それは突然、落ちてきました。
内容のない思い付きだけで突っ走った話です。
よく晴れた春の日、学校から家までの帰り道。とても青い空をちらちらと見上げながら歩いていると、ふわりふわりと空を舞って、落ちてきたのです。
――――――男物の、パンツが。
小首をかしげながら、風の吹いてきた方向を見れば。驚きの光景が目に入って、ついついひとりごとが。
「……あのおじさんは、いったいなにをしているの?」
見上げた先には、洗濯物を取り込もうとして、自分の家のベランダでわたわたと不思議な動きをしているおじさんがいました。その手の先には、洗濯物。それに、あのおじさんが洗濯物を取り込もうとしているのだとわかりました。でも、どうしてあんなに下手なのかしら?不思議に思って私が見つめている間に、おじさんは時間をかけて何度も落ちそうになりながら何とかすべての洗濯物を取り込み終わったよう。けれど洗濯物が足りないことに気づいたのか、おじさんはまた焦ってベランダから下をのぞいて、落ちそうになって。何度もそれを繰り返すおじさんがかわいそうで、でも面白くて。ついつい放置ぷれいのようなものをしてしまった私なのでした。むむぅ、とはいえ、ずっとあのままだとさすがにかわいそうだったので。私は片手に拾ったぱんつを持って、まっすぐにピーンと腕を伸ばして、左右に大きく振りました。
「おじさーん!探しているのは、これですかぁー!」
「あっ!それ――――う、うわぁあああああっ」
真っ赤なランドセルを背負った私がぱんつを持って大きく振る。それはさすがにとても目立ったのか、一発でおじさんは私の方を向いて。一気に顔を真っ赤にした後、ついにベランダから下に落ちてしまったのでした。あまりにも予想通りで、面白くて。私はからからと笑って、スキップしながら落ちたおじさんの元へと向かうのでした。
これが、小学5年生の私こと有津恭加と。おじさんこと27歳の鶴蒔裕記の出会いなのでした。
てくてくとおじさんが落ちたらしき場所まで歩いていくと、落ちた格好のまま、茂みの中でうなだれているおじさんを発見できました。なんだかこのまま放っておくと、それこそまんがみたいに苔でも生えてきそうな雰囲気です。とりあえず、声をかけてみましょう。
「おじさん、こんにちわー。だいじょうぶですか?」
「うわああああああまじかよ来るのかよあのままスルーしてどっかいってくれたらよかったのにいいいいい!」
「いやいや、ひとのものを勝手に持って帰っちゃったら私、泥棒になっちゃうもの」
このおじさんは、なにをいってるのでしょう。いくら私が子供とはいえ、それが犯罪だってことくらいは知っています。世間知らずのおじょうさんだとおもったのなら(それはあながちまちがってはいないけれど)、痛い目をみることになるのです。まぁそんなことはおいといて。
「おじさん、大丈夫ですか? けがは?」
そう問いかけながら、これだけ騒いでいるのだからからだにおかしいところはないのでしょう。どちらかというと。
「どこかやってるとしたら、かくじつにあたまですね……」
「お嬢ちゃん心の声丸聞こえだからそう思ってるのは知ってたけどね! 俺別に頭打ったりもしてないから!」
「……それはそれでだいじょうぶなのかしら……?」
「本気で憐れんだような眼で見るの、ヤメテ、お嬢ちゃん!?」
これが通常だというのもどうなのでしょう。ともかくさっきからやけにさわがしいおじさんです。おじさんが話してる内容よりも、おじさんが何度も私をおじょうちゃんと呼ぶのがきにくわなくて、自然と私のほっぺはぷくっとふくらみます。
「わたし、おじょうちゃんじゃないわ。きちんと名前があるの。おじさん、失礼な人ね!」
「いやいやいや、今日さっき会ったばっかりの知らない子の名前知ってた方が驚きだからね!?大体名前で呼んでほしいなら自分から名乗るのが礼儀ってもんじゃ……だからその眼やめよう!?」
いけないいけない。ついつい私としたことがかわいそうなものを見る目を向けてしまいました。
「はぁ。おじさんってもてなさそうですね」
「お前ホント失礼だな初対面の相手に向かって……」
「あら、間違ってたらちゃんと謝りますよ。それで、どうなんですか? おじさん」
私がそう聞くと、うっと言葉につまったあと、おじさんは不自然にしせんを私からそらしました。ほら、やっぱりね。
「だいたい、れでぃに名前をきくなら、じぶんから名乗るのがれいぎだと思いますよ、おじさん」
勝ち誇ったように私がそう言うと、おじさんは色々あきらめたのかひとつため息をついた後、口を開きました。
「鶴蒔裕記 。それが俺の名前。一応こんなんでも27なんだ、おじさん呼びはやめてほしいな……」
「私から見たらじゅうぶんおじさんですよ。このランドセルが目に入らないんですか?」
「いや知ってたけど……世間的に見ればまだおじさんって年じゃないんだよ」
「もう、わがままですねー、おじさん。わかりました。じゃぁ今後はおじさんのことつるって呼びます。私の名前は有津恭加 。11歳ですよ」
「いやいやいや、その呼び方もどーなのさ……俺、一応君より年上よ?」
「確かにつるは年上だけれど、うやまう気にはなれないんですもの。だって、たよりなさすぎるんだもん。まだ私の方がつるよりいろいろできると思うし」
少なくとも、私はベランダから落ちずにせんたくものを干すくらいはできます。……危ないから、家でそんなことはさせてもらえないけれど(わがやはお庭でせんたくものを干すのです)。
「とりあえず、つるの部屋にいきましょう」
「ちょっとまてお嬢ちゃん」
「さっきもいったですよ、私、おじょうちゃんじゃないです」
そう呼ぶなと再びほっぺをぷくりとふくらまし、こしに手を当てて座ったままのおじさんことつるをにらむと、つるは困ったようにあたまをかきました。
「とはいってもなぁ、何て呼ぶか。……ありすちゃん?」
つるはほんとうに、あたまがばかなのでしょうか。私のみょうじは有津です。ありすって、どこをどうやったらでてくるの?
