新しいヴェルの足
ヴェルはとうとうアイアンアームをつけることになる
全身が重く、筋肉が鉛のように感じられる中、ヴェルは肩で息をしながら明美に問いかけた。
「俺がアイアンアームをつけるのって……いつ頃になりそうですか?」
明美は手元のタブレットのような端末を適当にいじりながら、気だるそうに答えた。
「そうやな〜……ほんまは半年くらいかけて、じっくり体づくりするんやけどな。でもな、ヴェル君――あんたの成長速度、バケモンやから。この調子やったら……2週間もあればつけられるようになると思うで」
「2週間……?」
ヴェルは思わず口を開けたまま明美を見つめた。あまりに早すぎる。だが、その言葉に嘘はなさそうだった。疲れきった体に鞭打って、彼はよろよろと立ち上がる。
明美はにやりと笑いながら、冷えたボトルを一本差し出してきた。
「今日はもう終わりでええよ。ほら、これ飲み」
ヴェルは礼もそこそこにそれを受け取ると、すぐに口をつける。冷たい液体が喉を通り、ひんやりとした感覚が身体中を駆け抜けていく――が、その直後だった。
(……なんだ?)
じんわりと、全身の筋肉が内側から温まっていく。まるで湯船に浸かったかのような、不思議な感覚が走る。
「……な、なんか、体が……」
驚いてボトルを見つめるヴェルに、明美は平然と答える。
「ああ、それな。筋肉の成長を促進する成分が入ってる飲みもんやから、多分その効果やろ。」
そう言って、明美は部屋を出ていった。ヴェルも遅れてその後を追う。筋肉はまだ疲労でうずいていたが、どこか回復の兆しも感じていた。
(未来の技術って……すげぇな)
だが、その驚きの一方で、足を切断するという現実も胸の奥に残っていた。筋肉の痛みとともに、心にもわずかな重みが残ったまま、ヴェルは静かに歩みを進めた。
筋トレ部屋を出ると、ヴェルは汗だくにながら、明美と龍介に軽く頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
明美が笑って見送るのを背に、ヴェルは走り出した。筋肉は悲鳴を上げていたが、不思議と息は切れない。体の芯に、確かな力が芽生え始めているのを感じながら、マンションへと足を運んだ。
部屋に戻ると、リビングから足音が駆け寄ってきた。
「お疲れ様」
葵だった。彼女はいつものように穏やかな笑顔を浮かべながら、流れるようにヴェルの背中を押してきた。どうやら“シャワーへ行け”という意味らしい。
「あ、うん……」
促されるままにシャワーを浴び、汗と疲れを流したヴェルがリビングへ戻ると、時計は13時を指していた。
「ちょっと休憩したら、昼にするか」
そう言ったものの、ふと気づく。何も買っていない。
「あ、しまった……買い出ししてなかった」
ぼやくヴェルに、葵が自慢げな顔で言った。
「ふふん、買い物しといたよ」
「え、わざわざ店まで?」
「宅配サービス使ったんだけどね」
ヴェルは少し驚きながらも、素直に感謝を伝える。
「それでも助かるよ。ありがとう」
すると葵は少し照れくさそうに視線を逸らしながら言った。
「……レオ、テレビつけて」
「サポートAIも買ったんだ?」
ヴェルがそう聞くと、葵は軽くため息をつきながら笑った。
「うん。やっぱり、これがないと色々と不便でね」
テレビが点くと、二人の間に少しだけ安らいだ空気が流れた。ヴェルは立ち上がり、冷蔵庫を開ける。すると、中にはコンビニかスーパーか、あるいは高級惣菜屋で買ったのか、多種多様の弁当がずらりと詰まっていた。
「……葵さん、これって」
料理をしようと意気込んでいたヴェルは、少し肩透かしを食らったような気持ちで尋ねる。
