大阪に行こう
逃げ始める葵とヴェル どうなるんだろうか
葵がそっと抱きしめる手を緩め、「そろそろ寝よっか」と微笑んだ。
ヴェルはふと思い出して尋ねる。「そういえば昨日、歯磨きしてなかったけど……未来にはその習慣がないのか?」
「あるわよ。昨日は寝落ちしちゃってただけ」と、葵は苦笑しながら抱きしめる手を離し、脱衣所へ向かう。「ついてきて」
言われるがままにヴェルも後ろをついていく。脱衣所に入ると、葵は洗面台の鏡に手を伸ばして押し込む。すると、鏡がスライドして左側に開いた。
「無駄にギミックがあるな、これ」ヴェルは軽く呆れながらも、その仕組みに特別な驚きを見せることはなかった。似たようなものが自分のいた時代にもあった気がするからだ。
その反応を見て、葵が少し拗ねたような顔で尋ねた。「これも昔にあったの?」
「まあ、似たようなものが……あった気がする」そう言いながら、ヴェルは頭の中で考える。――洗面台の仕組みを“昔”と比較できるくらいには記憶が戻ってる……やっぱり、何かのきっかけで思い出せるのは確実みたいだな。
葵は開いた鏡の中から何かを取り出しながら言った。「買い換えるの面倒だから、二つ買ってて正解だったわ」
手にしていたのは、マウスピースのような小型デバイスだった。
「これはね、口に入れるだけで歯を磨いてくれるの」
「これで“磨く”って言えるのか……?」ヴェルは半信半疑のまま、それを口に入れる。すると、口内がマッサージされるような、不思議な感覚が広がった。
「ふぉれふぁんふぁ(これなんだ)」
言葉にならないまま喋るヴェルの姿に、葵は堪えきれず吹き出しそうになっている。
数分後、葵が装置を外してくれた。「もう外していいわ」
「これ、すごいな!何もしなくても歯がキレイになってる感じがする!」ヴェルは無邪気な声で感想を述べた。それを聞いた葵は、嬉しそうに笑みを浮かべる。
彼女はマウスピースを水で洗い、口をゆすいだ後、決まった場所にそれを戻した。
「よし、寝よう」
葵が寝室へ向かおうとする。一方ヴェルは、当然のようにリビングへ向かいかける。
「どこ行くの?」と、葵が振り返って首をかしげた。
「え、リビングで寝ようかと……」
「なんで? 一緒に寝ればいいじゃない」
まるで当たり前のように言うその言葉に、ヴェルは一瞬戸惑ったが、「いいのか?」と少し期待を込めて聞き返す。
「変なことしないでね」葵はくすっと笑って寝室に入っていく。
ヴェルは緊張しながら、今日掃除したばかりの寝室へと足を踏み入れた。先に葵がベッドへ入り、その後にヴェルも横になる。
寝転んだ瞬間にわかった――このベッド、すごく快適だ。さっきまでソファで過ごしていたことがバカらしくなるほどリラックスできる。そしてもう一つ、ぬくもりを感じる。この温もり……ベッドのじゃない。きっと葵の体温だ。
そう気づいた瞬間、さっき緩んでいた緊張がぶり返してくる。ヴェルは体が葵に触れないように不自然に硬直した。
そんな様子を見た葵は笑いながら、「別に、当たるくらいならいいわよ」と言って、わざと体を寄せてくる。
――未来ではこれが普通なのか……?そんな疑問が頭をよぎる。
「明日は早めに起きて、すぐここを出なきゃだから……そろそろ寝よっか」
そう言って、葵が「おやすみ」と囁く。
「……おやすみ」
ヴェルも返事をするが、隣にいる葵の体温と柔らかな感触が気になって――眠れる気がまったくしなかった。
翌朝、ヴェルは葵の声で目を覚ました。
「おはよ、ヴェル」
目を開けると、葵が柔らかく微笑んでいた。その笑みに自然とヴェルも笑顔になる。
「おはよ、葵」
そのやりとりも束の間、葵はベッドから飛び起きてクローゼットへ向かう。
「いつあの人たちが来るか分からないから、今すぐ準備してここを出るわよ」
そう言いながら、クローゼットの中に手を伸ばし、使い込まれ汚れたリュックを引っ張り出す。手際よく服を詰め込みながら、こちらを振り返った。
「ヴェルも着替えて。あと部屋着、持ってきてくれる?」
「了解」
ヴェルも慌てて服を着替え、言われた通り部屋着を持ってくる。それを受け取った葵は、リュックに放り込むと、今度は部屋を見渡して何かを探すような仕草をした。そして、小さなアルバムを見つけると、そっと手に取り、それもリュックの中へと入れた。
その様子を見て、ヴェルは心の中で思う。――家族への思いは、まだあるんだな。
やがてリュックのチャックを閉じる音が響いた。
「それだけでいいのか?」とヴェルが尋ねると、
「ええ。最低限の服さえあれば、あとは逃げた先でどうにかなるわ」
「行き先は決まってるのか?」
「大阪に行こうかな」そう言って、今度は自分の着替えを手に取る。
