天使
歩き始めて何日も経ったある日、ようやく前方に何かが姿を現した。私は感動のあまり、埃で黒くなった自分の顔の皮膚を洗うかのように涙を流した。
何かが見える、人工的な何かだ。正体はすぐに分かった。お墓だ。それもおびただしい量のお墓。
私は考えた。ここは現実世界の墓地なのだろうか?それとも天国...?
私には見分けることはできなかったが、私は導かれるように墓地に立ち入った。何かが私のことを呼んでる気がする。そう感じた瞬間、私は墓地の中を無心で走っていた。
気がつくとあるお墓の前にいた。でもこのお墓、違和感がある。何かが足りない。そうだ、名前だ。不思議なことに、他の墓石には名前が刻まれているのにこのお墓には無い。
「これってひょっとして...?」
私は数秒静止した後で表情をやわらげ、呟いた。
「あの子が私をここへ導いたのね」
私は墓石の前に座りこみ、右手に持っていた彼女の服を墓石の前に置いた。
「この服、可愛いね」
次に左手で握っていた花を置いた。そして私は悲しげに語りかけた。
「ごめんね、急いで届けにきたんだけど、枯れちゃった」
私は一度大きなため息をついて、続けて言った。
「あなたのお墓...なんだか虚しいね。何でだろう?」
理由は薄々気づいていた。
「そうだよね、名前がないから...」
そう言って私は立ち上がり、近くの石を拾い女の子の墓石に再び近づいた。
「だったら作ればいいんだよ」
私は墓石に手をかけ、拾った石で墓石を掘り始めた。五分もしないうちに、それは完成した。
「できた!あなたの名前は...アナ」
墓石には"Ana"という三文字がはっきりと刻み込まれていた。
すると、今まで感じたことがなかった風が勢い吹き、私を包みこんだ。さらに枯れていた花の生気は瞬く間に蘇り、元の鮮やかな白色に戻っていく。
そして私は、墓石に刻んだ文字から微かに光が放出されているのに気がついた。やがてその微かな光は大きな光輝に変わり空間を覆い、漆黒の空に光明をもたらした。
私はそれをただ座り込んで呆然と見ていた。
空を見上げる私の爛々と輝いた瞳には、散りばめられた光の粉の中で楽しそうに踊っているアナの姿があった。
私は言った。
「アナ、愛してるよ」
アナの顔にもう傷はなく、頭の上に光輪があるのが私にははっきりと見えた。
私たちは既に心で通じ合い、声を発せずとも相手の言っていることが聞き取れるようになっていた。
「ずっとこうして遊べたらなぁ」とアナが言ったのが伝わった。
私は「でも行かなきゃ、そうでしょ?」と心の中で言った。
私は確信していた。アナは分かってくれる。いい子だから、きっと分かってくれる。
私は続けた。
「約束する。私たちはまた会える。あなたはまた私の元に産まれるのよ。日が暮れるまで遊んで、泥まみれの服でご飯を食べて、そのままベッドで二人寄り添って寝るの。そしてお父さんに怒られて...。絶対にまた会える」
アナが応えた。
「本当?」
「嘘じゃない。あなた次第でいつでも生まれ変われるの」
「うん...じゃあどうすればいいの?」
「天国に行くのよ」
「どうやって?...分かった、あの階段をのぼればいいのね?」
私は見渡してみたが、階段らしきものは見当たらなかった。おそらくアナにしか見えていないのだろうと察して、言った。
「そうよ」
「綺麗な階段...」
アナは階段をのぼっているらしかった。
「また会おうね」とアナが言った。
悲しくなんてない。少し離れ離れになるだけだ。
アナの声が聞き取りづらくなっていくのに気がついて、私は急いで叫んだ。
「絶対に戻ってきてね」
「お腹空いたなぁ...ママのご飯、早く食べたいなぁ...」
これが私の聞いたアナの最後の言葉だった。辺りは閑散としている。虫の鳴き声すら聞こえないこの場所で、私は一人立ちすくんでいる。
悲しくもあり嬉しくもある。説明のできない感情が涙として溢れ出し、頬をつたう。
「愛してる...」
私のことをこんなに必要としてくれる存在があること、全然知らなかった。もし元いた世界に戻れたら、愛してる人に正直に自分の気持ちを伝えよう。私はそう決意を固め、来た道を帰った。




