まるで湖を見るがごとく
高校二年の夏といえば人生を最も謳歌出来る年頃だろう。右も左も分からずに先輩に頼ってばかりの一年生だった頃とは違い、今度は逆に頼られる立場なのだ。……頼ってくれたのに応えられず三年生に任せてしまうのはご愛嬌だが。
自分もそんな一人だ。所属している陸上部では三年生も無事に地区予選の突破を果たし部活の実権は未だ先輩方が握っている。つまりヘマをすれば二年でも注意されるのだ。普段は要領良く注意とは無縁の生活を送っていたのだが、何故か今日は朝練があるというのに寝坊してしまった。いつも朝練がある日は一人で起き、自ら軽く朝食を作り食べて行く。朝になっても起き出さない自分を両親は今日は朝練が無い日と判断したようで、起こしてはくれなかった。
「母さん!朝練に遅刻しそうだから朝ご飯は食べれない!」
「眞家、パンくらいなら咥えて走って行けるでしょう。行儀は悪いかもしれないけれど今日は母さんが許すわ。パンと牛乳ぐらい持って行きなさい」
「わかった。母さん弁当ありがと。行ってきます!」
母のいってらっしゃいの言葉も聞かずに家を出る。学校まで見通しのよい大通りのため少女漫画のような曲がり角でぶつかるお約束展開には期待できそうにない(まあパンを咥えているのは自分なのだが)
大通りゆえに交通量の多い信号が今日は何故か車も人の通りも無く、赤信号だというのに容易に渡ってしまうことが出来そうだ。そしてその状況は朝練に遅刻してしまいそうな身にとってついルールを破ってしまいそうになる程度には魅力的だ。ただルールは守られるべきで誰も見ていない、意味が無いなんてことはルールを破る理由にしてはいけない。それでも一分一秒が惜しいこの状況は精神が成熟しきっていない自分を揺さぶるには十分だった。
(何をそこまで焦ってるんだか……)
気がせくのを抑えようと解けてもいない靴紐を結び直す。昔から気持ちを切り替えるために行っていた動作だ。右、左と両足の靴紐を結び直しそろそろ信号が変わったのではないかと顔をあげる。するとその瞬間!赤信号だというのにカーブしてきたトラックが鼻先を掠める。文句を言おうと思うよりもまずゾッとした。もし信号を守っていなければ今頃自分の身体は宙を舞い道路に叩きつけられていただろう。
(あれ?今のトラックに誰も乗っていなかったような?)
「おはようございまーす菓子野先輩。菓子野先輩?」
「ああ、何だ洩撫か。なあ今のトラックに乗ってる奴見たか?」
「トラック?そんなん通りました?それよりなに律儀に信号待ちしてんですか。朝練、遅刻しますよ?」
「あ、やっべ!遅刻するって……お前もだろうが!早く行くぞ!」
「りょーかいです!」
青のランプが灯る信号を走って渡る。トラックのことは心残りだったが、後輩に尋ねても知らないようだし一旦置いておくことにした。残りの道のりには信号は無いし同じ状況にはもうならないだろう。部活で鍛えた足腰で残りをスパートをかけて部室に急ぐ。部室では守武先輩が待ち構えていた。
「おうお前ら。今は何時だと思ってる?」
「七時三十五分です」
「朝練の開始時間は?」
「七時三十分っすね」
「何か言いたいことはあるか?」
「すみませんでした!」
「え~五分くらいいいじゃないですか」
「よし菓子野はトラック五周追加で洩憮は十周追加な」
洩憮の横暴な~との声を尻目にさっさとグラウンドに出て柔軟を行う。いつもはトラック二十周だが今日は五周追加されているので計十五周となる。トラック一周が四百メートルなので十五周は五千メートル、つまり五キロだ。ただでさえ遅刻で時間は少なくなっているのだから手早く済ませてしまおうと走り出した。
予想外のことに少女は栗色の瞳を瞬かせる。辺りは暗く少女の手に持つ水晶がぼんやりと辺りを照らし出している。黒曜石のような黒髪は水晶の明かりにより微かに光沢を放っていた。
少女はある少年を自らの元に誘おうとしていた。教師や友人の弁では時間の余裕を奪い周囲への警戒を怠らせれば簡単にトラックに轢かれてくれると言っていた(トラックに轢かれることがこちらの世界に誘う方法とのこと。理由と理屈はよくわからなかったがそういうものと理解はした)
結果としては思惑は外れ、トラックは何もない空間をただ通り抜けるだけに終わった。一度経験した以上同じ手は通用しないだろうし警戒心を強めるだけの結果になってしまった。だがしかし思惑が外れたにしてはやけに少女は上機嫌だ。集団で三番目と評される程度に整った顔には微笑みすら浮かんでいる。
「予想以上です。ルールを守らない人は好みではありませんし、要領の良さも気に入りました。今度は直接お迎えに参りますからお待ちくださいね菓子野眞家さん」
少女の名はグレーテ。異世界における菓子野 眞家と同一人物であった。
「じゃあ残りファイトです」
「おーお疲れー」
「お疲れ様でーす」
朝練が終わり教室へと向かう。洩撫は一年全員連帯責任でもいいんだぞとの一言であっさり諦めたようで未だに走り続けている。守武先輩はというと他人に厳しく自分にはなお厳しくがモットーらしく洩撫より一周多い十六周を目標に走っている(単に負けず嫌いとも言える) その向上心は尊敬に値し普段は自分も追従し努力を重ねるのだが朝食を食べていない今日は中々に厳しいものがあった。
