突然のお引っ越し、お引越し先は魔物のお腹の中!?
異世界転生物流会社の地下秘密ガレージにて、白石こころは自分専用の十トントラックの前に立ち尽くし、その整った美貌に言い知れぬ困惑と衝撃を浮かべていた。
目の前にある元は漆黒の、一見すると何の変哲もない箱型大型トラック。外観は一般人の目には大して変わっていないように見えるが、少し近づくだけで、微弱ながらも極めて霊妙な生命の鼓動が伝わってくる。
さらに常軌を逸しているのは、現代の工業技術の常識を完全に無視して激変してしまった内部構造だった。
運転席周りのレイアウトは大まかに維持されているものの、細部にはなぜか至れり尽くせりの細やかな設計が施されていた——助手席の台座部分は常に適温の冷気を放つコンパクトなミニ冷蔵庫へと改造され、ダッシュボードの下部には各種規格に対応した電源コンセントが幾つも生えていたのだ。
そして何より目を疑ったのは、運転席の真後ろにある荷台を遮っていた鉄壁に、繊細な彫刻が施された木製の小さな扉がひっそりと出現していたことだった。
こころが半信半疑で手を伸ばしてその扉を開けると、本来ならロケットブースターや軽油パイプ、頑丈な鉄骨で埋め尽くされているはずの広大な荷台スペースは跡形もなく消え去り、代わりに信じられないほど生活機能が完備された、温もりある少女趣味全開の夢のようなベッドルームが広がっていた。
柔らかなピンクと白のストライプ柄シーツが敷かれた大きなベッド、女優ライト付きミラーを備えた上品な木製ドレッサー、果ては独立した小さなクローゼットやコンパクトな乾湿分離のユニットバスまで完璧に揃っている。
空間にはふんわりと淡い桜の香りすら漂っており、深淵の魔物が放つべき凶悪さや血生臭さなど微塵も感じられなかった。
「……これ、一体どういうことなの……?」
こころはこめかみを押さえ、そのガラス細工のような琥珀色の瞳を困惑で揺らした。
彼女は以前、社内の危険物図鑑でトラックに擬態した凶悪な魔物の写真を見たことがあった。
どれもこれも禍々しい紫黒の地獄の業火を噴き上げ、フロントグリルを裂いて牙の生えた血盆の大口を開けていたはずだ。
どうして自分が手に入れた、魔王直々の祝福を受けたはずの深淵魔物は、まるで五つ星クラスの豪華キャンピングカーのような珍妙な姿に変異してしまったのだろうか。
「あら~、完全にあなたに媚びを売ってるわね、こころちゃん」
傍らから、大人の色香を帯びたアンニュイな女性の声が響いた。
見れば、三毛猫の頭部を持ち、仕立ての良いスタイリッシュなパンツスーツを着こなした女性上司が腕を組み、優雅なキャットウォークで歩み寄ってきたところだった。
ふわふわとした猫耳をピクピクと揺らしながら、感心した様子でその信じがたい車内空間を眺めている。
このこころが入社初日に騙されて連れてこられた時からメンターを務めてくれている先輩上司の名はレベッカ。
そして彼女の隣で、ヨレヨレのワイシャツを着て犬耳を掻きむしりながら渋面を作っている柴犬ヘッドの課長が岡田だ。
正社員登用が決まった後、こころは社内の裏の噂話でこの会社の恐ろしい黒歴史を耳にしていた——ここにいる動物の頭部を持つ異形の幹部たちは、元は全員が生身の人間社員だったのだ!
長期間にわたってノルマを達成できなかったり、現場での引導業務中に取り返しのつかない次元規模の大失態をやらかしたりした結果、会社の根底にある因果律の呪いに侵食され、あのような半人半獣の姿に変えられてしまったらしい。
そもそも、この世界には太古の昔から超常的な神秘や魔法が実在していたのだが、近代科学と理性の発展に伴い、大半の人間が信じなくなっただけに過ぎない。
信じられていないからといって、存在しないわけではないのだ。
彼ら動物ヘッドの管理職たちは、会社の結界を一歩出て人間社会へと足を踏み入れれば、一時的に普通の人間としての姿を取り戻すことができる。
しかし、社外に長居することは絶対に許されない——制限時間を超過すれば体内の契約呪縛が発動し、想像を絶する激痛の中で悶絶死を遂げることになる。
このブラック企業で法定定年まで勤め上げない限り、呪いを解いて真の自由を勝ち取る術はないのだ。
そこまで思い至り、こころは背筋にツッと冷たいものが走るのを覚えた。
彼女は今年でまだ二十代前半だ。日本の法定定年である六十五歳を迎えるまでには、あと四十数年という気の遠くなるような人質生活が待っている!
