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郵便局員の恋

背中の情景

作者: 亨珈

タグにあるとおり、失恋がテーマです。

苦手な方はご遠慮くださいますよう。

 熱気にあてられて目眩がしそうだった。

 旧市役所跡地、今は観光バスの駐車場として使われているアスファルトからは、燻されて立ち上る臭いすら目に見えそうで、雪子はうなじから袂に沿わせている手拭いでこめかみを伝う汗を拭った。

 薄く闇を滲ませ始めた空からは、太陽が姿を消しているというのに、この気温の高さには辟易する。

 まあ、おかげで緊張が溶けてきたのは良いことかもしれないと、雪子は結い上げた黒髪が落ちてきていないか、白い指先を首筋に這わせた。

 吐息しながら見回す駐車場は、職場ごとに揃いの浴衣を着付けた男女で溢れている。雪子も、白地に青で模様を入れた浴衣に、白足袋と赤い鼻緒の草履を突っかけて履いている。竹で出来た団扇と、手拭いも揃い。

 高校を卒業してそのまま郵便局に就職した雪子は、社会人になってまでこのような団体競技に参加するとはと驚いていた。

 国家公務員とはいえ、あなたの町の郵便局。地域に根ざしているとのアピールも多分に含まれているのかもしれない。

「いつまで経っても暑さが引かないね」

 手にした団扇で暖かい空気を撹拌しながら、隣に立つ先輩もうんざり顔だ。

「並ぶのは、長井さんの隣になるんですか」

「そうそう。背の高い順だから、最前列だよ。テレビカメラくるよ」

 雪子の問いに、先輩の長井は少し頬を緩めた。

 別に映りたいわけじゃないけれど、ケーブルテレビを視聴している親戚は喜ぶだろうなと、雪子も僅かに笑みこぼす。自宅では観る事は叶わないが、母親は元来テレビそのものを観ない。昔居た人が好きだったなと、記憶の片隅に畳に寝転ぶ後ろ姿が過ぎった。

 長井が大通りの方へと目を向けた。先ほどから鳴り続けている音楽のボリュームが上がったように感じる。

 でえれえこっちゃ、こりゃぼっけぇ。

 市民なら大半が知っているだろう曲を、雪子はつい先月初めて聴いた。

 うまく聞き取れないが、池田の殿様を称えるお囃子が小気味よく、市内生まれ市内育ちの雪子は初聴きで好きになった。

 地元の音頭とはまるで異なる、ついつい手足が動くと熟年の上司が口を揃えるのも納得した。

 練習は仕事の後だったから、あとは家での自主練習。忘れてはいないだろうか。繰り返しの振り付けだが、通りに出て人目に晒されれば頭が真っ白になりそうだ。

 雪子は頭の奥に空白が広がるのを感じながら、移動する列に合わせて足を進めた。

 デパートの職員たちのチームの次に、四列横隊で並ぶ。百七十近い長井が端で、数センチ低い雪子が隣だった。

 前のチームと少し間を空けての出発になるため、暫く足止めされるらしい。その間に、何かの取材や沿道にいる誰かの知り合いらしき人々が、盛んにシャッターを押す。テレビカメラも近付いてきた。

 暑さで忘れかけていた緊張と興奮が、汗すらも引かせていく。右手で団扇を握り直し人差し指を伸ばしてなるべく優雅に見えるように持つ。仕草の擬音が、しゃなり。そうなるように常に意識して一歩一歩足を出さねば。