「ただの弁当よ。……ヴェル、私のためにトレーニングしてくれてるでしょ? 疲れてると思って……嫌だった?」
言いながら、葵は不安げにこちらを見上げてくる。
ヴェルは一瞬、言葉を探したあと、静かに首を振った。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
その気遣いが、ヴェルの心にじんわりと沁みた。葵なりに、自分を思ってのことだ。そう思いながら、適当な弁当を二つ取り出し、葵の隣に座る。
ふたりは弁当を開き、テレビの音をBGMにして、静かな昼食をとり始めた。
そうして、ヴェルと葵は日々を重ねていった。朝になればヴェルはトレーニングへ向かい、昼には帰宅して葵と一緒に食事を取り、他愛もない会話を交わす──そんな日常を繰り返していた。
そして、気づけばアイアンアームの装着手術は翌日に迫っていた。
いつものように筋トレに励むヴェルに、明美がふと尋ねる。
「とうとう明日やな、……葵ちゃんには伝えたんか?」
ヴェルは、まったく疲れた様子も見せず、淡々と答えた。
「いえ、言うタイミングがなくて……まだ伝えてないです」
「まだ言ってへんのかいな」と明美は呆れたように言う。
「まぁ、いつ言うかはヴェル君の勝手やけど……早めに伝えたほうがええで」
その言葉を受け、ヴェルは小さくうなずくと、再びトレーニングを続ける。
トレーニングを終え、ヴェルはいつものように明美と龍介に感謝を告げて帰ろうとする。明美は笑顔で手を振ってくれるが、龍介は相変わらず無関心な表情で顔も上げない。
そんな二人に背を向け、ヴェルは葵が待つ家へと走り出す。2週間前とは比べ物にならない走りだった。姿勢は整い、足取りには無駄がない。まるで疲れを感じさせない軽やかさで、風を切ってマンションへと戻る。
部屋に着くと、リビングにいた葵がすぐに駆け寄ってきて、「お疲れ様」と声をかける。
いつものように「シャワー浴びて」と背中を押されるかと思いきや、その手が止まり、次の瞬間、葵はヴェルにそっと抱きついた。
不意を突かれたヴェルは戸惑いながらも、「あ、葵?どうしたの?」と優しく問いかける。
葵は彼の胸元に顔を埋めたまま、少し照れたように笑って言う。
「やっぱり……筋肉、ちゃんとついてきたね。前よりずっと、男らしい体になった」
その言葉にヴェルが反応する間もなく、葵は勢いよく脱衣所のドアを開け、
「さ、シャワー!」と彼を押し込んだ。
扉が閉まり、ヴェルは苦笑しながら頭をかいた。
──けれど、まだ彼は伝えていない。明日、自分の足が切断され、“アイアンアーム”へと変わることを。
シャワーを浴び終えたヴェルは、リビングに戻ると用意されていた弁当を手に取り、食べながらずっと悩み続けていた。
──いつ言おうか。どうやって伝えればいいのか。
言えばきっと、葵は止めようとする。それを思うたびに、口を開く勇気が消えていく。
「俺は……止めてほしくないのにな」
そう胸の中で呟きながら、ただ時間だけが過ぎていく。
気づけば夜。部屋の中は静まり返り、お風呂の順番が回ってきた。浴室に入り、湯船に身を沈めながらも、ヴェルの頭の中は悩みでいっぱいだった。
だが、ふと湯気の中で、ひとつの考えに落ち着いた。
──明日、手術が終わってからでいい。すべてが済んでから伝えればいい。
「つけた後、話せば……それでいいか」
そう結論を出すと、ヴェルは湯から上がり、体を拭いてリビングへ戻る。
そこには、テレビを見ながらくつろいでいる葵の姿があった。彼女はヴェルの顔を見るなり、ふっと微笑んで言った。
「さっきまで、すごく怖い顔してたけど……もう解決したみたいだね」
ヴェルは少し驚きつつも、笑ってうなずいた。
「ああ……心配かけてごめん」
