逃れ得ぬ未来の死局、骨肉相食む血の結末。
真夏の夜風には、いつの時代も特有の爛漫とした風情が溶け込んでいる。
生温かい空気の奥底に微かに混ざり合う草木の青い匂いは、まるで過ぎ去りし青春の極彩色をキャンバスの上へ惜しげもなく塗り重ねていくかのようだ。
澄み渡る静寂と喧騒が同居するこの夜の帳は、鮮烈な花火を打ち上げ、広大な星空を仰ぎ見るには何よりも相応しい季節であった。
「成仏号」のキャビンでは、運転席側の窓ガラスが半分ほど滑らかに降ろされていた。
アスファルトの余熱を帯びた夜風が吹き込み、白石こころの額にかかる柔らかな前髪を優しく揺らす。
その心地よい摩擦は、日常の業務で張り詰めていた彼女の神経を、久しぶりに芯から解きほぐしていくようだった。
しかし、その澄み渡りながらも冷ややかな琥珀色の双眸は、決して油断に沈んではいなかった。
彼女の視線は無造作を装いながら、幅広のバックミラーへと幾度となく投げかけられ、後方の車列の中にぴったりと張り付いている一台の黒いセダンを、冷徹に観察し続けていた。
流れる光の帯が極彩色を描く阪神高速を疾走しながら、白石こころは直感的に察知していた——ここ最近、自分が明らかに何者かの尾行を受けているという事実に。
だが、それはあまりにも不可解で、奇妙な話だった。
この人間社会において、彼女の名誉、肉親の情愛、社会的な存在感、そして築き上げてきた人間関係のすべては、とっくの昔に骨の髄まで綺麗さっぱり剥奪されていたはずなのだ。
今の彼女は、すれ違う者の網膜にすらその相貌を焼き付けることのできない、「顔のぼやけた透明人間」に過ぎない。
常人の社会通念において、これほどの手間と人員を割いてまで、彼女のような亡霊を執拗に追い回す者が一体どこにいるというのか。
まさか——あの一之瀬萌乃という女が、いまだ飽き足らず、自分の魂にわずかに残された薄氷のような幸運や運命力に目をつけ、再び強奪しようと企んでいるのだろうか。
白石こころは鼻腔の奥で小さく冷笑を漏らし、すぐにその推論を頭の隅へと追いやった。
あの過剰なまでの自己愛に満ちた令嬢の性分からすれば、自分を追い詰める際にはいつだって、あの吐き気を催すほど甘ったるい声で直接命令の電話を寄越してくるはずだ。
ましてや、因果の簒奪に伴う「揺り戻し」の恐るべき法則を完全に掌握した今の白石こころにとって、萌乃が無知ゆえに己の運命を貪り食おうとすることなど、もはや痛くも痒くもなかった。
毒の林檎を胃袋に詰め込めば詰め込むほど、いずれ利息を上乗せして血反吐とともに吐き出すことになるのは、他ならぬ萌乃自身なのだから。
ならば、背後に張り付いている追跡者は、人間などではないのかもしれない。
かつて自分が容赦なく異世界へと撥ね飛ばし、どうにかしてこの現世へと不法入国を果たし、舞い戻ってきた「密航者」の類だろうか。
転生業務に対する習熟度が跳ね上がるにつれ、現在の白石こころが社内で任される職務は、もはや「現世の人間を事故に見せかけて異世界へ送り出す」といった新米向けの初歩的な案件だけに留まらなくなっていた。
彼女の元には、より危険度と秘匿性の高い特殊任務が次々と舞い込むようになっていた——例えば、こちらの次元へ不正に転移し、現世の秩序を乱す異世界の怪異たちを、トラックの衝撃波をもって無理やり「強制送還」させるという荒事である。