 係の人が、合図をする。曲の途中からだ。感覚が狂う。

 それでも雪子は、ちらりと横目で隣とタイミングを測り、ひらりと手を上げた。

 どどんがどん。

 心の中で呟いて、手拍子。実際は団扇と合わせるから、音は立てない。両手を爪の先まできちんと伸ばしてから、角度を揃えて宙に閃く白い腕と手のひら。

 脇を開きすぎないようにと気を引き締めた。前進の次には後退、幼児の歩みより進まない踊りの列。

 いち、とん、に、とん、さん、とん、よん、とん。どどんがどん。

 沿道には、人々の頭上に紅白の提灯が揺れている。風はさほどない。まるで熱量に押されているかのようだ。

 いちにいさん、ちょんちょん。にいにいさん、ちょんちょん。

 いつもは踵が地面に着くから、それが常に浮いた状態に引っかけて爪先だけで歩くのは、それだけで普段と違う筋肉が疲労する。まして数十分踊り続けるとなれば。

 緊張がほどけて沿道の様子を視界に入れてしまい、その僅かな気の緩みに忘却という悪魔が舞い降りた。

 刹那、動きが止まり、顔が強ばる。

 今はどの部分だ。一瞬のうちに視線で隣を確認して合わせた。リズムに乗るまで十数秒を要したけれど、どうにか元通りついていくことが出来るようになる。

 いけないいけない。踊りに集中しなければ。


 最終地点の駅前交差点に辿り着いた時には、汗だくでふらふらになっていた。

 いくら足袋を履いていても、フリーサイズの踊り用草履は鼻緒がきつすぎて踵も出過ぎていて、変なところに重心が掛かるから下半身全体が重だるい。

 それでも、お疲れ様でしたと声を掛け合いながら三々五々に帰路に着くメンバーに同じく、着替えを置いてある建物へと足を向ける。

 アーケードを抜けた向こうに行くことになるから、殆どの人は同じ道を辿りながら、屋台にふらりと立ち寄っていく。

 雪子も帯に挟んだ小銭入れをそっと指先で確認すると、何か飲み物でもと左右を見回した。

「ゆきちゃん」

 呼ばれて、次の瞬間にはするりと尻を撫でられた。

 ひゃっと小さく肩を竦め、それから振り向くと、法被姿の田村航(わたる)が、屈託なく笑っている。

「ちょっ、田村さんセクハラですっ」

 くるりと身を翻して向き合って睨んでも何処吹く風だ。声を掛けると同時に手も出す。それが一つ先輩の田村の流儀だった。

 学生時代、接触の少ない交際経験しかない雪子は、職場の先輩ということもあり、どの程度拒絶すれば良いのか判断出来ずにいる。

「航~、お前なあ」

 苦笑しながら人込みを抜けて来たのは、こちらはシャツとジーンズ姿の中村智樹(ともき)だった。フレームレスの眼鏡のノーズ部分をくいと指で押し上げて、反対の手を雪子に伸ばした。

「おつかれ。差し入れだよ」

 透明なプラスチックのコップからは、甘い香が漂って来る。途端に跳ね上がる心臓の音を隠すように、雪子は両手でそれを受け取った。

「あ、ありがとうっ」

 細かく砕かれた氷入りの飲み物に口を付けると、白桃の爽やかな甘味が口いっぱいに広がり、一番好きなその味に目元まで綻ばせながら、雪子は大事に大事に半分ほど飲んだ。熟れた白桃と氷だけのシンプルな甘さが、疲れた体に心地良く沁み込んでいく。

「生き返った気分」

 ほうっと息をつきながら、改めて額と首元を拭った。

 思わず二人から離れようとしたのは、自分が相当汗臭いのではないかと思ってしまったからだ。

「ゆきちゃん、色っぽい。いいよね、お仕着せだろうがなんだろうが、浴衣姿ってさ。下着も着けなくていいのに」

 にこにこ笑いながら航は団扇で扇いでくれているが、その言っている内容はいただけない。

「田村さん……」

 もう指摘するのも馬鹿らしく、雪子は目を眇めて、通り道を避けて細い路地の入り口に身を寄せてから、ちびりちびりとジュースを飲んだ。同じようなことを、他の男性職員にも言われたから、愛想笑いで誤魔化しておく。

 言葉にはしなくとも、内容自体は智樹も同感であるらしく、小突きあいながら二人で笑っている。就職前からの友人だそうで、トモ、ワタルと呼び合う仲だ。雪子と同じく、高校で国家試験に受かり就職したクチだった。皆、進学校出身だから大学受験もしていて、それでも就職する方を選んだ。

 男同士のくだけた触れ合い方が、学生の頃から雪子には物珍しかった。だからついつい微笑みながらもじっくりと見詰めてしまう。

 研修所で仲良くなった同期なら数人いるが、いずれも他県におり度々は会えない。自転車で行き来できる二人が雪子は羨ましかった。

 地元の集配局で行われた研修で若手が集まったときに、同期の女性が、高校の先輩だと航を紹介してくれ、その時に智樹も一緒だった。

 研修の最初に一人ずつ前に立ち自己紹介をしたのだけれど、その時から智樹に惹かれていた雪子は、この素晴らしい幸運に息も止まりそうになった。

「ゆきちゃん、この後予定ある?」

 尋ねてきたのは航だった。

 ないけど、と首を傾げると、じゃあと二人ともにこりと微笑む。

「まだ時間早いし、ビア・ガーデン行こ」

 揃って指したのは、交差点の向こうにある駅ビルと繋がっているデパートの屋上。

 でも、と言葉を濁していると、なんでと航が詰め寄ってきてしまった。

 思わずその分後退さりながら、ううと唸る。

「汗掻いてて、ちょっと……」

 ごにょごにょと語尾が消えていく。雑踏の喧騒で聞こえなかったかと思ったら、俯いた雪子の両隣に二人が来ていて腕を掴まれてしまった。

 すん、と鼻を鳴らして屈んだ二人が至近距離。悲鳴も上がらないほどに驚いて、息が止まりそうだった。

「こんなの全然問題なし」

「寧ろこのまま舐めちゃいたい」

 流石のコンビネーションで智樹と航がにやりと口角を上げて、雪子は羞恥で顔から火が出そうだった。

 虚しく口をはくはくと開閉していると、行こうよ、行くよね、と催促なのか断定なのか、抗えない迫力で笑い掛けられ、ついに雪子は頷いてしまったのだった。


「私~両手に華、だよねえ」

 千鳥足の雪子を両サイドから支えながら歩く航と智樹は、ぷっと吹き出した。

「逆でしょ」

 腰に回した智樹の腕に力が入り、航が薄手のロングタイトスカートの上から尻を揉む。

 アルコールのせいで気が大きくなっている雪子は、うふふと笑いながら高いヒールのサンダルで広い歩道を歩いていた。尤も、支えてもらっているので振り払うことも出来ないのだけれど。

