室紋様。しかも、その白鳥の浮彫は……先代女王のシンボルじゃないか……」
「これを然るべきところに売り捌けば、一生遊べるほどの金が手に入るだろう。これでもう一度、私の話を聞いてくれないか?」
それは、先の混乱期の際に焼失されたとされる、先代女王グレアの遺品の一つであった。
不思議なことに、彼女の死と共に多くの持ち物が失われていて、本物の女王の遺品となると蒐集家がどんな値を付けてでも買い取ろうとするほどの、一級品の宝物であった。
それは紛れもなく本物の気品を醸し出していた。
王都炎上のどさくさで、火事泥棒がくすね、紆余曲折を経て少女の手に渡ったのだろうか。
考えるだけ泥沼だが――だが、一つ考えられる可能性として、それはあり得るのだろうか。
旅人は、ジッと押し黙り、途端に静かになった。
その様を、少女は否定を受け取ったらしい。
「……ああ、そうだな。すまない、また厄介な代物を持ち出してしまって。今は、とにかく一人でも力が欲しいんだ。だから、もしも気が変わったのであれば、一声かけて欲しい」
そして彼女は悲しげに微笑むと、件のペンダントを胸元にかけ直した。
そしてすぐに踵を返すと、広場の向こう側へと足早に去ろうとした。
旅人はまだ考えていた。
少女の薄汚いローブの背面を見つめながら、ちぢれてしまった思考をなんとかまとめようとしていて……。
「へえ、そりゃあ拾いもんだなぁ」
少女の周りを、見るからに風体の悪い男が五人。
下卑た笑い声を上げながら取り囲む様も目撃していた。