ヴェルの成長
ヴェルの肉体改造が本格的に始まろうとしている、、、
湯船の中で感じた異様な恐怖と不安を拭いきれないまま、ヴェルは現実から逃げるように湯船を出た。タオルでざっと体を拭くと、素早く部屋着に着替え、リビングへと向かう。
ソファに座っていた葵が振り返り、軽く首を傾げる。
「結構、遅かったね」
咄嗟に言い訳が口をついた。
「あぁ、ちょっと……寝てたみたいで」
「もう、危ないから気をつけてよ」
その声に、心配と優しさがにじんでいた。
その眼差しを正面から受け止めると、ヴェルの胸の奥がずきりと痛んだ。
(……もしアイアンアームのことを話したら、葵はきっと止めてくる。心配して。守ろうとしてくれるだろう。でも——それを望んでないのは、俺なんだ)
罪悪感と、揺れる決意の狭間で、ヴェルは小さく笑ってごまかした。
「悪い。次から気をつけるよ」
葵の隣に腰を下ろすと、テレビの画面に視線を移す。
どこか現実感のないバラエティ番組が、部屋に安っぽい笑い声を響かせていた。
ふと時計を見ると、まだ21時。ヴェルは意を決して、口を開いた。
「……二日間かけて、葵の捜索状況を調べてみた。今のところ、防犯カメラのデータ取得は難航してる。周囲の聞き込みも進んでない。足取りは掴めてないみたいだ」
一拍置いて、葵が小さく息をついた。
「……そっか。それなら、ここがバレるのも……いや、大阪に来てること自体、まだ気づかれてないかもしれないね」
ヴェルは頷いた。
「あぁ、そうだな」
安心したように微笑む葵。
その顔を見ていると、さっきの戦闘映像の残像が脳裏に蘇り、胸の奥がじわりと冷えていく。
(この平穏が、どこまで続くんだろうな……)
ヴェルは心の中でそう呟きながら、再びテレビに意識を向けた。画面の中では、まるで何もなかったかのように、世界が笑っていた。
テレビの画面をぼんやりと眺めていたヴェルの脳裏に、ふと明美の声が蘇る。
『明日もおいでや!』
その言葉を思い出し、隣の葵に声をかけた。
「そういえば……明日も明美さんのとこ、行くことになってる。特訓、続けるってことで」
葵は一瞬、顔を上げる。「
明日も……? わかったわ……」そう呟いた声は、どこか寂しげだった。
その表情にヴェルは少しだけ胸が痛んだが、笑ってみせる。
「大丈夫。何も起きないから」
けれど、その返答はどうやら逆効果だったらしい。葵はわざとらしくそっぽを向いて、膨れっ面になる。
「……ふーん、そう……」
そのふくれっ面が妙に可愛くて、思わずヴェルは吹き出した。
「な、なによ?」きょとんとする葵だったが、やがてつられて笑い出す。
ふたりの間に、穏やかな空気が流れる。テレビの喧騒をBGMに、ささやかな世間話を重ねているうちに、ヴェルの心も少しずつ軽くなっていくのを感じていた。
そんな中、ふと葵の瞼が重そうに瞬くのに気づく。
「……そろそろ、寝ようか」
そう告げると、葵は欠伸まじりに頷いた。
「そうしましょ……」
ふらりと立ち上がると、脱衣所のほうへ向かう。そこで棚からボトルを手に取り、『マウスウォッシュ』と書かれたラベルを見せつつ、水のような液体を口に含んだ。しばらくくちゅくちゅと音を立て、30秒ほどで吐き出す。
「それは……?」とヴェルが尋ねると、葵は振り返って答える。
「見ての通り、マウスウォッシュよ。これだけで歯磨きと同じ効果があるの。……ヴェル、ここ二、三日してないでしょ?」
そう言ってボトルを差し出す。渋々受け取ったヴェルも口に含み、同じように吐き出した。予想以上にスッキリして、思わず「……へぇ」と小さく感心する。
「眠い……」と葵が呟きながら寝室へと向かい、子どものようにベッドへダイブした。くしゅっと布団の中に収まり、丸まるようにしてあくびをひとつ。
ヴェルもその隣に横になる。だが目はまだ冴えていた。寝室のカーテン越しに窓を見上げると、雨はすでに止んでいたようだった。
ガラスには水滴がいくつも残っていて、外の街灯の光がそれを優しく照らしている。大阪の夜景は、水たまりに反射し、滲むように輝いていた。どこか幻想的で、静かで、そして少しだけ切ない美しさだった。