「おはよー、なんか眞家にしては疲れてんじゃん。ダイジョブ?」
「お早う、硝子。疲れたってかお腹空いたかな。今日寝坊しちゃって朝食パン一枚しか食べてないんだよね」
「それならばガムを進ぜよう」
「本当?サンキュ」
「口移しで」
「やっぱパスで」
廊下から雑談を交わしながら教室に入り自分の席へと向かう。担任が厳しいためSHR五分前である現在、席を立っているものはいなかった。隣の家で隣の席の製靴硝子と軽く朝の挨拶を交わす。時計は本来の開始時間の三分前を指し、教室のドアがピシャリと音をたて開け放たれる。ビシッと決まったスーツ姿の担任がお出ましになった。
「おはようございます。それでは出席をとります」
よく通る声で担任が出席をとる。勉学についていけなかったものや周囲の環境と不和を起こすものなどいわゆる不適合者と呼ばれるものは一年時に淘汰されたようで欠席は一人もいなかった。出席確認も終わり授業教室の変更を告げられSHRは終了した。
厳しくとも優秀な教師であるため自学したノートの確認をしてもらう生徒の姿が見られる。自分も見てもらおうかと思ったが普段は朝に自学するため寝坊した今日はする暇がなく残念ながら見てもらうことが出来なかった。そのため大人しく次の授業が始まるのを待つことにした。
「よーやく行ったよ。あのマジメなふんいきニガテなんだよね」
「そう邪険にしなくても。どんな分野でもわかりやすく教えてくれるんだから」
「そーゆー眞家だって教えてもらってないじゃん」
「いつもは朝に自習するもんだから寝坊した今日は出来なかったんだよ」
「あー、そーだったね」
担任がいなくなると同時に硝子が話しかけてくる。不適合者は淘汰されたと前述したがそれはあくまで学校にとっての不適合者だ。勉学や運動も十二分にできる社会にとって不適合者はこの学校に少なからず存在し、硝子もその一人だ。硝子は女だというのに女の子が好きで先輩からは子猫ちゃん、後輩からはお姉様と慕われている(同級生からは呼び捨て) スタイルは平均的なのだが先輩に会う時はサラシを巻いて、後輩に会う時はパッドを入れて猫を被っているらしい。幼馴染でもなければ縁を切っているような奴だが面倒見が良いのでついつい頼ってしまうことも多い。
「あ」
「どーしたん?」
「英語の予習忘れてた」
「見せたげよっか」
「サンキュ」
「貸し一つね」
「了解」
このように、だ。英語は一時限目のため、借りたノートを早く書き写すことにする。英語の担当は日本人教諭と外国人講師のペアでの指導で聞きたいことは日本人教諭に聞けば通訳のように伝えてくれ外国人講師が答えてくれる。そして英語にはただ一つの決まりごとがありそれが予習をすることであり予習をしてこない人数に比例して機嫌が悪くなるため、予習は必須なのだ。
「オハヨウゴザイマス Good morning」
「Good morning」
結果からいえば無事に移し終え何事も起こらず授業を終えることができた。硝子が白人もいいかなーと言っているのを無視し(硝子自身も金髪碧眼の人形のような容姿だ。ハーフなのかクォーターなのかは忘れたが) 弁当箱の蓋を開ける。昼食には早過ぎるが腹が減って仕方が無いので仕様がない。
「あっおいしそーじゃん。卵焼きくれたらさっきの貸し無しでもいーよ」
「でも断わる。お前、貸し作ったことばっか覚えてて借り返してもそのこと忘れるじゃないか」
「いーから、ほらあーん」
「それじゃあアスパラガスだけあーん」
「ッー! アタシがアスパラ嫌いなの知ってんでしょ!もう怒った!」
膨らませた口を眺めながら弁当を食べ続ける。気を付けなければ口移しをしようとしてくるため注意しなければならない(チュウだけに)
硝子はキス魔のため口移しを普通にしてこようとしてくる。そしてキス自体は寝ている最中にもえあり、無駄に神経が過敏になり他人の気配に鋭くなってしまった。
次の授業は古典のため眠ってしまう生徒が多々でるだろう。自分も起きていようと努力はするのだが眠ってしまうことがある。ただ見つかっていないがために怒られていないだけだ。教師が教室に入ってきた。今日は起きていられるだろうか……。
ふと他人の気配を感じ目を覚ます。教師が近くに来たのかと思い教科書を読んでいるフリをする……が、何かおかしい。あまりにも周囲の気配が無さ過ぎる。急いで周囲の確認をしてみると生徒はおろか教師でさえも深い眠りについている。では先程気配を感じたのは何故だ?すると……
「あら?いかがいたしましょう。お眠りになっている最中に拉致させていただこうと思っていましたのに」
「拉致?貴女は一体?」
どこからともなく教室に少女が現れた。髪は長く黒く艶があり、両親の結婚指輪に付いているブラックダイヤモンドのようだった。肌は白く透き通るようで触れると空気に溶けてしまいそうな程だ。美人といって差し支えのない容姿だったが何故か既視感があった。
「自己紹介は自分からするものではないですか?まあいいでしょう。私はグレーテ。異世界における貴方と同一人物です」