その対象は、浅ましい繁殖欲に塗れた下等ゴブリンや、腐敗を撒き散らすリビングデッド、優雅でありながら血に飢えた吸血鬼の貴族だけに留まらない。
極端な事例に至っては、神話の深淵からこの世の境界を侵犯してきた高位の魔神すらも、彼女の突撃リストにその名を連ねていた。
これらの異界の怪異が現世に姿を現せば、往々にして常人の理解を超えた都市伝説や未確認生物騒動の火種となる。
山間部で突如として目撃される雪男やビッグフット、あるいは家畜を襲い尽くす吸血UMA「チュパカブラ」といった怪奇現象の裏には、十中八九、転生部門の網の目を掻い潜った密航者の蠢きが存在していた。
そして最も厄介なのは、悪しき魔神が偽りの神託を下し、人知れず狂信的なカルト教団を組織してしまうケースだった。
そうした際の現世側の不文律は、極めて簡潔にして暴力的だ。
社会的影響が看過できないレベルに達した場合、転生部門から下される指示はただ一つ——白石こころが駆る鋼鉄の重ダンプの質量兵器をもって、彼らを元の世界へ叩き返すこと。
そして、物理的な衝突すら通用しない真の規格外の怪物が現れた時にのみ、戦闘部門に所属する歴戦の猛者たちが直接その首を刈り取るために現場へと介入する。
白石こころはかつて、その戦闘部門の先輩たちが繰り広げた粛清の現場を、遠巻きに目撃したことがあった。
風に翻るコートを身に纏った超越者たちが、雷鳴轟く夜空を自在に翔け抜け、極大魔導の華々しい炸裂、聖なる誓約が宿る破邪の一撃、空間そのものを切り刻む古流剣技の真空刃、そして背筋を凍らせる深淵の呪詛が複雑に交錯し、夜の帳を極彩色の光幕で染め上げていた。
大空を鳥のように自由に舞い、掌の一振りで天変地異を引き起こすあの圧倒的な力に対し、白石こころもまた、魂の底から微かな羨望を抱いたことは否定できない。
だが悲しいかな、彼女自身には神々に愛されるような魔法の才能も、天を衝く武術の天賦も備わっていなかった。結局のところ、肩をすくめて現実を受け入れ、分不相応な夢想を綺麗さっぱり打ち捨てるしかなかったのだ。
だが——魔法が使えないからといって、彼女が無力で脆弱な弱者であることと同義ではない。
バックミラーに映る、じわじわと車間を詰めてくる追跡車両のヘッドライトを見据えながら、白石こころの澄み切った琥珀色の瞳の奥底に、妖しくも幽玄な薄紫色の光彩が静かに灯った。
キィィン——。
彼女の主観世界において、周囲を狂乱のうちに飛び去っていたテールランプの残光や街並みの景観が、突如として泥濘に足を取られたかのように粘度を増し、減速していった。
大阪の夜を貫く高架道路の上で、走行する全車両のタイヤが刻む摩擦痕、目に見えぬ気流の乱れ、さらには前走車がコンマ一秒後に行うであろうステアリングの転舵予測に至るまで、すべての運動エネルギーが虚空に浮かび上がる幾何学的な光の軌跡として完全に可視化された。
「絶対軌跡」、そして「魔女時間」。
それこそが、白石こころという個体だけに発現した固有の「領域」であった。
この知覚能力の適用範囲は、決して重たいステアリングを握り締めている時だけに限定されるものではない。
以前、あの温厚そうな柴犬の頭部を持つ岡田課長と道場で竹刀を交えた際、白石こころはこの「絶対軌跡」によって、相手が繰り出す無数の致命的な踏み込みの太刀筋を完全に看破し、極限まで引き延ばされた「魔女時間」の中で、流れるような身のこなしによる完全回避と急所への鋭利な反撃を寸分の狂いもなく成立させてみせたのだ。