ヴェルはそっと目を閉じる。この一瞬だけでも、安らぎが長く続いてくれればと願いながら。
目を覚ますと、ヴェルの目に飛び込んできたのは、時計の「7:30」という表示だった。どうやら知らぬ間に眠ってしまっていたようだ。
隣を見ると、葵がまだ布団の中で丸まっている。ヴェルはそっと声をかけた。
「明美さんのとこ、行ってくる」
葵はうっすらと目を開けて、「わかった、がんばってね」と溶けそうな笑顔を浮かべたかと思うと、そのまま再び眠りに落ちた。
その寝顔を見届けると、ヴェルは弁当を食べ、いつもと同じ服に着替えた。
そして玄関を出ると、シナプスで明美に電話をかける。
「もしもし、ヴェルです。今からお店に向かいます」
明美の声がすぐに返ってきた。
『逃げ出さずに偉いやん。待ってるで』
ぶつっと短く通話が切られる。
「……毎回一言多いんだよな」と苦笑しながら、ヴェルは軽く準備体操を始めた。そして、冷たい朝の空気を切るようにして走り出す。
数分後、あの店に到着すると、扉の向こうで待っていた明美が手を振る。
「来たか、ヴェル君」
「お待たせしました」
ヴェルが息を整えながら答えると、明美はにやりと笑った。
「ほんなら今日はジョギングに加えて、筋トレも挟むで」
「……少し、きつすぎません?」
眉をしかめるヴェルに、明美はきっぱりと言い放った。
「いつ場所バレるかもわからんのに、そんなゆっくりしてられへんわ」
その一言で、ヴェルは渋々ながらも首を縦に振るしかなかった。
ちょうどそのとき、奥の部屋から龍介が姿を現した。
「龍介、今日も頼むで」
「……了解です」
露骨にやる気のなさそうな声で返しつつ、龍介は店の外へ出ていく。ヴェルもそれに続く。
「ルートは昨日と一緒や。お前、時間かかりすぎやったから、今日はもっと速く走れよ」
そう言い残して、龍介は軽快な足取りで走り出した。ヴェルも深呼吸してからその背中を追う。
不思議なことに、体が昨日よりも軽く感じた。足取りが自然と前に出る。
「……こんなに早く効果が出るものなのか?」
そう思いながらも、ヴェルは黙々と走り続けた。
そして昨日よりも明らかに速いペースで広場へ到着すると、先に到着していた龍介が怪訝そうな顔を向けてきた。
「……お前、イカサマしてへんよな?」
疑いのまなざしを向けるが、ヴェルの額から流れる汗を見て、その疑念はすぐに溶けたようだった。
「……まあ、やるやん」
短くそう呟きながら、龍介は水を一口飲む。ヴェルは心の中で小さくガッツポーズを作るのだった。
「ほな、先いっとくわ」
そう言い残して、龍介は広場を折り返して走り出した。ヴェルもそれに続くようにして、再び足を動かす。
――おかしい。
そう思いながらも、体は軽い。昨日あれだけ疲労困憊だったはずなのに、今日はまるで羽でも生えたようだ。呼吸も乱れず、足も止まらない。
「……こんなに走ってるのに、全然疲れない」
不安というよりも、むしろ驚きだった。しかし、その感情もすぐに切り替わる。
「まあいっか」
深く考えない。今は、走ることに集中しよう。ポジティブな思考が、足取りをさらに軽くする。
そして戻ってきたお店の扉を開けると、明美が振り返る。
「今日は早いやん。昨日とは違う場所に行ったん?」
「いえ、一緒の場所です」
そう返すと、明美は一瞬ポカンとした後、眉をひそめて言った。
「……は?ほんまに? やとしたら、ヴェル君バケモンやろ、あんた」
それが褒め言葉なのか、悪口なのか。判断に困る表情で笑う明美に、ヴェルは小さく苦笑を返すしかなかった。
だが、確かなのは――体は明らかに、昨日までとは違う。何かが、ヴェルの中で変わり始めていた。
「今日は何時間くらいで帰って来れたんですかね?」
ヴェルが尋ねると、明美は少し驚いたように眉を上げた。
「2時間や。昨日と比べたらほんまに早なったな」
その言葉に、ヴェルはほんのり頬を赤らめた。褒められるのはやっぱり悪くない。
「この調子やったら、すぐにでもアイアンアームつけれそうやな」
そう言われた瞬間、昨日見た“あの映像”が脳裏に蘇る。ゴリラを殴り潰し、トラックを止める腕。そしてその腕が、力に耐えきれず破裂したシーン――。
(あれを、本当に自分が?)