「……ちょっと、出ててもらえる?」
申し訳なさそうに笑いながら言う葵に、ヴェルは「わ、わかった!」と慌てて部屋を出た。
廊下で待ちながら、ヴェルはつぶやく。「大阪、か……」
しばらくすると、着替えを終えた葵が出てきた。手にはリュックに加え、小型カメラが二台。
「そのカメラは?」
「このリビングと、下の階のリビングに取り付けるの。少しでも様子が見えるようにね」
そう言いながら、葵は天井の隅に一台、もう一台は下の階へ降りて取り付けていく。戻ってきた葵が、ヴェルにリュックを手渡した。
「ヴェル、このリュック、持っててくれない?」
「任せろ」
そう言ってリュックを受け取ると、ヴェルは思わず驚いた。見た目の割に、とにかく軽いのだ。
「これ、すごいな……」
言いかけたその瞬間、隣で葵も同じタイミングで口を開いた。
「これ、すごいな……」
二人の声がぴったり重なり、思わず顔を見合わせて吹き出す。
「……ふふっ」「ははっ」
その笑いが、束の間の緊張を解いた。
「ここにはもう戻ってこないから、このまま普通にロビー通って出るわよ」
その言葉に、ヴェルは胸を高鳴らせた。今まで部屋を出入りするときは、隠し通路や監視を避ける複雑なルートばかりだった。だが今日は――正面から、堂々と出られる。
「……なんか、ワクワクするな」
そうつぶやいたヴェルの表情は、まるで遠足を前にした子どものようだった。
玄関のドアが開かれると、そこには無機質ながらもどこか洗練された光景が広がっていた。廊下は静寂に包まれ、床には足音を吸収するかのようなマット状の素材が敷かれている。淡く青白い照明が天井のラインに沿って流れ、左右の壁面をやわらかく照らしていた。光は直線ではなく、微かに波打ちながらゆっくりと脈動しており、まるで建物そのものが呼吸しているような印象を与える。
壁には植物のような模様が浮かび上がっては消えるホログラムが、静かに空間を彩っていた。人工的でありながら、どこか自然と融合したようなデザイン。未来都市特有の「無機と有機の共存」を感じさせる。
二人は並んで歩き出す。葵の足取りは迷いなく、ヴェルはその横を黙ってついていく。廊下はゆるやかなカーブを描きながら続き、時折、壁の一部に設けられた小窓から外の景色が覗けた。空は青く透き通り、遠くに浮かぶ都市の層が重なっているのが見える。無音の交通機が空を滑るように行き交い、どこか現実離れした静けさが広がっていた。
やがて廊下を抜けると、開放的なロビーに出た。天井は高く、透明なドーム状の構造になっている。陽光に似た人工光が穏やかに差し込み、中央には浮遊式のインフォメーション端末が宙に浮いていた。壁には自然を模したデジタルアートが投影され、周囲の音は驚くほど静かだ。
床は磨かれたように滑らかで、通り過ぎるたびに足元の模様がわずかに変化する。人影はまばらで、施設の住民らしき者たちが無言で移動している。誰もが忙しなく、しかし騒がしくはなく、まるで音すら効率化されたかのようだった。
ヴェルと葵は、そんな静寂の中をただ歩く。まるでこの都市の一部であるかのように、自然と馴染みながら――。複雑なルートではなく、堂々と、真っ直ぐにロビーを横切っていくその姿には、確かな決意がにじんでいた。
建物を出た瞬間、ヴェルの目の前に広がったのは、相変わらずの未来の都市風景だった。高層ビルは空へと伸び、地上に影を落とすことなく空中に浮遊するように設計されている。ビルの外壁は滑らかで、素材が何でできているのか分からないほどに反射率が高く、空の色を映していた。都市全体が静かに、しかし有機的に脈打っているような錯覚を与える。
歩道は透明な素材で構成されており、下層の街が薄く透けて見える。足元には方向を示す光のラインが流れ、人々はそれに従って移動していた。街路樹は自然のように見えて人工的に管理されたもので、葉は季節に関係なく淡い青や白に染まっている。
それでもヴェルは、もうその風景に驚きは見せなかった。まるで元からそこにいたかのように、自然な表情で通りを見渡す。そんなヴェルを見て、葵は小さく笑った。
「やっと風景には慣れてきたようね」
ヴェルは肩をすくめながらも少し照れたように言った。
「なんとかな。ただ、少し騒ぎたい気持ちを抑えてるだけだよ」
二人は歩を進める。葵の背を追いかけるようにして進んでいくと、やがて駅が姿を現した。
その駅は、まるで宙に浮かんでいるかのようだった。ホームは地上から離れた場所にあり、建物ごと空中にせり出すように存在している。足元のプラットフォームは半透明で、真下の都市層がぼんやりと見える。駅全体は光沢のある黒と銀で統一され、構造は流線型。天井は大きなドーム状で、空の様子をリアルタイムで映し出すホログラフィックディスプレイになっていた。