だが、残酷な現実は常に彼女を嘲笑う——彼女の絶対的な肺活量と筋力、すなわちフィジカルの基礎値が、あまりにも貧弱すぎた。
その上、普段は昼行灯を決め込んでいるあの柴犬の大叔父が秘めている異能は、常軌を逸して厄介だった。
岡田の嗅覚は、対峙する相手の感情が発散する「殺意の匂い」そのものを大気越しに直接嗅ぎ取ってしまう。
たとえ白石こころが時間を凍結させた狭間の中でどれほど完璧なカウンターを放とうとも、岡田はその殺意の気配を察知し、神仏の加護を受けたかのように首を傾げて紙一重で回避してしまうのだ。
結局のところ、数合も撃ち合わぬうちに白石こころの心肺機能は限界を迎え、滝のような汗を流して道場の床に倒れ伏し、無様に白旗を上げる羽目になるのが常であった。
所謂「領域」と呼ばれる力は、後天的な研鑽によって習得される魔導や聖なる祈り、あるいは至高の剣理とは根底から一線を画している。
それは魂の根源に深く刻み込まれた先天的権能であり、凡俗の平民であっても奇跡的な確率で発現し得るものだ。
実戦の極限状態で精神を研ぎ澄ましさえすれば、領域の精度と知覚範囲は幾何級数的に拡張されていく。
だが、この個人の特異な領域だけに頼って、生まれ落ちた瞬間から神々に愛撫され、無限の神性を授けられた勇者や聖女、あるいは破壊の法皇たちと正面から殴り合おうなどというのは、それこそ正気の沙汰ではない。
自分が領域を持っているならば、怪異たちの纏う神の領域は、より強大で、理不尽に世界を塗り潰してくるのだから。
ならば、本末を転倒させてどうする。
分相応に、愚直にステアリングを握り続け、魂のすべてを四つの車輪と十トンの鋼鉄へと注ぎ込むことこそが、彼女にとって最も美しく、最も確実な生存戦略なのだ。
「——そっちのリズム、完全に捉えたわ」
白石こころの唇の端に、獲物を追い詰めた獣のような冷徹な嘲笑が浮かんだ。幽紫色の光彩が支配する領域知覚の中で、彼女は成仏号の武骨なハンドルを、まるで絹糸を手繰るかのように滑らかに操作した。
漆黒の鯨を思わせる巨大な車体が、夜の海を優雅に泳ぐ亡霊の如く、前方を並走する二台の乗用車のミラー死角が交差する瞬間をミリ秒単位で見極める。
ミリ単位の極限のライン取りによって、十トンもの巨躯を二台の視覚から完全に隠蔽された間隙へと滑り込ませ、車体同士のクリアランス僅か数十センチという紙一重の距離で、閃光のように掠め抜けてみせた。
常軌を逸した連続スラロームと、後続車のエアフローを完全に寸断する空力トラップの連打。それは、後ろから執拗に追尾を試みていたセダンを、瞬く間に逃げ場のない混乱へと叩き落とした。
追跡車両を操る運転手には、この剃刀の刃の上でワルツを踊るような狂気のステアリングワークに対応できるだけの技量が決定的に欠落していた。
成仏号が意図的に発生させた連鎖的な視界の死角と乱流の壁に圧殺され、セダンの走行ラインは無残なまでに乱れ狂った。
激しいスキール音が闇を切り裂き、黒い車体は泥酔したかのように左右へ激しくテールを振り、スピン寸前の姿勢で路肩へと滑り出しながら、遥か後方の車列へと無様に置き去りにされていった。
完全に障害を排除し、目前に広がる臨海ルートの直線道路に遮るものが何一つないことを確認した刹那、白石こころの瞳の光が鋭く研ぎ澄まされた。
華奢な右足に躊躇なく体重を乗せ、成仏号のアクセルペダルを床板の限界まで踏み抜く!
ゴォォォッ——!!
