第5話 扉一枚のディナー
「……顔色が悪いわね」
私は空中に浮かぶ寝室で、投影板を見つめながら呟いた。
映っているのは、執務室のジークフリート様だ。
目の下には濃い隈。
頬はこけ、書類に向かうペン先が震えている。
副団長ガレスの裏切りが発覚してから二日。
彼は、狂ったように働いていた。
信頼していた右腕を失った穴を埋めるため。
そして何より、余計なことを考える時間を自分に与えないために。
『報告書は以上か。……よし、次は南壁の補修計画だ』
独り言のような指示。
誰もいない部屋で、彼は自分自身を追い詰めている。
見ていられない。
このままでは、敵が来る前に彼が壊れてしまう。
「……強制執行ね」
私は決意した。
引きこもりの私が、他人の生活リズムに口を出すなんておこがましいけれど。
これは「領主の健康管理」という立派な業務だ。
私は通信板を起動し、執務室への直通回線を開いた。
「旦那様」
『っ!? アリアか。すまない、気づかなかった』
画面の中の彼が、慌てて背筋を伸ばす。
その動作だけで、彼がどれほど張り詰めているかが分かる。
「今夜の予定を、全て破棄してください」
『な……何を言っている。まだ未決裁の書類が山ほど』
「命令です。……いえ、お願いです」
私は声を和らげる。
「貴方と、食事がしたいんです」
『食事?』
「はい。結婚してから一度も、まともに二人で食べていないでしょう? 今夜十九時。私の部屋……の『前』に来てください」
『しかし……』
「来なければ、今後一切、戦術サポートを拒否します。使い魔も引き上げます」
『ええっ!?』
「全面凍結です。……待っていますからね」
私は一方的に通話を切った。
心臓がバクバクしている。
言ってしまった。
食事に誘うなんて、人生で初めてだ。
しかも、相手はあの美貌の辺境伯。
「……やるしかないわ」
私は震える手で、再び「闇市場」への契約リストを開いた。
今夜は、軍用食じゃない。
最高級のワインと、オーク肉のステーキ。
そして、とびきりのデザートを。
◇
十九時。
私の「聖域」である浮遊寝室の縁に、ジークフリート様がやってきた。
彼は瓦礫を足場にして登ってくると、少し驚いたように目を丸くした。
「これは……」
そこには、奇妙な光景があった。
私の部屋の床の縁ギリギリに置かれた、豪奢なテーブル。
そして、その向かい側――透明な壁を隔てた「外側」の瓦礫の上にも、同じ高さになるように積まれた木箱と、テーブルクロス。
壁を挟んで、二つのテーブルが繋がっているように見える配置だ。
「ようこそ、旦那様」
私はドレスに着替え、テーブルについた。
「どうぞ、お座りください。そこが貴方の席です」
「……なるほど。透明な壁越しの晩餐会、というわけか」
彼は苦笑し、指定された木箱に腰を下ろした。
私たちの間には、絶対不可侵の「拒絶の壁」がある。
でも、視線は合う。
距離は、わずか五十センチ。
「献立は同じです。私が遠隔で温めました」
彼の目の前の皿には、湯気を立てるステーキ。
「いただきます」
「……ああ、いただきます」
カチャ、とナイフとフォークの音が重なる。
奇妙な食事だった。
音は通信魔法でクリアに聞こえるのに、肉を切る振動は伝わらない。
ワインで乾杯しようとして、グラスが透明な壁に当たって「カツン」と鳴る。
「……虚しいな、乾杯もできないとは」
ジークフリート様が、寂しげに笑う。
「でも、味は一緒です」
私は赤面しながら肉を口に運ぶ。
美味しい。
でも、味がよく分からない。
目の前の彼が、私をじっと見ているからだ。
「……アリア。君は、美しいな」
「ぶふっ!?」
私はワインを吹き出しそうになった。
何を言い出すの、この人は。
