名を呼ぶモノたち
遠くはなく、かといって近くもない未来。
どこかの国の、どこかの場所で。
1
見渡す限りどこまでも広がる草原に、爽やかな風が吹いている。空は青く澄み渡り、雲ひとつない。
風に揺られた草花は、サラサラと音をたてながら、お互いに身を寄せ合っているようだった。日光はその草花を照らし、ただの雑草でしかない草花もこの時ばかりは光を放ち、それが集まって一つの大きな太陽にさえなっている。
また、風が吹いた。草花の擦れ合う音が一層大きくなるが、それは結局大したものではなく、すぐに清々しく広がる空気のなかに消えていった。
そのなかに、不釣り合いな音が混じり込んでくる。ザッザッザッと、定期的な音。足音だ。
中年の男が、一心不乱に走ってくる。膝に大きな穴の開いたジーンズをはき、上半身は何も着ていない。男は前を向き、ただひたすらに走る。時折、方向をややかえてみせる。右に、左に、45度ほどの方向転換を織り交ぜながら、男はただ走る。草原を孤独に駆け巡る男の顔は汗よりも涙で濡れていた。顔面は青白く、目は血走っていたが、唇からは生気が失われていた。そしてブツブツとずっと呟きながら、男は走り続ける。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ・・・」
男はひたすら言葉を繰り返していた。それは意思によって紡がれるものではなく、条件反射によって発せられるものだった。そして力ない男の言葉は、サラサラと風にゆられる草花の音にかき消される。草花はあざ笑っているかのようだった。
男の走るスピードが徐々に落ちてきた。息が上がり、膝が悲鳴をあげる。やがて小走りになり、徒歩になり、立ち止まった。
男は、呼吸を整えながら、ゆっくりと振り返った。
そのとき、草原に甲高い女の叫び声のような音が響いた。一瞬すべての時が止まったように思えた。音はしかし、女性とはほど遠い、低く高圧的な重低音を残し草原の空気のなかへ消えていった。また、サラサラといった草花の擦れ合う音だけが残った。
男が倒れた。まっすぐと上を向いた男の目には、緑色の涙が溢れていた。
「アサ…」
一言だけつぶやくと、男の瞳孔は急激に限界まで開ききり、身体は力なく、不自然な方向に四肢を開きながら草花の上に横たわった。手には少女の写真が握られているが、もうその写真を握りしめる力も、男には残っていたなかった。
男の胸には大きな穴がぽっかりと空き、どす黒い血が草原にあふれ出ていた。方々に飛び散った身体の小さな破片が、まだ若い草花の絨毯を汚していた。
そこから2キロ離れた小屋には、サトルとその娘のミキがいた。まだ15歳になったばかりのミキは、大きな電子スナイパーライフルをおろし、ふうっと大きく息を吐いた。
「やった!一発で仕留めたぞ!やったじゃないか!」
サトルは興奮した様子だったが、ミキは対照的だった。無言でライフルを台座に置くと、ぽつりと言った。
「ねぇ、もうこれでいいでしょ?はやく行こうよ。」
サトルは不満だった。子供の教育に手を焼くのはどの大人にとっても共通の問題かもしれないが、それにしてもミキは理解できないことが多い。思春期といえばそれまでなのかもしれない。しかし最近何を考えているかわからないし、中学校のことをまともに話そうともしない。せっかく久々のハンティングに連れてきたのは、いつまでたってもまともにハンティングができないミキのためというよりは、ただ二人の時間をつくって話をしたい、という目的の方が大きかった。
しかし、相変わらずミキは話をしようとしない。はじめて一発で「丸太」を仕留めたというのに、ふてぶてしい表情に変わりはない。
「まぁまぁ、もう一回くらいやっていかない?」
サトルは苛立ちを隠しながら、ミキに優しく語りかけたが、それでも彼女の表情に変化はなかった。
「これ、嫌いなんだよね。気持ち悪いじゃん。」