シャシーの奥底に眠る重厚なツインターボディーゼルが、獲物を屠る猛獣の如き凶暴な咆哮を轟かせた。
成仏号は夜の静寂を両断する一筋の黒い雷光と化し、メーターパネルの針を一瞬にしてレッドゾーンの彼方へと叩き込む。
巻き起こされた狂乱の爆風は、後方に蠢く追跡者の微かな意図すらも、一片の情けもなく粉々に引き裂いてみせた。
バックミラーの中で極小の黒い点へと縮み、やがて地平線の闇の底へと完全に融解していった追跡者を見届け、白石こころは小さく顎を上げ、その瞳の端に隠しきれない得意げな光を灯した。
白刃を手に正面から斬り合うとすれば、社内で機械を背負って記憶を貪っているあのバク頭の清掃員にすら勝てないかもしれない。
だが、ひとたびステアリングを握り締めたハイウェイの殺戮戦において言えば——。
異世界転生派遣部門のエースドライバーという看板は、決して小手先の幸運だけで掲げている飾り物などではないのだから!
漆黒の重トラックが物理法則をあざ笑うような超絶的な速度で夜の帳を切り裂き、水平線の彼方へと完全に姿を消したその光景を前に、改造セダンの車内にいた黒スーツの護衛二人は、額からとめどない脂汗を流していた。ステアリングを握るその指先は、先ほどの急激なスリップの恐怖によって、今なお小刻みに震え続けている。
助手席の男は喉を鳴らし、浅い息を吸い込むと、震える指で白石絢香の直通番号へと発信した。
「……お嬢様、大変申し訳ございません。我々の不手際により……二小姐を見失いました」
スピーカーの向こう側は、死に絶えたような沈黙に包まれた。数秒の空白の後、白石絢香の、凪いだ水面のように平坦でありながら底知れぬ嵐を孕んだ声音が、静かに鼓膜を震わせた。
「プロのラリー選手権の過酷な実戦訓練を積んだ貴方たちが……たった一台の大型貨物トラックすら捕まえられないと?」
スマートフォンを握る白石絢香の瞳に、激しい動揺と信じがたい屈辱が渦巻いていた。
万全を期すため、外見こそ平凡極まりない民生用の黒塗りセダンに偽装していたものの、そのシャシー、サスペンション、ツインターボエンジンからトランスミッションに至るすべての内部構造は、白石家が擁する専属のレーシングチームがWRC(世界ラリー選手権)の最高峰レギュレーションに基づいて極限まで組み上げた怪物マシンだったはずだ。
そしてハンドルを握る護衛もまた、巨額の報酬をもって迎え入れた元プロのレーシングドライバーなのだ。
それほどの装備と技術を揃えておきながら、直線でもコーナーでも、あの鈍重であるはずの物流トラックに手玉に取られ、テールランプの光すら見失うほどの差をつけられて完敗したというのか。
白石絢香は冷たい視線を上げ、通話の内容をすべて聞き届け、顔色を土気色に変えている白石宗一郎を見つめた。
ひと月余り前、白石花が和室で精神を崩壊させ、あの非人の怪異であるバク頭の清掃員による襲撃未遂事件が発生して以来、この兄姉は白石家が密かに掌握する裏の諜報網を総動員し、夜昼の別なく白石こころの足取りを狂ったように追い続けてきた。
重篤な「認識干渉」のせいで、白石こころ本人の容貌や現在地を物理的に特定することは困難を極めたが、深淵の巨獣の如く公道を横行するあの漆黒の大型トラックの存在感だけは、各所の防犯カメラや目撃情報においてあまりにも際立っていた。
しかし、この一ヶ月余りの間に積み上げられた調査結果は、猛毒を塗った無数の鉄槌となって、この誇り高き兄姉の理性と精神を容赦なく打ち砕いていった——。
