第1話 引きこもり令嬢の要塞寝室
重厚なオーク材の扉が閉まる音が、死刑執行の鐘のように響いた。
私は寝台の端にちょこんと座り、震える膝をドレスの裾で隠す。
心臓が早鐘を打っていた。
視界の端がチカチカする。
息が苦しい。
これが、貴族の義務。
婚礼の儀、そして初夜。
私、アリア・フォン・ベルンシュタインにとって、それは処刑台に上るのと同義だった。
「……アリア嬢」
低く、けれどよく通る声。
目の前に立つ長身の男性――私の夫となった辺境伯、ジークフリート様が口を開く。
見上げるだけで首が痛くなるほどの巨躯。
鍛え抜かれた肉体は礼服の上からでも分かるほどで、腰に帯びた剣が微かに触れ合う金属音を立てる。
「北の黒狼」の異名は伊達ではない。
戦場を駆け、敵国の将軍すら震え上がらせる武人。
そんな方が、なぜ私のような「引きこもり令嬢」を妻に選んだのか。
疑問しかないけれど、聞く勇気なんてあるわけがない。
「あ、あの……は、はいっ」
裏返った声が出た。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
いっそこのまま寝台の下に潜り込んでしまいたい。
ジークフリート様が、困ったように眉根を寄せる。
その表情が、私には「面倒な女だ」と言っているように見えてしまい、さらに萎縮する。
「そう怯えないでくれ。取って食おうというわけではない」
「は、はい……すみ、ません……」
「……長い移動で疲れただろう。今日はもう休むといい」
え?
私は驚いて、思わず顔を上げた。
初夜なのに?
白い肌に傷ひとつない端正な顔立ちの旦那様は、不器用そうに視線を逸らす。
「無理強いはしない。君がこの環境に慣れるまで、寝室は別にしようと思っていたのだが……」
彼は言葉を切り、部屋を見渡した。
この部屋は、領主館で最も安全とされる主寝室だ。
「警備の都合上、今夜だけはここを使ってほしい。私は長椅子で眠る」
「そ、そんな……! 床でなんて、申し訳ないです!」
「気にするな。戦場の土の上に比べれば、長椅子は天国だ」
彼はそう言うと、本当に上着を脱ぎ始めた。
背中を向けた彼を見て、私は少しだけ安堵の息を吐く。
よかった。
義務的な行為を強要されることはないようだ。
けれど同時に、胸の奥がちくりとする。
やはり、私ごときに興味はないのだろう。
実家の父も言っていた。「お前のような暗い女、嫁ぎ先で三日と持つまいに」と。
その通りかもしれない。
私は魔導書と魔道具いじり以外に取り柄のない、欠陥品なのだから。
その時だった。
ヒュオオオオオオオオ――……。
風を切るような異音が、窓の外から聞こえた。
鳥?
いいえ、違う。
この音は、高密度の魔力が大気を裂く音だ。
私の背筋が粟立つ。
対人恐怖症による緊張ではない。生物としての、死への拒絶。
「ジークフリート様!」
私は叫んでいた。
「伏せて!!」
「――ッ!?」
彼は私の剣幕に反応し、反射的に身を低くした。
直後。
カッッッ!!!!
世界が白く染まった。
轟音。
爆風。
分厚い石造りの壁が、まるで紙細工のように吹き飛ぶ。
窓ガラスが凶器の礫となって降り注ぐ。
熱波が肌を焼く。
敵襲。
それも、城壁の結界を貫通するほどの高火力魔法だ。
「アリア!!」
ジークフリート様が叫び、私を庇おうと手を伸ばす。
遅い。
数トンの瓦礫が、天井から私の頭上へ落ちてくる。
潰される。
死ぬ。
嫌だ。
まだ、読みかけの魔導書がある。
まだ、開発途中の魔道具がある。
なにより――まだ、この人とまともに話さえしていない。
恐怖が極限に達したその瞬間、私の脳内で何かが弾けた。
回路接続。
術式展開。
詠唱破棄。
私の唯一の才能。
誰にも邪魔されたくない、誰とも関わりたくないという、後ろ向きすぎる執念が生み出した、固有魔法。
――【絶対聖域】。
音が、消えた。
熱も、衝撃も、重力さえも。
私が座り込んでいた寝台を中心とした、半径五メートルの空間。
そこだけが、世界から切り離されたように静止する。
ドゴォオオオオ!!