「はぁ、つるが私が思ってたいじょうにぽんこつだってことはわかりました。もうそれで、ありすでいいです」
「ちょっとまて、お前、俺が有津をありすに聞き間違えたと思ってんだろ! 違うからな!?」
「じゃぁどうしてありすなんですか?」
「お前が俺のことつるって呼んだろ。あだ名みたいに略して。だから俺も、そのままじゃなくてあだ名みたいな感じで呼んだ方がいいかと思ったんだよ。ありつやすか、だろ。だから苗字と名前を略して、ありす」
そのつるの一言に、ほんとうにほんとうにふかくにも、私はほんのすこし、きゅんとしてしまったのです。つるが私のために考えてくれた、とくべつな、かわいい私のなまえ。
「……つるのくせに、なまいきですね」
「おまえなー、ほんと……」
「つるの言葉なのに。ほんのちょっと、ちょっとだけ。すっごくよろこんじゃったじゃないですか」
たくさんのてれのなかにまぎれこませた、ちょっとのほんね。うれしさをかくしきれずにちょっとだけ笑うと、つるはおどろいたような顔をしていました。
「さ、つる。つるのおうちにいきましょう。あそこですよね?」
「あ、おいちょっと待てって!」
さっきつるがおっこちたへやをめざして歩き出した私は、知りません。
「はぁ……。ったく、こっちの方がどきっとしちゃったじゃねーかよ……相手はガキだぞ、俺」
つるが後ろで、自分に言い聞かせるようにそういっていたことを。
「ところでなぁ、ありす」
「なんです? つる」
「いや……お前、今どういう状況かわかってるのか?」
つるは何を言っているのでしょうか?そんな当たり前のことをきいてどうしようというのでしょう。私は両手でかたてなべを持ったまま、首だけをつるの方へと向けました。
「何って……つるのいえでごはんをつくろうとしてるんですよ、つるのために」
せんたくものを干そうとするだけでベランダから落っこちるような人です。とても器用には思えなくて、家にあがりこんでキッチンを見て見たら、あんのじょう。一応やろうというどりょくのあとはみえましたが、そこはひさんなじょうきょうでした。今私は、ごはんをたいて、かろうじて生きている食材たちをつかって、ありあわせのおかずを作っているところなのです。じゃまをしないでほしいですね、本当に。だまってまってろなのです。
「いや、俺が言いたいのはそう言うことじゃなくてだな」
「もう、つるはまわりくどいんですよ。はっきりいってください」
「いや、仮にもお前女の子だろ、まだ小学生だろ。ほいほいしらない男のうちに上がって、しかも手料理を作るって。無防備過ぎんだろ……仮にも俺も、大人の男なんだぜ?」
一応つるのそれは、心配からの言葉なのでしょう。確かに、その通りなのですけれど……
「……なんにもきづかない、つるに言われたくないですよ」
「は? どういうことだよ?」
まぁ、私のみょうじを聞いてもなにも反応がなかったじてんでなんとなくはわかっていたんですけれど。他人の気配にもにぶすぎるでしょう、つるは。今私といっしょにいるじてんで、たくさんのひとのかんしかにあるというのに。まぁつるがむがいだとにんしきされたからこそ、私がこうしてぼうきょにでてもせいかんしてくれているんでしょうけれど。あまりのにぶさに、ため息しかでない私です。
「いえ、あんなおっちょこちょいなひとにたいしてそんなけいかいしんをもつということほどむだなことはないなぁと改めて思っただけです。そんなことより、できましたよ」
そういうとつるは私の手元をのぞきこんできました。作ったのはにくじゃがです。個人的に和食の方が私の好みなのです。けっして、レパートリーが和食にかたよっているというわけではありませんよ。そこ、ごかいしないでくださいね。
「へぇ、ふつうにうまそうだな」
「うまそう、じゃなくてちゃんとおいしいです。しっぱいしたことないですもん」
「へー、じゃ、いただきまっす」
そのまま使っていたさいばしでぱくりとつるはじゃがいもをひときれたべてしまいました。ねこじたなのか、すこしかおをしかめてはふはふしています。