「二人ともエッチ~」

「男はみんなエッチですよー」

 ビア・ガーデンで、日本酒は苦手なのに航の一気に釣られてグラスで飲んでしまった。

 チューハイとちゃんぽんでかなり気分良く酔っ払っている雪子は、少し眠いくらいで自分は全然酔っていないと思っている。

 ビア・ガーデンは、シーズン真っ只中でしかも祭りの日ということもあり、知人も同僚も多かった。結局は団体でパーティーをしているような雰囲気になり、お腹も満たされたところで三人は近くのスナックで二次会をしようと抜けて来たのである。

 ビルではない独立した二階建ての店は、表から見るとシックな喫茶店のような佇まいだった。その入り口に近いボックス席に通されて、雪子はふかふかのソファーにぽすんと身を預けた。

 はっきりしない視界で、ママらしき熟年の女性がくすくすと笑っている。

「うんと薄めにした方がいいわね」

「うん、よろしく」

 どうやら航の行きつけらしく、プレートの掛かったボトルでウイスキーの水割りを作ってくれている。

 それを眺めながら、隣に腰を落ち着けた智樹にそうっと凭れかかった。

 酔っているから、いいよね。いや酔ってないけど。

 本人は心の中でそう言っていても、どう控え目に見てもやはり酔い衆だろう。

 それでも、そんな時でないと雪子は素直に男性に甘えることが出来ない性分だった。出来ないというより、甘え方を知らない。線の細い智樹は嫌がるかと思ったけれど、意外にも身じろぎ一つせずにまた腰に腕を回して雪子を抱き寄せて支えた。

 やっぱり、女の人とは違うんだ。体が。

 素面なら恥ずかしくてとても出来る事ではない。母親の毅然とした背中を見て育ってきた雪子は、早く一人前にならなくてはと、進学すら拒んでこの仕事を選んだ。

 考えていたのとは違う、営業色の濃い窓口業務は、幼い頃から周囲に合わせて『好ましく見える』ように気を遣って生きてきた雪子には水が合っているようだ。

 殆ど色のない水割りを飲みながら、二人の会話を耳にしているのに頭の中を素通りしていく。肩から胸まで雪子の頭が下がった頃、智樹が「そろそろ送っていくよ」と航に顎をしゃくった。

 徒歩でロータリーに戻るまでもなく、店を出るとすぐに流しのタクシーが捉まった。無意識に願望が出てしまったのか、智樹の首に腕を回して離れ難そうにしている雪子を、その頬に触れるだけのキスで宥めて雪子の家の近くのバス停名を告げて智樹は車から離れた。

「おやすみ。またね」

 ガラス越しに聞こえるその声に潤んだ瞳で見上げ、雪子は小さく手を振った。

 体の真ん中がきゅうっと苦しくて、今離れたくなくて。

 いつの間にか発進していたタクシー内から、遠ざかる智樹の姿をじっと見詰めていた。


 雪子たちの職場である郵便局には、部会という括りがある。例えば、雪子の属する東部会には六つの郵便局が属し、航は北部会、智樹は南部会と分かれていて、通常は花見や忘年会などの行事はこの部会ごとに行われていた。

 だから三人が顔を合わせる機会も、研修などがない限り、偶然はない。

 雪子は航の後輩である同期も通じてなんとか智樹と会える機会を作ろうとしたが、何故かその度に、航は同じトモキと言う名前の別の男性を連れてきた。

 別の用事があるみたいと言われ、そんなものかと頷いた。残念だったがあまりしょげた様子も見せられない。男に媚びる女になるなと、母に口を酸っぱくして聞かされて育ってきた。自動二輪の大型免許を取得するために教習所に通っているとは聞いていたから、忙しいのだろうなと勝手に解釈していた。普通免許は皆卒業と同時に取得する地方都市である。車も同時に親ローンかバイト代で購入する人が多く、県民ほぼ一人一台車を持っている。雪子は出足が遅れ、新規採用の訓練所から出てから本格的にと思っていたら、残業が多くて途中で権利が消滅してしまったのだ。土曜の午後も自動車学校があればいいのにと悔しく思ったが仕方がない。

 メンバーは少しずつ変わり、航とはテニスやボウリング、そして二人でドライブにも行くようになっていた。

 高校の頃も、部活動では後輩の男子に好かれていた。だからその延長と捉え、特に意識はしていなかった。航のことは、付き合いやすい人だという印象しかない。誰とでもそこそこに合わせられる雪子自身も、そう捉えられているだろうなと自覚していた。