寄せ集められた断片的な目撃情報によれば、あの黒い怪物は常軌を逸したアングルで寂れた山道や高架道路、さらには深夜の市街地を疾走し、その巨躯で「轢き殺し、粉砕した」人数の累計は、すでに優に百人を超えているというのだ。
撥ね飛ばされた標的たちは、路面に肉片の欠片すら残すことなく、濛々と立ち込めるタイヤの白煙と耳を劈く咆哮の中で、虚空へと無理やり轢き潰され、塵一つ残さず消滅していた。
白石絢香はここ数週間、まともな睡眠を取ることができず、その涼やかな目元には濃い隈が刻まれていた。
彼らの認識において、真実はあまりにも無慈悲で、骨が凍るほどに残酷だった——白石こころがあのような血生臭い、人の道を踏み外した「殺し屋」の凶行に身をやつしているのは、他ならぬ自分たち家族によって寒空の下へと放逐され、飢えと凍えの極限の中で命を繋ぐパンの一片を購うため、人外の科学力を操る暗黒の組織に自らの魂と肉体を売り渡してしまったからに他ならないのだと。
自分たちだ。家族の絆を騙り、冷酷に見下してきた自分たちの愚行こそが、幼い頃は道端のアリを踏み潰すことすら怯えて泣いていたあの妹を、両手を血で染め抜いた冷酷な処刑人へと変貌させてしまったのだ。
関西方屈の名門財閥、白石家の次女が、裏社会の吹き溜まりで人間を車で轢殺してはその日暮らしの米代を稼いでいる。
この窒息しそうなほどの自責の念は、絢香の精神を幾度となく発狂の淵へと追い詰めていた。それは単に良心が地獄の業火に焼かれ続けているからだけではない。
もしこの恐るべき事実が白日の下に晒されれば、白石家が直面するのは世間からの指弾などという生温いものではなく、家名そのものの完全な破滅なのだから。
「私たちは……一体どうすればいいんだ……」
白石宗一郎は両手で顔を覆い、乱れた黒髪に指を食い込ませ、関節を白く軋ませていた。
財閥の総力を挙げて物理的に道路を封鎖し、妹を力ずくで強奪する作戦など、幾通りもシミュレーションした。しかし、白石こころの挙動はあまりにも神出鬼没の幽霊そのものだった——直接触れ合う機会を失えば、彼女の姿形も気配も、他者の脳内から綺麗さっぱり消去されてしまうのだから。
不意に、重厚な書斎の空気が凍りついた。
宗一郎と絢香は吸い寄せられるように、固く閉ざされた書斎の扉の外へと、同時に視線を向けた。
この一ヶ月間、歪んだ家族の先入観を捨て去り、狂気に呑まれた記憶を冷徹に精査し続けた結果、この極めて優秀な頭脳を持つ兄姉は、戦慄すべきある「規則性」の存在を突き止めていたのだ。
すなわち——自分たちが密室の中で、白石こころの悲惨な境遇を思い、胸を引き裂かれるような罪悪感と悔恨に苛まれ、何としてでも償おうと決意を固めるたびに、あの儚げで可憐な養女——一之瀬萌乃と顔を合わせ、言葉を交わした瞬間、脳の深奥に奇怪な鈍痛が走るのだ。
そして次の瞬間には、白石こころへ向けられていたはずの溢れんばかりの贖罪と愛惜の情が、恐るべき精神の改竄を受け、「萌乃はなんて健気で可哀想な子なのだ、あの子にもっと愛情と財産を注がねばならない」という、盲目的な庇護欲へとすり替えられてしまうのである。
背筋を氷の刃で撫でられたような寒気が、二人の骨を同時に貫いた。
自分たちは……一体いつから、この精神の罠に嵌められていたというのか。
振り返れば、白石こころが一段ずつ名誉を剥奪され、家族全員から蛇蝎の如く忌み嫌われていくのと反比例するように、一之瀬萌乃は完璧な被害者の仮面を被って白石家の懐へと滑り込み、つい最近に至っては正式な法的手続きを経て、白石家の莫大な遺産を相続する正規の後継者としての権利すら手中に収めていたのだ。