つまり、自分がトラックでの跳ね飛ばし業務で少しでもミスをやらかし、ノルマを落とすようなことがあれば、目の前のレベッカ上司や岡田課長こそが自分の未来の無惨な姿なのだ。
「とにかく、上の重役たちからもこの魔物トラックをあなたの個人所有物として認める正式な許可が下りたわ」
レベッカはしなやかに尻尾を揺らし、安堵と隠しきれない懸念の入り混じった声音で告げた。
「何しろ今月のあなたは一人でチーム全体の半年分のノルマを叩き出したんですもの。会社がこの廃車寸前の改造車を特別ボーナスとしてあなたに譲渡すること自体は何の問題もないわ……でも問題なのは、これが完全に自我を持った契約魔物だってことなのよね」
レベッカの懸念は、隣で岡田課長が頭を抱えて唸っている理由そのものだった。
端的に言えば、宿主の魂と深くリンクした契約型の魔物は、主人の感情と物理的距離に極めて強い依存を示す。
彼らは大気中から自力で魔力を吸収することができず、常に主人の傍に寄り添い、魂の共鳴によって放たれる微量な魔素を糧として生きているのだ。
もし長期間にわたって主人に放置されたりガレージに置き去りにされたりすれば、魔力枯渇による極度の飢餓感から正気を失い、最終的には暴走して市街地で大惨事を引き起こしてしまう。
つまり——この大型トラックの魔物がこれほど必死に頭を絞り、設備完璧な乙女の部屋へと自らを改造した理由は、純粋な生存本能から「頼むからここに住んでくれ!」とこころに泣きついているに他ならなかった。
「……ということは、今のアパートを引き払って、この『生きてる』車のお腹の中で暮らせってことですか!?」
こころの整った顔立ちが一瞬にして引きつり、拒絶の恐怖が露わになった。
峠道で一晩中転生者を追い回して疲れ果て、運転席で数時間仮眠を取るくらいなら、社畜の意地として割り切ることもできた。
しかし当時のトラックは、どこまでいっても無機質な鉄の塊であり、背中のコンテナに詰まっていたのは命のないロケット加速ブースターだけだったのだ。
それが今やどうだ。軽油を飲む代わりに彼女の魔力を吸い上げ、それどころか心拍と体温まで宿した正体不明の未知の魔物になってしまった。
家庭に見捨てられ、孤独の中で育ってきた若い女の子に、いつ暴走するかも分からない怪物の体内で毎晩眠れというのか? いくらなんでも無茶振りが過ぎる!
だが……。
「……待てよ?」
こころは抗議の声をピタリと止め、その琥珀色の瞳の奥に、抜け目のない打算の光を宿らせた。
彼女が借りているあの古びて手狭で、防音性も最悪で雨漏りすらする単身向けアパートは、毎月の家賃に光熱費や共益費を合わせれば、数万円という決して安くない血汗の結晶を呑み込んでいく。
もし本当にあのアパートを解約して、光熱費ゼロ、最高級シモンズ製マットレスと独立バスルーム完備、冬場は魔力による自動調温ヒーターまで備わったこの専用「魔導キャンピングカー」に引っ越してしまえば……。
毎月浮いたその大金を丸々貯金に回せて、夢にまで見た経済的自由と老後資金の確保へ一気に大前進できるのではないだろうか?!
こころは手首に刻まれた淡い光を放つウロボロスの刻印を見つめ、次いで目の前で気配を必死に殺し、まるで機嫌を取る大型犬のようにサイドミラーを健気にパタパタと揺らしている大型トラックを見上げた。彼女の心の天秤が、猛烈な勢いで傾いていく。
——魔物の腹の中で暮らすのは確かに気味が悪い。
——でも、家賃がタダになる誘惑には絶対に抗えない……!