 季節は変わり、制服が冬物になり、隣の市で大学の建物内で試験を受ける機会があり、そこで雪子は久し振りに智樹と再会することが出来た。

「どう? 免許は取れた?」

 試験開始前の空き時間に雪子が尋ねると、智樹は目を瞠って頷いた。

「ああ、お陰さまで。肝心のバイクは、資金貯めてる最中だけどね。でもそっか、もうそんなに会ってなかったっけ」

「うん。なんか忙しいみたいって航くんが」

「航が?」

 田村さんから航くんへと、雪子の呼び方は変わっていた。それは親しさの度合いを示すものだ。虚を突かれた表情をした智樹は、それからふっと切なそうに微笑んだ。

 何か失敗したと、雪子は直感した。しかしもう取り返しは付かない。

「あの、良かったら電話番号教えて欲しいんだけど」

 今までは誰かを介していた。それも悪かったのだと、雪子は意を決した。

 肩から掛けた鞄の中から手帳を出そうとして、やんわりと制される。とんとんと指先で自分の腕時計を叩いて、智樹は苦笑した。

「ごめん、もう入らないと。良かったら一緒に帰ろう。車で来てるから、送って行くよ」

 雪子が車を持っていないことを知っている智樹に、雪子は紅潮してこくこくと頷いた。

 家から自転車で十五分。改札からこの大学までは徒歩三十分。アクセスの悪い地域の人は、最初から車で来る方を選ぶ。電車の駅に自転車を置いているが、日を改めて取りに行けばいい。

 大丈夫、まだここからでも挽回出来る。

 まだ、智樹くんには手が届く。母親の陰で泣いていた、あの頃とは違う――。

 不安と期待と、半々の想いを胸に抱えたまま、試験に臨んだのだった。


 会場では会わなかったというのに、二人並んで階段を下りている時に、航と出くわしてしまった。

 そのまま三人で昼ご飯をということになり、智樹の運転でチェーンのイタリアンの店に向かった。

 お前は後ろ、と追い払われた航は、それでも引っ切り無しに乗り出すように二人に話し掛けてくるから、はっきり言ってプライベートな会話など不可能だった。

 航のことは嫌いではない。適度に話を振ってくれて、茶化すことはあっても深追いしない。空気を読んで、笑わせてくれる。会話がなくても心地良い空気を作ってもくれる。

 だから、二人きりでのドライブでも臆すことなく付き合うことが出来た。

 けれど、と雪子はちらりと隣の智樹を盗み見る。

 薄い唇をキュッと結び、革のハンドルカバーを付けたステアリングを操作して、すうっと黒いスポーツカーは街中を流れるように移動して行く。同じメーカーの別クーペに乗っている航は、ステアリングもシフトもウッドにしているから、こんなところも好みが出るんだなあと、雪子は静かに観察していた。

 同期の男性たちも殆どが国産クーペに乗っている。連休などには乗り合わせてドライブに行くから、それなりに車に詳しくなってしまった。

 雪子は、身嗜み以上のお洒落よりも、相手の趣味に共感する方に重きを置く性格だった。その為広く知識と経験が増えるのが本人も楽しく、自分の話をいつでも熱心に聴いてくれる女性は珍しいのか、雪子は色々な年代の男性に好かれた。

 ジーンズの航とは逆に、智樹はネクタイこそ締めていないものの、スーツ姿だった。

 車とのアンバランスさすら格好良くて、うっとりと見惚れてしまう。しかし、肝心の智樹は、航からの話に相槌を打つ程度で、どうも機嫌が悪いようだった。

 どうしようもなく、ただ雪子はそんな二人の会話とも言えない会話に耳を傾けていることしか出来なかった。


 食事の後、これから用事があるという智樹に合わせて帰宅することになった。

 店内ではそれなりに会話も出来たが、以前より何処かぎこちなく感じたのは雪子の気のせいだろうか。会えない期間に、心の中にも距離が出来てしまった気がして、いつかのように胸が痛んだ。

 電話番号を聞いていないと思い出したのは、もう我が家が目の前で、別に航に気兼ねする必要などない筈なのに、雪子は口に出せなかった。

 助手席に移動したいと言う航も一旦車から降りて、雪子はますますそれ以上智樹に話し掛けることが出来なくなってしまった。

 泣きそうな雪子と運転席の智樹の視線が絡み、苦笑しながら手を振られたら、もう手を振り返すことしか出来ない。

 バッグの持ち手をぎゅっと握り締めて、いつかとは逆に、走り去る車を見送ることになってしまった。

 ほんの少しだけ、もう少しだけ勇気を出せば良かった。航はただの先輩で、遊び仲間で、ただそれだけなのに。

 もっと智樹のことを知りたい。もっと話したい。けれど、それを航は良く思わないだろう。これからも交流のある筈の人と気まずくなりたくはなかった。

 その葛藤が、雪子の唇を縫い付けてしまう。

 何を臆することがあるのかと自分を叱咤しても、もう遅かった。


 それから暫くして、雪子の異動が決まった。内示前の段階では、同じ局に居る同期の男性に来ていた話だったのだが、その時に雪子に打診が来たのだ。

 正直言って首を傾げるしかなかった。実は雪子は別の部会から異動してきたばかりで、本来そのような話が来る筈はないからである。

 応接セットに浅く腰掛けた豊かな白髪の局長は、太い眉を下げて申し訳無さそうにしている。件の男性職員が、異動先の局は忙しすぎるから嫌だと言い張るのだという。

 呆れ返るとはこのことだった。

 いくら社会人一年生とはいえ、共に一ヵ月半寝食を共にして研修を受けた同期である。そのような自分勝手を口にするだけでおかしいことくらい判るだろうと、ただ驚いた。

 今所属しているこの局も、繁忙局ではある。ただ、そのペースは決まっており、一日中忙しいわけではなく凪の時間も訪れる。最初からここにいるその男性は、雪子と違いその体制に依存しきっていて、まだ離れたくないらしい。