これが単なる偶然であるはずがない。超自然的な認識干渉を悪用し、白石こころを骨の髄まで喰らい尽くし、白石家のすべてを乗っ取るために仕組まれた、冷酷極まりない悪魔の謀略だったのだ。
だが、二人を何よりも絶望の淵へと叩き落としたのは、いまなお冷厳たる現実だった。
現在の白石夫妻——彼らの実の両親の脳髄は、いまだこの悪意に満ちた「認識干渉」の分厚い呪縛に固く囚われたままであるということ。
両親の濁った瞳において、一之瀬萌乃は依然として慈しむべき純白の天使であり、白石こころは口にするのも汚らわしい家の恥さらしのままなのだ。
「決して、あの女に勘づかれてはならないわ……」
絢香は声を極限まで押し殺し、その双眸の奥に凍てつく殺意の燐光を宿らせながら、紫檀のデスクの天板に爪を深く食い込ませた。
「お父様もお母様も、今は完全に萌乃の言いなりよ。私たちがこの忌まわしい認識の呪縛を完全に解き放ち、こころをこの手に奪還するための絶対的な術を手に入れるまでは……絶対に、藪を突いて蛇を出してはならない」
豪奢を極めた名門の深奥と、ネオン蠢く夜のハイウェイ。二つの世界で同時に張り巡らされた見えざる暗戦の火蓋が、いま静かに、そして決定的に切って落とされた。
白石絢香の長く豊かな睫毛が小さく震え、やがて、極めて緩慢な動作でその両の瞼が閉じられた。
視界が完全な暗黒へと沈み堕ちた刹那、彼女の脳梁の深奥に座す思考中枢が、幾何級数的な超加速をもって凄まじい駆動音を響かせた。
幽藍の冷光を放つ無数の複雑怪奇な軌跡が、決壊した天の川の如く奔流となり、彼女の意識の海を狂乱のうちに交錯し、織り成されていく。それは彼女が幼少の頃から自覚し、されどただの一度として他者に明かしたことのない、神の領域に属する戦慄の天賦であった——精神を極限の極致まで収束させさえすれば、彼女の大脳は人知を超えた量子演算の祭壇へと変貌し、周囲に漂うあらゆる既知の事実、そして未だ知り得ぬ断片的な情報群を、光速の領域で分析、解体、そして再構築してみせるのだ。
自らが直接目にしたことのない変数や、濃密な運命の霧の向こう側に隠匿された因果律の鎖すらも、その超絶的な論理ネットワークの網の目によって強制的に補完され、虚無の彼方から、未来において分岐し得る無数の結末のタペストリーを完璧に編み上げていく。
これこそが、白石絢香という女が、武芸、金融資本、果ては巨大財閥の権謀術数に至るまで、触れたすべての領域において瞬く間に頂点へと君臨し得た絶対の秘奥義であった。
彼女はこの直感めいた未来演算の力を用いることで、世界の最先端技術や産業構造の地殻変動を数年も先んじて正確無比に予見し、冷徹に特許を買い叩き、未だ世に出ていない原石の天才たちを根こそぎ囲い込んできたのだ。
これこそが、白石絢香の魂に刻まれた固有領域——「未来演算」。
だが、凡俗の豪門が定めた常識の檻の中で育った彼女は、これが異世界転生会社の社員たちが口にする「固有領域」と呼ばれる人外の権能であることなど知る由もなかった。
物心ついた時から現在に至るまで、彼女はこれを、生まれつき他者より少しばかり頭の回転が速いだけの、優れた脳の才能程度にしか認識していなかったのだ。
しかし——今回の演算が導き出した光景は、過去に彼女が潜り抜けてきた如何なる過酷な企業買収や権力闘争のそれとも、決定的に異質であった。
虚空を満たしていた幾億もの蒼い光軌が、凄まじい音を立てて次々と崩落し、砕け散っていく。
無限に分岐するはずであった未来の可能性が、抗いようのない暴虐な運命の巨手によって無理やり束ねられ、決して回避することの叶わない、一本の鮮血に塗れた直線へと強制収束させられていく!