そう言いながら、葵の隣に腰を下ろし、二人並んでテレビを見る。
それから、いつも通り部屋の明かりを落とし、眠りの支度に入った。
ベッドに横になると、静かな夜の空気の中、葵がそっと背中からヴェルに抱きついてくる。
「ヴェルが何を悩んでるのかは……わからないけど、大丈夫だよ。私がついてるから」
その言葉が、優しく、深く、胸に響く。
ヴェルは静かに振り返り、葵を優しく抱きしめ返した。
「……ありがとう」
そうして二人は、静かに眠りについた。
──明日は、運命の一日が待っている。
手術当日の朝。ヴェルは葵に
「……行ってくる」と伝える
その表情はどこか硬く、緊張を隠しきれていなかった。葵は少し不安げな表情を浮かべながらも、笑顔で見送る。
「うん、気をつけてね」
ヴェルは軽く手を振って部屋を出ると、足早に明美の店へ向かう。だが、店の近くまで来たところで、見慣れない黒塗りの高級車が目に入った。
「……なんだ、あの車」思わず足を止めて警戒していると、後部座席の窓が静かに開いた。
そこから顔を出したのは、明美だった。
「乗りぃや、ヴェル君」
一瞬ためらったが、ヴェルは軽くうなずき、車に乗り込む。扉が閉まり、静まり返る車内の空気に、緊張がさらに高まる。
「……明美さんって、ほんと何者なんだ」
そう考えながら、車内を見渡す。高級感あふれる内装、無音の走行音、そして何より――妙に慣れた様子の明美。
「どこに行くんですか?」
「決まってるやろ。アイアンアーム、つけにいくんや」
軽く言い放つ明美に、ヴェルは思わず息を飲んだ。現実味を帯びたその言葉に、心拍が少しずつ速くなっていく。
どれほど走っただろうか。やがて車が静かに停まった先には、都会の喧騒から外れた場所に佇む、年季の入った古びたビルがあった。
「……ここ?」
一見して手術に使われるような場所には見えない。
運転席の扉が開く音がして、運転していた人物が姿を現す。
「龍介……さん?」
まさかの人物に思わず驚きの声を漏らす。
「何、驚いてんねん。たまには俺も運転くらいするわ」
相変わらず興味のなさそうな顔で言う龍介に苦笑しつつ、ヴェルは静かに車を降りた。
目の前にそびえるのは、外観こそくたびれているが、どこかただならぬ雰囲気を放つビル。
──この先、自分の体は確実に変わる。
ヴェルは深く息を吸い込み、足を一歩前に出した。
明美さんが建物の中へ入っていくのを、ヴェルは緊張した面持ちで黙ってついていった。中は空き家のように殺風景で、人気もなければ生活感もない。ただひとつ、奥にあるエレベーターへと向かっていく明美さんの背中を追うように、ヴェルも無言で足を進める。
エレベーターに乗り込むと、明美さんは何のためらいもなく12階のボタンを押した。到着すると、扉の向こうに広がっていたのは、手術室とは到底思えない不潔な空間。壁は剥がれ、床もひび割れている。そこに設置された簡易的な手術台と、用途の分からない無骨な機械がいくつも並んでいた。
そして、部屋の奥には一人の男が待っていた。様子はどう見ても普通ではない。肩を揺らしながら不気味に笑い、ヴェルを見る目もどこか虚ろだった。
「明美さん、お待ちしてましたよ」と、その男はぎこちない声で言いながら、口元を引きつらせるように笑った。
「たっちゃん、無理言って悪かったな」と明美さんが声をかける。その瞬間、ヴェルは(この男“たっちゃん”っていうのか)と緊張を紛らわせるように考えた。
手術台のそばには、今まさに自分の足として取り付けられるであろう“アイアンアーム”が、静かにその存在感を放っていた。黒と銀の金属が鋭い光を反射している。
ヴェルは覚悟を決めて台に横たわる。たっちゃんが黙ったまま注射器に怪しげな液体を吸い上げ、ヴェルの腕に針を刺した。冷たい液体が体内に流れ込んだ瞬間、世界がぼやける。