頭上から直撃した巨大な石材が、私の頭上数十センチで「見えない天井」に弾かれた。
炎の舌が、透明な球体に沿って左右へ流れていく。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
私は肩で息をしながら、目を開けた。
惨状だった。
美しい彫刻が施された天井はない。
壁もない。
あるのは、夜空と、燃え盛る城の残骸だけ。
そして。
「……なんだ、これは」
呆然とした声。
聖域の外縁、透明な壁のすぐ外側で、ジークフリート様が片膝をついていた。
彼は間一髪、自分の剣で瓦礫を弾き飛ばし、無事だったようだ。
だが、彼の足元の床は崩れ落ちている。
私たちがいるこの寝室の床の一部だけが、空中にぽつんと浮いていた。
そう、浮いているのだ。
私の魔法は、空間そのものを固定する。
支えとなる柱や壁がなくなっても、この領域だけは座標を維持し続ける。
「アリア、無事か!?」
ジークフリート様が、透明な壁を叩く。
ゴン、と硬質な音がした。
「そっちへ行く! そこは危険だ!」
「……無理です」
私は震える声で答える。
喉がカラカラだ。
「入れません。誰も……何も」
「なに?」
「この結界は、拒絶の概念そのものです。許可なきものは原子ひとつ通しません」
眼下で、爆発音が続く。
城の庭園に、黒い影がいくつも蠢いているのが見えた。
兵士たちの怒号と悲鳴。
組織的な襲撃だ。
「くそっ……! アリア、結界を解け! 一緒に逃げるぞ! ここにいては狙い撃ちだ!」
彼が剣の柄で結界を叩く。
その瞬間。
ヒュンッ!
どこからか飛来した流れ矢が、私の眉間めがけて突っ込んできた。
「アリア!」
彼は叫んだが、矢は私の目の前で――カキンッ! と甲高い音を立てて弾き飛ばされた。
傷一つ、ついていない。
ジークフリート様が目を見開く。
「……魔法無効化、ではない。物理的な遮断か」
「はい……解けません」
私は必死で訴える。
「解いたら、私が死にます」
この魔法の維持条件。
それは『術者がその座標から移動しないこと』。
一歩でも動けば、術式は霧散する。
そして今、この浮遊する床の上で魔法を解けば、私は数十メートルの高さから落下して即死だ。
それに。
眼下の敵たちは、正確にこの部屋を狙っていた。
無防備な姿で外に出れば、次の一撃で確実に殺される。
ここしか、ない。
この狭い、空中に浮かぶ六畳ほどの空間だけが、今の私に残された安全地帯。
「旦那様」
私は精一杯、声を張り上げた。
「行ってください」
「な……妻を置いて行けるか!」
「見てください! どんな攻撃も私には届きません。外に出る方が、足手まといになります!」
彼は唇を噛み、私の周りの透明な壁と、弾かれた矢、そして眼下の戦場を交互に見た。
彼ほどの武人なら分かるはずだ。
今の私が、この城で一番安全な場所にいるということが。
「領民が、兵たちが呼んでいます。『北の黒狼』が必要とされています!」
城門が破られようとしている。
指揮官がいなければ、辺境伯領は今夜で終わる。
彼は葛藤し、ギリリと奥歯を噛み締めた。
そして、私を強く見据える。
「……必ず、戻る。絶対に君を助け出す」
「はい」
「約束だぞ、アリア!」
彼は翻り、崩れかけた廊下の残骸へと、人間離れした跳躍で飛び移った。
闇の中へと駆け出していくその背中を、私は見送る。
一人になった。
周囲は炎の海。
空中に孤立した、屋根もない、壁もない寝室。
普通なら絶望して泣き喚くところかもしれない。
でも。
私は寝台の枕を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
不思議と、心は凪いでいた。
誰も入ってこない。
誰も私を傷つけない。
最高じゃないか。
「……決めた」
私は呟く。
ドレスの裾を破り、動きやすいように結ぶ。
涙を拭い、顔を上げる。
「私、もう一歩もここから出ない」
誰にも会わず、誰にも怯えず。
この絶対安全な空中の揺り籠から、あの不器用で優しい旦那様を支援してやるのだ。
私は懐から、愛用の小型通信板を取り出した。
実家からこっそり持ち出した、違法改造済みの魔道具だ。
「さて……まずは状況確認ね」
指先が魔力を帯びて青く光る。
引きこもり令嬢の、反撃の夜が始まる。