胸の奥が重たくなるが、考えを振り払うようにヴェルは小さく息を吐く。
「ほな、次は筋トレや」
明美が応接室の横の扉を指さす。ついてこい、というジェスチャー。
扉を開けると、そこはジムのような空間だった。多種多様な筋トレマシンが並び、奥には金網で囲まれたリングのようなスペースもある。ヴェルは思わず唾を飲んだ。
「今日は上半身のトレーニングやな」
そう言いながら、明美は一台の器具を指差すとヴェルをそこに座らせ、動かし方を手際よく説明する。そして何のためらいもなく、60キロの重りをセットした。
「え、これ……」
「今説明した通りにやってみ」
ヴェルは渋々器具を動かし始めた。だが、初心者が扱うには明らかに重すぎる。動かすたびに腕が軋み、体中の筋肉が悲鳴を上げる。
「まだや。もう少し頑張れ」
明美の声は容赦ない。ヴェルの身体からは“ミシミシ”と、まるで筋肉が裂けるような音まで聞こえてきた。それでも止めてはくれない。
ようやく体が動かなくなってきたタイミングで、ようやく明美の口から救いの言葉が出る。
「……いったん休憩や」
その瞬間、ヴェルはほっとした。だが、安堵も束の間――
「これをあと3セットしよか」
まるで地獄の宣告だった。逃げ出したい衝動にかられるが、ヴェルは唇を噛みしめてこらえる。
(葵を守るって決めたんだ……。そのためなら、どんな苦しみでも耐えてみせる)
痛みと汗の中、それでもヴェルは再び器具に手を伸ばした。
ヴェルがうめき声を上げながら筋トレマシンを動かしていると、明美は腕を組みながらふと口を開いた。
「あんたにアイアンアームつけてもらおうと思ってんのは、足やからな。せやから上半身は、そのアームに依存せんように鍛えたる。戦闘用チップも、こっちで手配しといたるわ」
「戦闘用チップ……?」
その言葉に、ヴェルの動きが一瞬だけ止まる。昨日見た資料にも、たしか同じ単語が出てきていた。筋肉が悲鳴を上げる中、息を切らせながらヴェルは尋ねた。
「戦闘用チップって、なんですか……?」
明美はちらりとヴェルを見て、軽く笑う。
「簡単に言うと、体を動かす技術をインストールするチップやな。柔道とか、剣道とか、そういう格闘術の“動き”を身体に直接覚えさせるって感じや。訓練せんでも、ある程度は動けるようになる。便利なもんやけど――値段がな、えげつないねん」
「そんな……未来って、すごいな……」
感心する気持ちはあったが、すぐに腕の筋肉が痺れてそれどころじゃなくなる。息は荒く、額から汗が滝のように流れている。
「それとな、アイアンアームつけるときは麻酔して手術するけど……終わった後、死ぬほど痛むから覚悟しときや」
ヴェルは機械的に返す。
「やっぱり……痛いんですか?」
「そらな。足、切断してから取り付けるんやから」
「……え?」
動きが止まった。呼吸が止まりそうになる。まさか、そこまでするとは聞いてなかった。
「切断って……」
「言うてなかったっけ?」
明美はまるで天気の話でもするかのように、悪びれもせず首をかしげた。
「まぁでも、それが“力の代償”っちゅうやつや」
その言葉が、重くヴェルの胸にのしかかる。足を失う――その現実に、目を背けたくなる気持ちを押さえながら、それでも彼は思い出す。葵のことを。守りたいという想いを。
(俺に、できるのか……)
それでも、逃げるわけにはいかない。ヴェルは痛む腕で、もう一度マシンのグリップを握りしめた。
眠い葵が可愛すぎる