 待たせるでもなく、雪子は快諾した。

 後から、雪子の倍以上も体の幅があるその男性は、首に巻いたタオルで汗を拭き拭き「ごめん」と一言だけ伝えてきた。「別に」と応えたとき、本当に怒りはなかった。

 思えば、中国五県の新規採用者が一堂に会する研修所でも同じクラスで、その時から我侭ぶりが鼻についていた。ここに異動になっても、落胆する程度に雪子は彼のことが苦手だった。同期なのにどうして同じ職場にするのかと、人事に心の中で文句をつけたくらいだ。通常、数人の職場で同期は一緒にならない。

 それもあって、寧ろ清々しい気分で突然の異動を受け入れたのだった。

 移動先は北部会だった。そう、航と同じ部会。そうして、この年度末から、雪子と航の接点はますます増えることになったのである。

 忘年会、新年会。年度が変わり、花見。

 夜に職員全員でドンちゃん騒ぎの後には、上司について臨時のキャバクラ嬢を勤める。

 その後、もう一度若者だけで飲み直すこともあった。航は、若い女性の殆どに愛想良く接する。それでも、それを勘違いするような女性も居ないのだろう。誰か一人と定めるでもなく遊ぶのが楽しいのだろうと捉え、雪子も深夜のドライブに付き合うこともあった。

 可愛いとか綺麗だとか、そんな褒め言葉すら航には挨拶代わりに言われていたから、冗談半分に好きだと言うこともあった。だが、第三者からすら、それが本気の言葉には取られていないということは承知していたし、自分たちは恋人ではないと思っていた。

「結構胸おっきいよね」

 堂々と、爽やかに笑いながら後ろから揉まれて、ビリヤード台に突っ伏しそうになったこともあった。勿論しこたま手の甲を抓り上げてやったけれど、悪びれた様子もない。

 人目も憚らず、でも全然いやらしくない。少し女性的な繊細な容姿の航は、その姿に反してやることはエロ親父のようである。

 この年度の新規採用の女性陣は、本当に初々しい子達ばかりで、そんな航に引き気味だった。

 はいはい、と適当にさらりと流す雪子を見て、ああそうすればいいんですね、と真剣な顔で頷かれたりもした。

 そうやって過ぎて行く季節の中で、それでも智樹のことがふと、何かの拍子に思い出され、胸が絞られるような痛みを感じた。

 現在の職場は、取り扱い件数だけでも近隣局から一桁は上を行くずば抜け具合である。しかし、職員はパートから局長代理に至るまで素晴らしくプロフェッショナルな仕事をする。応対の仕方、端末機の処理、そして的確な取り扱い。今までに受けたことのない仕事も多く、雪子にとっても毎日が勉強だ。それなのに、締めの作業も素早いから滅多なことでは残業にならない。人数が多いのもあるが、皆それぞれの分担を心得ており、無駄が一切なかった。

 今までより自由時間が増え、雪子は一つ下の世代とも交流するようになった。

 その中に、少し気になる男性も居た。今までは窓口勤務しか付き合いがなかったのだが、一つ下のその世代に官舎住まいが多く、そこで配達の方面とも関わりを持つようになったのである。官舎は雪子の職場からも近く、配達員は終業時刻も早い。時間が合うから、平日にボウリングかカラオケに行く機会が増えた。遊びとはいえ、雪子のアベレージは百五十ほどだ。本気でゲームが出来ると、仲間内で褒められて嬉しかった。

 週末に彼ら彼女らの集う場で、共に仕事や趣味の話をする。休日に一緒にスポーツをする。そんな時でも、ふと過ぎる、智樹の繊細な横顔。とりわけ、智樹も休日よく行くと聞いた河川敷のコートを目にする度、今どうしているだろうかとテニスウェア姿を思い浮かべた。

 日に日に胸の中で蘇り大きくなるその存在に、ついに雪子は青い電話帳を捲り、大体知っている住所と名字を当てに、片っ端から電話を掛ける作戦を決行した。


「水上と申しますが、そちらに智樹さんはいらっしゃいますか」

 何度同じ言葉を言っただろうと思う。電話線という細いケーブル一本で繋がった先の動揺も不審感も伝わって来て、精神的に疲弊する。けれど、ようやく相手から「あら、ちょっと今出てましてね」と返答を得て、プラスチックの受話器を握る手に汗が滲んだ。

「あの、私職場でお世話になっている者なのですが、後程掛け直させて頂いてもよろしいですか。何時頃お帰りでしょうか」

 滑らないように慎重に受話器を持ち直す。通話口の向こうでは、何やら小さく声がしていて「ちょっと待ってね」とことりと音がした。

『もしもし』

 どんな言葉も聞き漏らすまいと澄ませていた耳に、懐かしい声が届いた。

「あの、突然ごめんなさい。お久し振りです」

 電話口ということもあり少し畏まったままの雪子に、智樹は怪訝そうだった。

『どちらさま?』

 あらいやだ、郵便局の方よー水上さんって、と後ろで先程の母親らしき声がする。みずかみ、と呟いた智樹の声がやはり心当たりのない様子で、まさか別人なのかと雪子は焦った。