家賃ゼロと五つ星ルームの抗いがたい甘美な誘惑に背中を押され、こころは大きく息を吸い込むと、まずは今のアパートの退去手続きを進めることをその場で即決した。
思えば、あのトラックのハンドルを握らされた瞬間から、自分が真っ当な一般人の生活に戻れないことくらい、とっくに受け入れるべきだったのだ。
こころが「深淵キャンピングカー」を受け入れる覚悟を決めたのを見て、傍らの二人の上司はようやく肩の荷が下りたように深く息を吐き出した。
レベッカがヒールを鳴らして歩み寄り、岡田も柴犬の頭を揺らしながら近づくと、二人の人外の先輩はそろって手を伸ばし、同情といたわりの色を込めてこころの華奢な肩をポンポンと優しく叩いた。
何しろ「仕事で人を撥ねたら神級の魔物が懐いてきた」などという前代未聞の労災は、会社の膨大な歴史記録の中でも前例がない。
それどころか、昨夜こころがバンパーの飾りの如くミンチにしたあの魔王は、多元宇宙の危険度ランクにおいて背筋が凍るほど規格外の存在だったのだ——
数多の異世界から集った最強の転生勇者たちが束になって挑んでも傷一つつけられず、降り立った世界を片っ端から焦土に変えてきた、長年にわたり本部の監査リストで最も危険視されていた漆黒の特級ターゲットだったのだから。
昨夜こころがロケット頭突きで相手を行動不能に追い込んだ後、会社の技術部がドライブレコーダーの映像を徹夜で解析して初めて驚愕の真実が判明した。
あの傲慢無礼を極めた魔王は、最高位の終末禁呪を詠唱する際、天地のすべてのエーテルを掌握するために、本来なら絶対不可侵であるはずの外層概念装甲を自ら解除し、一般人の肉体と大差ない無防備な真の姿を晒してしまうという致命的な仕様があったのだ!
誰が予想できただろうか。彼が全神経を集中させ、世界を滅ぼそうとしたまさにその運命の1秒に、定時退社に命を懸けて時速五百キロで爆走してきた情緒不安定な美少女ドライバーに背後からノーブレーキで追突されるなどと。
そんな絶望的な運動エネルギーの直撃を受けながら、辛うじて息を繋ぎ止めて五体満足(?)のまま深淵へ逃げ帰ったのだから、むしろあの魔王の生命力こそが多元宇宙の医学的奇跡と呼ぶべきだった。
しかしそれだけに、二人の上司の胸中は複雑だった。万界の頂点に君臨する至高の魔王が自らの魂を削って授けた契約獣。
そんな天地を滅ぼしかねない生きた化け物を、生活費を切り詰めて生きている目の前の二十代前半の小娘が本当に手懐けられるのだろうか、と。
「よし、俺が車を出して引っ越しの手伝いに行ってやるよ。レベッカ、お前も来い——女の子の下着類なんかを男の俺が触るわけにはいかないからな」
岡田課長はもふもふの犬耳を掻きながら、今は出たとこ勝負で行くしかないと腹を括っていた。
こころの入社以来見せている命知らずな働きぶりは、すでに彼ら二人の絶大な信頼と愛着を勝ち取っている。
こころが無事にエースとして走り続け、ノルマを肩代わりしてくれさえすれば、中間管理職である彼らが上層部から受ける懲罰や電撃のプレッシャーも大幅に軽減されるのだ。
「そうね、天気が崩れないうちにパパッと片付けちゃいましょう」
レベッカはスーツの襟元を優雅に正し、すっと人差し指を立てて真剣な面持ちで釘を刺した。
「でもこころちゃん、私たちの呪いには厳しい制限があるの。会社の結界を一歩出たら、社外での滞在時間は絶対に六時間を超えちゃいけないわ。タイムリミットを過ぎたら手伝えないどころか、あなたを置いて即座に撤収しなきゃならないから、手際よく進めましょ」
「はい! ありがとうございます、レベッカ先輩、岡田課長!」
こころは感謝を込めて力強く頷いた。
実のところ、荷造りという作業自体、今となっては思っていたほど大掛かりなものにはならなさそうだった。
三人が再び車内に戻って確認してみると、この魔物トラックの「過保護なホスピタリティ」は極まっていた——寝室の奥には、微量な魔力による乾燥・除菌機能を備えた高級ドラム式洗濯乾燥機まで勝手に生成されていたのだ。これなら、アパートにある重たい物干し竿や洗面器、雑多な消耗品などは一切持ち込む必要がなかった。
そして何よりレベッカの視線を釘付けにして離さなかったのは、助手席の足元と後部コンテナの空間が繋がっている、あの控えめな二連の小型冷蔵庫だった。
先ほどの簡単な動作検証の際、レベッカはそこに仕込まれた因果律を冒涜するような驚異の機能を発見して息を呑んでいた。
なんとこのミニ冷蔵庫の中に完全な状態の食品を一つ放り込むだけで、トラックの魔物がこころから発せられる微量の魔素を糧とし、瞬く間に「無から有を生み出し」、寸分違わぬ味と香りを備えた全く同じ食品を完全に複製してしまうのだ!