「ほ、本気ですか? 私、根暗で、引きこもりで、可愛げのない女ですよ?」
「そんなことはない。君は賢く、勇敢で……そして、誰よりも優しい」
彼は真剣な眼差しで続ける。
「ガレスの件も、今回の食事も。君はいつも、私の心を救ってくれる」
「……買い被りです」
私は視線を逸らす。
救われているのは私の方だ。
彼が外で戦ってくれるから、私はこの部屋で生きていられる。
「アリア」
彼がナイフを置いた。
「私は、君に触れたい」
ドキン、と心臓が跳ねた。
「この壁がなければ、君の手を握れるのに。……君を抱きしめて、礼を言いたいのに」
彼の手が伸びる。
透明な壁に、彼の手のひらが押し当てられる。
大きく、傷だらけの、武人の手。
でも、そこから先には進めない。
私の魔法が、彼を拒絶しているから。
「……ごめんなさい」
私は俯く。
「この壁を解いたら、私は死んでしまいます」
「分かっている。無理強いはしない」
「でも……」
私は迷いながら、自分の手を、壁越しの彼の手のひらに重ねた。
体温はない。
硬質な魔力の感触だけ。
それでも、掌の大きさが違うことは分かった。
「……いつか」
私が言うと、彼が顔を上げた。
「いつか、戦争が終わって、誰も私を殺そうとしなくなったら。……その時は、この壁を消します」
それは、私なりの精一杯の約束だった。
一生引きこもるつもりだった。
でも、この人のためなら、外の世界に出るのも悪くないかもしれない。
そう思えてしまったのだ。
ジークフリート様の表情が、パッと輝いた。
まるで少年のような、無防備な笑顔。
「ああ。待っている。……何年でも」
彼は壁越しの私の手に、口づけを落とす仕草をした。
唇が壁に触れる。
間接キスですらない、壁へのキス。
なのに、私の指先が火傷したように熱くなった。
「……デザート、食べましょうか」
私は誤魔化すように言う。
これ以上、甘い空気に耐えられそうになかったから。
「ああ。君が用意してくれたものなら、何でも」
彼が穏やかに笑う。
その顔色からは、死相のような隈が消えていた。
よかった。
少しは、元気になってくれたみたいだ。
私たちは甘いベリーのタルトを食べながら、初めて「戦争」以外の話をした。
好きな本のこと。
子供の頃の話。
彼が意外と甘党であること。
壁一枚。
されど壁一枚。
物理的な距離はゼロにはならないけれど、心の距離は、もう触れ合えるほど近くにあった。
その時だった。
『――全領民に告ぐ!!』
突然、夜空を引き裂くような大音量が響き渡った。
「なっ……!?」
ジークフリート様が即座に立ち上がり、剣に手をかける。
私も慌てて投影板を見る。
空だ。
夜空に、巨大な幻影が投影されている。
『我らはガレリア帝国軍。……見よ、この哀れな姿を!』
映し出されたのは、捏造された映像だった。
血まみれで倒れるジークフリート様。
そして――鎖に繋がれ、ドレスを引き裂かれて泣き叫ぶ、私の姿。
『辺境伯は既に死に、妻は我らの慰み者となった! 抵抗は無意味だ! 城門を開け!』
幻影の中の私が、あまりにリアルな悲鳴を上げている。
悪質な精神攻撃だ。
「……ッ!!」
目の前で、ジークフリート様が激昂した。
彼が踏みしめた瓦礫が、メキリと音を立てて砕ける。
「アリアを……私の妻を、あんな下劣な幻影にするとは……ッ!!」
殺気。
冷え切っていた夜気が、彼の怒りで沸騰するようだ。
せっかくのディナーが台無しだ。
私の「聖域」の中の平穏を乱す奴は、絶対に許さない。
私は残りのタルトを一口で放り込み、通信板を乱暴に掴んだ。
「旦那様、デザートはおしまいです」
私は不敵に笑う。
「あの三文芝居の演出家に、本当の『エンターテインメント』を教えてあげましょう」