「智樹、さん。でいいんですよね? あの、雪子です」

『ああ、ゆきちゃん』

 ようやく空気が緩み、ほっと息を吐いた。長袖のシャツを引っ張り、袖口で受話器を拭いながらまた持ち直す。

 土曜日の午後。不在でおかしくないが、きちんと食事時を外してから掛け始めたため、そろそろ十三時半がこようとしていた。

『番号、航に訊いたとか?』

「ううん、実はその、電話帳片っ端から」

 別れたときのまま、少し困ったような声色だった。それが、雪子の返答に一瞬息をつめ、それから軽やかに笑った。

『なにそれ。まさかゆきちゃんがそこまでするなんてさ』

「だって」

 会いたかったのだ。声が聴きたかったのだ。それを言葉には出来ずに、ただ握る手に力を込めて、雪子は俯いた。

「だって、私……」

 けれど、その後に続ける言葉も知らなかった。衝動のままに電話を掛け、今ようやく本人を捜し当てたというのに、そこから先が思い付かない。

 学生の頃からすれば、社会人になってからの交友範囲は一気に広がった。他県の男友達ともしょっちゅう遊ぶ。けれどそれは全て多人数で、だった。車内で二人きりになったとしても、職種が同じだから話すことはいくらでもある。それに何より、友人は皆趣味に力を入れていて、適度な相槌があればいくらでも向こうから話を続けてくれるのだ。

 自分が、こんなに情けない女だとは思っていなかった。なんなんだろうと、恥ずかしさでますます言葉が出てこない。

 かちりと音がして、煙草に火を点けた気配がした。ふうーと細く吐き出す微かな音に耳を澄ませ、雪子はそっと目を閉じた。

 喫煙者であることは知っていたが、一緒の時間には近くで吸わなかった。勿論車内でも。だから、灰皿の近くで航と談笑しながら吸っている姿を少し離れた場所から何気なく眺めるだけだった。

 音、気配、呼吸のタイミング。

 全て聞き逃すまい。耳に神経を集中させると、本当に隣に居るかのようで。

『煙草、切らしてて。買いに行ってたんだ』

「そっか。良かった、家に居てくれて」

 うっすらと滲む涙を瞬きで振り払う。

「時間、大丈夫? 出掛ける予定は、その」

『あー、うん。あるようなないような。取り敢えず少し喋るくらいの時間はあるけど』

 何の用、と冷たく言われなかっただけでも幸せで、雪子の口元は綻んだ。

 現金なもので、そこからは近況報告など、それなりに話すことも出来て、あっという間に気付けば一時間が過ぎていた。全て他愛ない世間話で、恋愛風味など欠片もなく、それでも夢のような時間だった。

「あ、長々とお邪魔してごめんね。そろそろ……」

 そこまで言って、高揚していた気分が水を掛けられたかのようにじっとりと沈んで行く。

『会おうか、今度』

 突然の申し出に、項垂れていた頭がぴょこんと持ち上がり背筋が伸びた。話の途中で座り込んで壁に凭れていた背中を真っ直ぐにして「是非っ」と声を弾ませて智樹を笑わせてしまった。


 電話だとそれなりに続いた会話が、面と向かうと出来なくなるのはどうしてだろうと、小さなテーブルで正面に腰掛けている智樹を見ながら思う。

 隣の市で、午前から高校の頃の友人たちとショッピングを楽しんでいた雪子は、夕方に時間が空いたという智樹と待ち合わせて、駅地下の喫茶で珈琲を飲みながら話していた。

 今日も、智樹はネクタイは締めないで、第一ボタンを外したままのシャツにジャケットを羽織っている。

 とんとん、と智樹の指先がテーブルを叩き、少し顎を引いて薄く笑いながら雪子を見つめた。

「手」

「て?」

 カップの中に少し残したままソーサーに戻し、雪子は智樹が叩いた側の手を開いて、テーブルから少し浮かせて差し出した。

 上向けたその白い手に、節くれだった長い指が絡み、そのままテーブルに降りた。

 航なら「またまたあ」と振り解くところだが、かあっと頬を染めて雪子ははふはふと息を乱した。

 そっと絡めたまま僅かに動くその仕草だけで、こそばゆいような得体の知れない何かがじんと頭を痺れさせた。

「と、ともきくん……」

 ん? と首を傾げてくすりと笑まれ、引くに引けずにそのまま手を任せた。

 三人で居た時は、航がするからか、智樹も堂々と触れてきた。だからその行為は、三人の間では当たり前でお決まりのことで。

 だけど智樹は、大勢で居ても平気で抱きついてくる航とは違う。隣を歩いていても、腕をそっと巻き込むように抱くとふわりと笑うが、自分からは手を繋ぐことすら促してこなかった。