「……ちょっと、こころちゃん。正直に言いなさい、これを使って外で食品の卸売ビジネスを始めちゃダメかしら!? まさに元手ゼロでぼろ儲けの印刷機じゃないの!」
レベッカは冷蔵庫の前に張り付き、その美しい猫目をらんらんと輝かせて電卓を弾き始めた。
「レベッカ、寝言は寝て言え。コンプライアンス部に闇商売がバレたら、俺たち全員降格されて異次元トイレ掃除係行きだぞ」
岡田がすかさず容赦のない冷水を浴びせる。
「うぅ……それもそうね……」
こころは無限の美食複製機能を備えたミニ冷蔵庫を見つめ、ため息をつきながら、心の中で潰え去った「水産物問屋のセレブ社長の夢」に深い哀悼を捧げた。
だが、見方を変えれば——スーパーで見切り品の高級本マグロの大トロを一パック買ってくるだけで、この魔法の冷蔵庫のおかげで、毎晩のように大トロ食べ放題パーティーが開催できるということではないか?!
「そういえば……どうしてこの魔物トラックには、こんな『無から有を生み出す』なんてデタラメな能力が備わっているんですか? もしかして、あのボコボコにした魔王自身の能力と関係があるんでしょうか?」
ここでようやく、こころはその根本的な疑問を思い出した。
昨夜のあの怒涛の次元追撃戦を思い返してみても、空間の裂け目を突き破って異世界へ突入した彼女の頭には、インパネのレーダーに点滅する次のターゲットの座標と、締め切り間近のノルマのカウントダウンしかなかった。
道中はアクセルを踏み抜いてゲートへ向かって全速力で爆走していただけで、途中でどんな宮殿を薙ぎ払い、どんな魔法陣を踏み潰したかなど見向きもしなかったのだ——
つまり、自分が十トントラックで粉砕骨折に追い込んだあの哀れな魔王がどれほど恐ろしい存在で、かの世界でどれほど絶大な権力を握っていたのか、彼女はこれっぽっちも知らなかった。
「あら、知らなかったの?」
レベッカは優雅に手で猫頭の毛並みを整えながら、まるで今日の特売のキャットフードの話でもするかのように、とんでもない爆弾発言を事も無げに投下した。
「あの方、ただの魔王なんかじゃないわよ。正確に言えば、元々はあの世界の『創造神』だったお方なの。何億年もの間、人間の底なしの強欲と醜悪さを見せつけられ、自らの被造物に絶望しきった末に、自ら身を落として終末の魔王になったのよ。だから単なる深淵の覇王というより、神々のヒエラルキーにおいて最初から最後まで頂点に君臨していた唯一絶対の造物主様なのよ」
「…………はあぁぁっ?!」
銀河の果てまで吹っ飛ぶような衝撃の事実に、こころの透き通る琥珀色の瞳は極限まで見開かれ、顎が外れて床に落ちそうになった。
創造神?!
あのホームセンターで買ってきた安物のビニールロープでぐるぐる巻きにされ、ベランダで物干し竿代わりに惨たらしく吊るされ、二本の角にレースのブラと苺柄パンツを一枚ずつ掛けられていたあの重傷骨折の不審者が……正真正銘の至高の創造神だったというのか?!
自分は定時で退勤したいがためだけに、多元宇宙でどれほど尊い至高の神祇を物理的に瀕死の重傷へ追いやってしまったのだ?!
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
こころは助手席の足元で低く唸りを上げ、神聖かつ妖しい微光を放っているミニ冷蔵庫を指差し、極度の動揺で声を震わせた。
「ということは……あの創造神様はご自身の核心である『万物創造の神権』を……全部このトラックに注ぎ込んで、それがこの車によって『マグロの刺身無限複製機能』という名の保冷庫として使われてるってことですか?!」
「どうやらそういうことらしいな」
岡田課長も呆れ果てたように柴犬の耳を掻き、深々とため息をついた。
「だが、それならこのトラックが一瞬で車内空間を再構築し、熱力学の法則を無視して物質を無から生み出せる理由も説明がつく。こころちゃん、お前が今手に入れたその『深淵キャンピングカー』……真面目な話、下手をすれば神を殺し世界を滅ぼすレベルの因果律の神器かもしれないぞ」
こころは自分の手首で妖しく瞬くウロボロスの刻印を見つめ、次いで目の前でサイドミラーを健気にパタパタと揺らし、中はピンクの乙女家具で満載された大型トラックを見上げ、地下ガレージの冷たい空気の中で完全に石化した。
——自分はただ、毎月少しでも貯金を増やして、たまの刺身を自分へのご褒美にして生きていきたいだけのしがない社畜美少女なのに。
——創造神の神権をキャンピングカーの家電電源代わりに使って、このトラックで公道を走ったら、地球の物理法則が根底からめちゃくちゃに崩壊したりしないだろうか……?!