その演算結果の最奥、九割以上の確率で現実を侵食せんと確定付けられたその灰暗い未来図において——世界は、叩きつけるような豪雨と、天地を裂く紫電に呑み込まれていた。
網膜を焼き焦がす狂乱のハイビームが漆黒の夜の帳を切り裂き、深淵の巨獣が目を覚ましたかのような耳を劈く排気音とともに、禍々しい殺気を纏った十トンの漆黒の重トラックが、空間そのものを圧殺する超質量をもって正面から突進してくる。
金属性の断末魔と、人体がミンチへと成り果てる生々しい破砕音のただ中で、彼女と、その隣に立つ白石宗一郎は、悲鳴の一片を上げることすら許されず、その脆弱な肉体を巨大なタイヤの溝へと無残に巻き込まれ、激しく噴流する鮮血の濁流の中へと轢き潰されていく——!
キィィィィン——ッ!!
まるで脳天に数万本の灼熱の鋼針を突き立てられたかのような激痛と、魂の髄を凍りつかせる致死量の恐怖が、白石絢香の瞳を強制的に見開かせた!
冷汗が一瞬にして肌に張り付くシルクのブラウスをぐっしょりと濡らし、あの気高く冷艶を極めた白磁の如き美貌から、生気という生気が一片残らず消滅していた。
暴力的な動悸と全身の筋肉の痙攣が彼女からすべての運動機能を奪い去り、膝の力が完全に抜けた。
「ドサリ」と無様な音を立てて、これまで誰に対しても膝を屈することのなかった名門の長女が、氷のように冷え切った畳の上へと無残に崩れ落ちた。
「姉さん?!」
かつて如何なる修羅場にあっても眉一つ動かさず、暗殺者の喉笛すら躊躇なく切り裂いてみせたあの完璧な姉が、今まさに呼吸すら覚束ぬほどに崩壊している姿を目の当たりにし、宗一郎の心臓は激しく鷲掴みにされ、完全に平静を失った。
彼は震える指先で、床にへたり込む彼女の肩を抱き起こそうと駆け寄った。
宗一郎は、誰よりも理解していたのだ。この姉が持つ、神の託宣にも等しい超常的な直感と未来予見の恐ろしさを。
白石絢香という女が、立っていることすら叶わぬほどに怯え、精神を焼き切られるほどの演算結果——それが意味する現実は、ただ一つしかない。
彼女は視てしまったのだ。如何なる足掻きも、策謀も、一切の抵抗すら許されぬ、惨劇の未来を。
「ヒッ……ゴホッ……はぁっ……はぁっ……!」
白石絢香は激しく上下する自らの胸元を爪が食い込むほどに掻き毟り、酸欠の金魚のように激しく喘ぎながら、胃液の苦味を喉の奥に感じていた。
焦点の定まらない瞳孔を乱雑に震わせ、あの黒い鉄塊にミンチへと轢き潰された血塗れの悪夢の残滓から、消え入りそうな掠れ声をようやく絞り出した。
「こころ……」
その声はかすれ、震え、耐え難い不条理と絶望に満ちていた。
「……こころが……私たちを……殺すのよ。」
あまりにも短く、あまりにも簡潔な宣告が、墓場のように静まり返った書斎の空気に落ちた。
しかし、その僅か数文字が孕んでいた絶望の質量は、万斤の鉄槌となって、白石宗一郎の張り詰めていた最後の防壁を、跡形もなく粉々に打ち砕いた。
誤解を解く余地などない。対話による和解も、遅すぎた贖罪が届く隙間すら存在しない。
かつて自分たちの手によって奈落の底へと蹴落とされ、いまや暗黒の魔窟で絶対の復讐者へと変貌を遂げたあの妹の双眸において——かつて傲慢の限りを尽くしたこの兄と姉は、あの呪われたトラックの巨大な車輪の下で、二片の肉塊となって轢き潰される結末しか、残されていないのだ。