そのまま、ヴェルの意識は暗闇に沈んでいった。
どれくらい時間が経っただろうか——。
ヴェルがゆっくりとまぶたを開けると、目に入ってきたのは見慣れた天井だった。ここは……明美さんの店の中。
ぼんやりと体を起こすと、明美さんが近くの椅子に座っていた。
「起きたか、ヴェル君」
声はいつものように落ち着いていたが、どこか優しさを含んでいた。
「手術は無事終わったで。今のあんたの足はもう“アイアンアーム”になっとる。慣れるまではちょっと時間かかるやろけど、まぁ、耐えろ」
まだ意識がぼんやりとしているヴェルは、なんとか「はい」と返事をするのが精一杯だった。
やがて、20分ほどが経つと頭の中の靄が晴れてきて、ようやくはっきりと現実がつかめるようになった。
ヴェルはゆっくりと視線を下げ、自分の足を見た。そこには、もう見慣れた生身の足はなかった。黒と銀の金属で構成された、どこか無骨で、同時に美しい足。
だが不思議なことに、違和感はまるでなかった。
ヴェルは恐る恐る立ち上がり、足を少しだけ動かしてみた。まるで昔から自分のものだったかのように、自然に動く。
――これが、俺の新しい足……。
感動を噛みしめながら、ヴェルは軽く店内を歩いた。次に、そのまま小さく走り出してみる。身体が軽い。加速が鋭く、風の抵抗すら感じる。
「ちょっと走って帰ります」とヴェルが言うと、明美は手をひらひら振りながら言った。
「つけたばっかやから無理すんなよ。すっ転ばんようにな」
ヴェルは笑ってうなずき、店の外へ飛び出す。そして――走り出した瞬間、思わず息を呑んだ。
加速が常識の範囲を超えていた。風を切る感覚が、もう“走っている”というより、“飛んでいる”に近い。
(速すぎる……!)
生身の頃の感覚では追いつかないほどの速度で地面を蹴り、ヴェルは走り続ける。試しに軽くジャンプしてみると、なんとビルの二階ほどの高さまで跳ね上がった。
軽く着地し、また走る。その動きには、もう「人間らしさ」という制限がなかった。
ただ走って、ただ跳ねただけなのに、ヴェルの胸は高鳴り続けていた。これが“アイアンアーム”。これが、自分の新しい可能性。
――その時だった。
ふいに、アイアンアームの足に鈍い痛みが走った。
「っ……!」
走るスピードを落とし、ヴェルは路肩にしゃがみ込む。まだ慣れていない体に無理をさせすぎたのだろう。高揚感に身を任せ、限界を忘れていた自分を反省する。
(はしゃぎすぎたな……)
深呼吸しながら足をさすり、少しずつ痛みが引くのを待つ。人工的な素材でできた足なのに、こうして“痛み”を感じるのが不思議だった。
やがて痛みが和らぎ、ヴェルは空を見上げた。もうすぐ家だ。
……葵には、なんて言えばいい?
手術のことを伝えずにここまで来てしまった。彼女は怒るだろうか。悲しむだろうか。いや、それより――怖がられるかもしれない。
ふと、彼女の無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
(俺のこと、どう思うだろう……)
不安が胸の奥からじわじわと広がっていく。
走れること、跳べること、強くなったこと――それらが嬉しい気持ちは確かにある。
けれど、それを一番近くで見てくれていた葵に、何も話してこなかったことが、今になってヴェルの心を重くしていた。
一つの選択が、彼女との距離を遠ざけてしまうのではないか。
ヴェルは静かに立ち上がり、まだ慣れない足にそっと力を入れる。痛みは、もうない。
家へ向かって、ゆっくりと歩き出した。
次回は葵にアイアンアームをつけたことを話すシーンを書くけど難しいな、、、