 この手をどうしたらいいのか、この行動の意味を図りかね、それでもただただ嬉しくて、早鐘のような心臓の音を押し殺すように、反対の手で胸を押さえた。

 電話の後、智樹と二人きりで会う機会は何度もあった。そのいずれもが短時間で、何かしら別件で出掛けている智樹に合わせて、こうして隣の市の駅から徒歩圏内で話をすることが多かった。

 二人になると、航が居る時のように話は弾まない。それでも雪子は全く苦痛ではなく、ただ寄り添って川沿いを散策したり、公園でベンチに腰掛けて何か飲んでいるだけで満たされた。

 誘ってくれるということは、智樹も同じなのだと思っていた。

 その曖昧な関係に、名前も付けられず。雪子にとって、これは生まれて初めての感情だったから余計に自分では判断できないままにときだけが過ぎて行く。

 いつしか、季節は巡り、三度目の夏になろうとしていた。

 


 一年目二年目と踊りに参加した雪子は、この年の当番は免除された。現在属している局は、一年ごとに半分ずつの局員が参加するというシステムにしているからだった。

 初めて外側から客観的に見ることが出来るというのもあり、今年は自前の浴衣で祭りに行こうと雪子は楽しみにしていた。

 智樹を誘おうかとも考えていた。

 しかし、こういうイベントに一対一で誘うのならば、今度こそけじめを付けねばならないだろうということも自覚していた。

 集配局の管轄が異なるため、南部会はこの祭りには参加していない。別の週にある祭りに、別の踊りで参加するが、こちらのように強制ではないらしく、智樹は参加したことがないという。

 これはこれで達成感とか一体感が得られて楽しいのにと、勿体無く思ったものだ。

 その頃、部会の若者の人間関係は、少し複雑なものになっていた。

 集配局の男性陣を含めた男女、それも雪子を巡る恋愛模様がぎすぎすしてきて、もう今までのように皆で仲良く集団で遊ぶことが難しくなっていたのだ。

 特に雪子が何かをしたわけではない。寧ろ何もしなかったことで、変わってしまったものもあった。

 異性からのアプローチを、感謝でしか受け取らずに色恋沙汰には持ち込まなかった。

 それは、一般的に悪いことではないと思われる。仕事と恋愛を絡ませることに慎重で、臆病なほどに気を配った結果が、本人の意図する方向とは違う方に転がっていた。全員が気を悪くしないようにと節度を持って、でも親しげに。そして清楚でたおやかな容姿の雪子は、大抵の男性が「ちょっといっとこうか」と思うに足る存在だった。

 似たような感情ならば雪子にもある。

 智樹と会えない時期に知り合った一つ年下の世代に好かれた雪子だが、絶対に恋愛関係にはなれないが仲間として遊ぶなら良い人、という括りの人と、何かきっかけがあれば恋愛に発展してもいいな、という括りの人がいた。その中に含まれる人と誕生日を過ごしたこともある。けれどその人には片想い相手がいることは告げていた。そして、別の人には花束のプレゼントももらったが、そちらは別の女性と懇ろになったらしい。

 ここまで来たら、本心を隠すまい。もしも駄目になっても、自宅の場所が離れている智樹とは、今後も職場が被る可能性は低い。 

 そして、もしも――旨くいったとして。

 智樹は、航以外に直接の知り合いが被らないから、からかわれることもなく、ただ「ああ、あの人が彼氏」と、事実だけを受け入れてもらえるだろう。そう、楽観視もしていた。

 言葉では二人とも確たることは告げていない。けれど、絡む視線が、近い場所の吐息の熱が。

 それぞれに特別な感情を抱いている相手であることを伝えていた。

 だから。


 祭りの前夜だった。

 定時に終わった職場から、そのまま電車に乗り雪子はいつもの川沿いの公園へと足を運んだ。

 出張でこちらに出て来ているという智樹は、県庁方面から流れるスーツの群れの中から、淡く微笑んで軽く手を挙げた。

 残照を避け何処かの店に入るかと思っていたら、そのまま葡萄棚の下のベンチに誘われた。

 水面を渡る風が背中から緩やかに吹きつけてきて、なかなか心地良く、これもいいかと雪子は目を細めた。

「智樹くん、いつもより疲れてる?」

 夏物の上着を脱いで雪子の腰掛ける反対側の背凭れにぱさりと掛け、智樹はネクタイのノットに指を掛けて緩めた。

「ああ、毎日暑いところへ普段使わない知識詰め込んでるからかな」

「お疲れ様」

 雪子も、普段仕事には履いて行かないヒールのパンプスを履いていた。会うことが決まっていた智樹に合わせて、白いシャツとスリットの入った膝上丈のタイトスカートを身に着けている。

