旅人
「神は我々へ赦しを与え賜りました」
鈴を転がしたかのような、清廉な声音が広場へと渡った。
「原罪を背負い滅びへと荷担する我ら人間は、慈悲深き神の深慮により、再度裁きの刻を迎えるに至ったのです」
噴水の前でそう説くのは、教会の制服を着た一人のシスターだった。
広場を行き交う人々や店を構える商人達は、その言葉を遮るでもなく、むしろ幾らか心地よさげに聞いていた。
「征服の大戦から蛮国の平定、そして先の革命軍の粛正と、僅か数十年の間に、人間の歴史は血が流れ過ぎました。膨れ上がった穢れの波を糺す為に、神の御意志は竜の形にて現れ――地獄へ墜ちるべき卑しき魂を浄化するべく裁きを開始したのです」
凜と澄み渡るシスターの説教は、この街では日常の一部であった。
彼女を咎める者は誰一人としておらず、商人も客も警備兵も、当たり前の光景として受け入れている。
それを目を閉じ、意地悪くに微笑みながら大人しく聞き入る男がいた。
彼は広場の端に置いてある、大きな木箱に腰掛け、暖かい日差しを受けながら街の喧騒に自身を溶け込ませていた。
実に簡素な軽装で、風にたなびくマントの摩り切れ具合から、どこからかやってきた旅人なのだと、ようやく知ることが出来る。
……背に担いだ、巨大な大剣だけが、どうにも不釣り合いではあったが。
近くを通り過ぎる町人は、誰しもが訝しげに彼を見やる。
馬鹿みたいに大きな剣が男の存在感を引き立たせ、否が応でも注目を集めてしまう。
しかしながら当の本人はどこ吹く風で――にやにやと笑みを湛えながら、広場の活気を眺めていた。
――よくもまぁ、ここまで詭弁を並べられるものだ。
それは教会が語る、よくある竜災肯定の説話であった。
ただの災害を神の御意志とまで言い切るその根性は……むしろ感心してしまうくらいだなぁ、なんて呑気なことを考えてしまう。
「『贄の村』などと悪し様に呼ぶ者もいますが、それは大きな間違いです。彼らこそは、神に見初められ此の世という地獄から解き放たれた聖人なのです。竜に浄化された魂は速やかに教会によって列聖させらるのです」
およそ六年前……国を守護するはずの竜が、突如狂った。
それは、帝国が周辺の国々を征服し、最後まで抵抗を続ける革命軍までも滅ぼしたのと同じ時期であった。
人と人の戦争が一段落すると、竜は帝国の民を襲い始めた。
それはあまりにも一方的で、地図から一つの地名が無くなるほどの暴虐ぶりだったと伝え聞く。
皆はそれを竜災と畏れ、眠れない日々を幾夜と過ごした。
そんな状況から、帝国が執った政策が――『贄の村』だった。
「おうおうそこの旅人! ちっとばかし尋ねたいことがあるのだが」
と、横から野太い声がした。
振り向くと、そこには白銀の鎧で全身を覆った、やけにでかい男が立っていた。
「狼藉者を追っていてな。見るにも耐えんボロ布を被った娘なのだが、そんな者がこの辺りを通りかからなかったか?」
彼は、目前の騎士を見上げた。
溌剌と滲み出る生命力たるや、こちらが胸焼けを起こしてしまうくらいであり、なにより胸に掲げられた幾つもの勲章が、この男こそは尋常でない怪物だと語りかけているようであった。
旅人は、じっとその騎士の目を見つめると、静かに言葉を返した。
「そういうお宅は?」
「……おおぅ? このナリを見て、俺がわからぬというのか? ――いやなるほど。見れば貴様、旅人のようだな。失敬失敬、田舎者にも名乗りを上げるくらいの礼儀はしてやってもよかったわい」
ガハハ、なんて粗野に笑いながら、男の騎士が胸に手を当て名乗りを上げた。
「我が名はドゥリスタン・ベンゲル。帝国騎士団に名を連ね"猪"の号を頂戴した上級騎士である。ここに、平穏を擾乱する狼藉者が現れたと聞き、安寧を守る為に参上した次第だ」
慇懃に名乗るドゥリスタンであったが、その内側からは無駄な手間を取らせるこの異邦人への苛立ちが零れてしまっている。
だがそんな騎士の前で、男は依然、飄々とした雰囲気を一切崩さなかった。
「そうかドゥリン。しかしな、大変残念ながら俺は今のところその使命に協力できることは何も無さそうなんだ。代わりと言っては何だが、俺も礼儀とやらだけでも返そうか。我が名はキー――」
「ああ、もういい! クソ、時間を無駄にした」
男の話を途中で遮ると、ドゥリスタンは一枚の紙を手渡した。
受け取ると、それは簡単な似顔絵と、身体的な特徴が記載された手配書であり、下部にはでかでかと大きな文字で「騎士にまで引き渡した者には金貨5枚を与える」とある。
「もしもその女を見つけたらすぐ様に捕らえ俺のとこにまで連れてこい。ささやかではあるが報酬まで与えてやろう。貴様も路銀が欲しいだろう」
そう言い捨てると、大男は若干苛立ちながら彼に背を向け、その場を離れようとした――。
その時、「そういえば」と声を掛けた。
「貴様が腰掛けているその木箱、中には何が入っているのだ」
その問いかけに、旅人は目を閉じながら、首を振った。
「さぁ、知らない」
「知らない、だと?」
「ああ。道すがら出会った人の頼みでね。少し外す間に、荷物を見張っておいて欲しいとのことなんだ。俺がここで腰掛けているだけで、幾ばくかのお駄賃が貰える。ま、そんな事情だから中身なんて知る必要がないのさ」
ぺらりぺらりとよく喋る男だなと、ドゥリスタンは思った。
これ以上関わっては時間をドブに捨てることとなる。
「そうか」とだけ返し、街の雑踏の中へと消えていった。
「行ったぞ」
そして旅人は、少し腰を浮かし、木箱の蓋をそっとずらした。
その暗闇の中に潜んでいたものが、もぞりと身を震わせた。
見るに耐えないボロ衣を纏っていたが――端正な顔立ちだけは隠すことが出来ず、
手配書にあった少女の顔が、木箱の中から旅人を見上げているのであった。