改札はなく、通行者の情報は体内のチップや携帯端末で自動認識される。人々は立ち止まることなくスムーズに出入りし、駅全体が驚くほど静かだった。駅の脇には、発着予定の情報が空中に浮かぶパネルに表示されており、列車の接近が近づくと、風のような音がかすかに聞こえてくる。
そして、遠くの空から音もなく滑り込んでくるように、車体全体が光で覆われたような列車がゆっくりと近づいてきた――まるで、空を泳ぐ生き物のように。
駅に着くと、葵が少し歩く速度を緩めながら言った。「ここまで来れば、ひとまず大丈夫でしょ」
ヴェルは、葵に合わせて黙っていたが、ふと気になっていたことを口にする。「なあ、さっきのカメラ……あれって何に使ってるんだ?」
すると、葵はスマホに似た端末を取り出して見せてきた。「これ?」
「これは?」とヴェルが尋ねると、「シナプスの別端末よ」と答え、画面をこちらに向けた。
そこには二つの映像が映し出されていた。ひとつは彼らがこれまで過ごしていた部屋。そしてもうひとつは、ダミーの部屋の映像だ。どちらにも今のところ目立った変化は見られない。
「もしかしたら、何か情報を得られるかもしれないから、一応カメラを仕掛けておいたの」
そう言う葵に、ヴェルは感心したように笑う。「用意周到だな」
その言葉に、葵は得意げな笑みを浮かべた。
二人はそのまま駅構内を歩く。未来的な建築と光景が広がっているが、ヴェルはもはや驚きを口にすることはなかった。だが、駅のスケールの大きさには思わず漏らしてしまう。「すげぇな……」
それを聞いた葵は笑いながら言った。「もう我慢できなくなったんだ」
笑い合いながらしばらく歩いたあと、葵がふと立ち止まり、指さす。「ここでポットを待つわよ」
「ポット?それって何だ?」
「正式名称は“超高速移動型ポット”。東京から大阪まで、20分もあれば着くの」
「うそだろ、早すぎるだろ……」
信じられないという表情のヴェルに、葵は肩をすくめる。「まあ、これは特別なルートだけ。ほかはそこまで速くないわよ」
ヴェルはホッと胸を撫で下ろす。普通の電車まで全部それだったら、逆に怖い気がした。葵の言うポットというのは、おそらく“新幹線”の未来版なのだろう。
目の前に見えるのは、まるで巨大なトンネルのような筒状の施設。その先端がゆっくりと上に開き、中から一台のポットが姿を現す。
「私たちの席はここね」
そう言って葵が指差した先には、二人用の小さな個室のような空間があった。
中に入って座ると、ヴェルはその座り心地に驚く。「これって……」
「分かる?私の家にあったソファと同じ会社が作ってる椅子なの」
なるほど、どうりで落ち着くわけだと、ヴェルは納得する。
やがて扉が静かに閉まり、個室は音も振動もなく動き出した。信じられないほどの速さなのに、まったく揺れを感じない。
ヴェルが窓の外に目を向けると、美しい未来都市の風景が流れていた。角度が変わるだけで、こんなにも世界の見え方が変わるのか——そんな感動に、ついはしゃいでしまう。
そのとき、葵がまたあの端末を差し出してきた。「これ、見て」
画面には、例の小型カメラが捉えた映像が映っていた。
「これは……」
映っていたのは、軽く武装した隊員らしき数人と、高級そうなスーツを身にまとった中年の男。
「危なかったな……」とヴェルがつぶやくと、葵も静かにうなずいた。「そうね……」
だがその顔には、どこか切なさが滲んでいた。
「この人たち……まさか、朝霧グループの?」
ヴェルの問いに、葵は小さく「ええ」とだけ答える。
おそらく、スーツの男が彼女の父親。そして、武装した人物たちはその部下なのだろう。
そのとき、端末から音声が流れ出した。
隊員A「こちら、確認できません」隊員B「こちらも異常ありません」
ヴェルはすぐにシナプスに問いかける。『朝霧葵の父親の画像を出せる?』
予想通り、スーツ姿の男の名は「朝霧慎一」。葵の父だった。
だがヴェルは、映像を見ていてある違和感を覚える。以前アルバムで見た彼は、無表情な印象だった。だが今、この映像の中では必死の表情で怒鳴っている。
「本当にここであってるのか?!」
隊員A「間違いありません」
「くそ……また入れ違ったか……。どこへ行ったんだ……」
「今すぐ情報収集いたします」
「……ああ、頼む」
その顔は、どこか“娘を案じる父親”のものだった。
悪人ではないのかもしれない——ヴェルの中に、そんな迷いが生まれる。
そういえば、葵自身、父親のことを悪く言ったことは一度もなかった……。
そんな思考の中で、ふと気づけば、もう目的地の駅に到着していた。
大阪編を書くために少し投稿頻度落ちます