 すぐ近くで路上ライブが始まったらしく、一本隣の道沿いの店舗で麦酒を手にした人々が、公園の遊歩道を抜けて行く。

 普段なら飲み物を買おうかと声を掛け合うのに、何故だか二人とも、そのまま仕事のことをぽつりぽつりと語りながら、暮れて行く街景色と行き交う人々を眺めていた。

 梅雨も明けて、夏本番が始まる時節だった。

 日暮れも遅く、まして県庁所在地の市街地ともなれば、本当の意味での夜など訪れはしない。

 緊張に耐え切れず、ちらちらと雪子は智樹を窺った。

 足を組み遊歩道の向こうの潅木辺りに向けられている眼差しは何かに耐えているかのように苦しそうで。

 本当に今日言い出して良いものなのか、ずっとタイミングを計りかねていた。

「智樹くん」

 それでも。祭りはもう明日に迫っていて、これを逃すと何かが劇的に変わってしまうような予感がしていた。

 呼び掛けに応じて向けられた瞳が揺れていた。

 少し下がり気味の、切れ長の眼。その手前にある薄いプラスチック。細い眉がぴくりと何かに反応し、それが何か解らなくても、雪子はもう止まることを拒んだ。

「智樹くん、初めて会った時から、ずっと好きでした。ずっと心の中で一番に想ってたの。だけど、はっきり言葉に出来なくて……」

 細まる語尾が喧騒に溶けていった。

 もうその台詞などとうの昔に知っていたかのように静かに受け止め、それから智樹は微笑んだ。

 いつかのような、困ったような。そして、今にも泣きそうな。

 ああ、この表情を知っている。あれは、あのひとはそう――。

 その瞬間、雪子も悟った。

 決心も何もかも、もう、全てが……既に。

「掴めない子だなと、思ってたんだ。航の牽制もあったし、最初の頃は、それでもふざけ半分でどっちになびくかなんて言い合ったりしてさ。

 だけど、もうとっくにあいつと付き合ってるって思ってた。あいつと君は似てる。気があるような素振りが本気かどうかも解らなくて、ずっと戸惑ってた」

 くしゃりと前髪を掴んで、智樹の顔が隠れた。

 え、と言葉に詰まり、雪子は瞬きすら忘れて、届く言葉を胸の内で噛み締めていた。

「最初からなら、もっと早くにちゃんと言ってくれたら、不安があっても俺だってもっと君に心を向けたかった。

 だけど……それが真実かどうかなんて判らない。それでも、航からは君のこと、恋人みたいな口ぶりで話を聞かされて。それなのに電話なんてしてくるから、期待させられて、でもその後もあいつと二人きりで遊んでただろ」

 雪子には解らない。どうして二人きりで遊んでは駄目なのか。航とは何もない。気持ちは勿論、冗談半分でほんの少し触れられる程度で。

 困惑は、言葉にはならなかった。

「駄目なんだよ、もう待てなかった。

 もう随分前に、教習所で知り合った子に告白されて、付き合ってる。

 今の俺たちなんて、ただ職種が一緒で、その話も出来るってだけの友人でしかない。だから彼女にもちゃんと知らせて、それで少しずつ時間を作ってきた。少しは嫉妬するって素直に言ってくれる彼女だから、ちゃんとこれからも大切にしたいんだ」

 手を下ろして、真っ直ぐに雪子を射抜くその両目からは、ただ悲しみしか読み取れない。

「恋愛なら、ゆきちゃんとしたかった。

 俺も、自分からちゃんと言えば良かった。だからゆきちゃんのせいにはしない。ただ、もう会えない。連絡もしないで欲しい」

 返す言葉など、見つからなかった。

 探しても、頭の中には見当たらず、胸の内にも持ち合わせておらず。

 ただ呆然と智樹の言葉を全身で聴いて咀嚼して浸透させて、なにかがすとんと落ち着いてしまった。

 遅かったのは、言葉だったのだ。態度で示したつもりが、それは雪子の独りよがりで、いつものように万人にそれとなく好かれようとするその延長だと取られてしまったのだ。

 ――泣いちゃダメよ。行かせてあげて。

 耳元に吹き付ける、過去からの声。

 ――ゆっこはもう大きいんだから、我慢できるわよね――

 伸ばそうとした手は、指先だけしか動かなかった。

 何度も振り返りながらも、我が家から出て行って二度と戻らなかった人の面影が脳裏を過ぎり、瞬きすら忘れた。

 それを見送った人の手が細かく震えていたことを、今ようやく思い出した。毅然と端然と。一人で立てるから私は大丈夫。そう言い聞かせていたのは、自分自身にだったのだと。

 ごめんねとささやかな声が、煉瓦敷きの足元に落ちていく。

 上着を手に取り、静かに間合いを詰めた智樹が、ほんの少しだけ触れてから立ち上がった。

 どうして今になってと、雪子は指先で唇を押さえた。

 細かく震える場所に、一瞬だけ接触していったもの。それが、智樹が雪子に寄せていた想いの証だったのだろう。


 遠ざかる背中は、もう振り向かなかった。

 泣きじゃくる幼い雪子の手をぎゅっと握り微動だにしなかった母の手は――きっと今の雪子のように、もう取り返しが付かない過去に縋り付くまいと必死で耐えていたのではないか。

 ぼんやりと追っていた視線が目標を失い、ぶれてぼやけて何も像を写さなくなる。

 そうして初めて、堪えきれない嗚咽が漏れた。

 いつの間にか横からに変わっていた風が、ほんの僅かにその温度を低くしていたのにも気付かずに。


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[良い点] 「電話だとそれなりに続いた会話が、面と向かうと出来なくなるのはどうしてだろう」のフレーズが、ぐっときました。
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