「あっふい、でも、んまい」
「あたりまえじゃないですか」
ほんのすこし、ふあんだったのはないしょなのです。じつは、かぞくいがいに自分の手料理をたべてもらったのはつるがはじめてなのです(私のボディーガードをしてくださっている方たちは、かぞくわくです)。
「それにしても……ほんとうに、つるはぶきようなんですね」
「……悪かったな、もとからなんだ、どうしようもないだろ」
「あと、つるこそぶようじんですね。こんな、どこの子かもわからないこむすめをほいほいいえにあげるなんて。さっきつるは私にけいかいしんがないといいましたけれど、私からみればつるもどっこいどっこいです。だって、私がここでさわげば、かんたんにつるははんざいしゃですよ?」
「…………お前、子供の癖に考えることえげつないな……」
私はつるのその言葉にはなにもかえさず、ただにっこりと笑いました。私にとってはさいあくのじょうきょうを考えてうごくことは、あたりまえなのです。私は有津家のむすめなのですから。
「……それにしても、へやの中はいがいときれいなんですね」
「物が無駄にあると、ことごとく壊すからな……片付けざるをえないんだよ」
「ぶきようさもそこまでいくとすごいですねぇ……」
「お前俺をばかにしてるだろ……」
むしろかたづけのとちゅうにものをこわさずにいれるのが不思議です。いちばんものをこわしそうなのに。そんなはなしをしながらもつるはにくじゃがをパクパクと食べていきます。ごはんもたけてるのに。そういえば、ひろったぱんつをもったままでした。
「つる、そういえばこれ、どうすればいいですか?」
「! ブッフォッ!」
ぱんつの存在を完全に忘れていたのか、つるは食べかけのにくじゃがをふきだして、ごほごほとせきこんでいます。きたないなぁ……。こういうときは、冷たい目をむけてもしかたありませんよね?
「おまっ、まだ持ってたのかよ‼」
「会ってから今までで私がつるにわたしたおぼえがありますか? ないですよね? ……じゃぁ私が持ってるに決まってるじゃないですか」
私のことばはまとをえていたのか、つるはなにも言わずにぐっとだまってしまいました。ちらりと時計を見ると、そろそろいい時間です。そのまま外に目を向けると、そのさきにかくれるようにいたボディーガードのひとりがこくりとうなずきました。楽しいけれど時間ぎれのようです。ぽん、とつるの手にもったままだったぱんつをのせます。
「ふむぅ、なかなかおもしろかったです、いいひまつぶしでした。でもそろそろ帰りますね」
「まじでお前、なにがしたかったんだよ……」
つかれたようにそうつぶやくつるににこりと私は笑います。
「いったじゃないですか、ひまつぶしです」
たまたまひまな放課後。たまたまひろったおもしろいもの。たまたま出会った人。それがたまたま楽しかったから。ただそれだけです。理由なんてほかにありません。おりょうりは、そのちょっとしたお返しです。あぁそろそろ帰らなきゃ。へんなかおをしたままのつるに見守られながら、私はくつをはいて、ドアをあけます。
「それじゃあつる、さようなら、なのです」
「……おう、じゃーな」
つぎのやくそくもなにもない、あっさりしたお別れ。とても楽しい時間だったのに、どうしてでしょう、その時の私はお別れはそれで十分な気がしたのです。そのままふりかえることもなく、私は家へとまっすぐに帰りました。
それからしばらくたった、また晴れた日の帰り道。青い空をながめながらゆっくりとあるいていると、ふわりふわりと宙をまい、おちてくるものがありました。なんて見たことある光景なのでしょう。手につかんだものは、男物のぱんつ。アパートのある方向を見れば、ベランダでわたわたとしているつるの姿が。
「もう、ほんとうにだめな人ですねぇ」
手にもったぱんつ。それを届けに。私はまた、つるの家へと向かうのでした。
ちなみに、
有津ちゃん→いいとこのお嬢様。
鶴蒔くん→ドクターコースの院生。
です。