またはじまった、サトルは内心そう思った。ミキは珍しいタイプじゃない。最近の子供にはこういうタイプが多いらしい。無意味にアンドロイドへ感情移入をしてしまう子供が増えているのは、少し前から社会問題になっていた。サトルは屈み込み、ミキと目線を合わせた。何度、こうして説明したかわからない。
「いいか、丸太たちは人間じゃない。かといって、動物でもない。つまり…害虫なんだ。あいつらがいればいるほど、社会は汚れていく。あいつらが増えちゃったら、こうやって休みの日にお前と楽しく出かけることだってできなくなるかもしれない。だから、できるだけ少なくするように頑張らないと。な?」
「でもさ、それは武装警察の人たちがやればいいことでしょ?私たちがわざわざやることじゃないじゃん。」
いつもの堂々巡りだ。サトルは嫌気がさしたが、これも子供と向き合うために必要な時間だと、心の中で自分に言い聞かせた。
「そういう問題じゃないんだよ。いつでも武装警察の人たちが守ってくれるわけじゃない。いざというときは、自分の身は自分で守らないと。お前ももう子供じゃないんだから。」
「でも気持ち悪い。撃つとさ、人間みたいに血がでてくるし、泣いたりするじゃん。本当にあれ丸太だったの?人間じゃないの?」
そう言うとミキはカバンを手にとった。もうこれ以上は無理だ。何を言っても効果がない。
「わかったわかった、じゃあ今日は終わりにしよう。夕飯でも食べに行くか。」
さっさと歩き去るミキを、サトルは追いかけた。しかし内心は疲れ果てていた。やれやれ、結局今日も効果がないか。しかしまぁ、この子も大人になれば、何が正しいかきっとわかるはずだ。
サトルとミキは部屋を出た。
1キロほど離れた草原では、動かなくなった男が収集車によって回収されていた。けだるそうな職員二人が男の身体を持ち上げ、大きな口を開けた収集車に投げ込む。男が握っていた少女の写真は草原に落ち、風に吹かれて中へ舞い、どこかへ飛んでいった。職員二人はそんなことには気づかず、収集車に飛び乗ってその場を離れた。
2
鳥のさえずりが聞こえた。アサが目を開くと、薄汚い天井が見えた。黒いシミがまた広がっているように見える。アサは粗末なベッドから身体を起こすと、窓から外を見た。暗く冷たい空気の張り詰めた、森だ。そこに多様な生物がいるはずなのに、高くそびえた木々が日光を遮るおかげで、一面が同じ濃い緑で覆われているように見える。その風景には「生」よりは、むしろ「死」という言葉の方が適切に思えた。
アサは、ベッドから足を下ろした。まだすこし膝の部分が痛む。先週メンテナンスをしたばかりだが、どうやらまだ調整が足りていないようだ。
ただ、その必要がもう無いことは、アサにはわかっていた。
大きな音でドアがノックされた。アサが気だるそうに反応すると、扉が勢いよく開き、そこには大男が立っていた。
「おい、起きろ。害虫を駆除しに行くぞ。」
男はそう言うと、ニヤッと笑って歩き去った。アサは表情を変えず、再び窓から外を見た。
3
サトルは珍しく、輸送ポッドのなかで汗をかいていた。
火曜日の朝。月曜日から稼働を始めるアンドロイドたちに対して、一日遅く人間たちは働き始める。また4日間の戦いが始まるのだ。サトルは5人の同僚とともに、職場へ輸送されている途中であった。楕円形でスケルトンタイプのいつもの輸送ポッドに、いつもの5人。どの人間もサトルとは違う部署で、特に話すこともなかったので、全員が全員仮想空間内にジャックインしてドラマやらニュースなどを楽しんでいる。延々と続く森林の風景には目もくれず。しかしサトルはそうしていなかった。まだ息が切れていた。
この日は何年かぶりに、自宅からポッドステーションまで走った。距離はたったの100メートルだったが、自宅内からの距離も合算すれば、もっとあった。原因ははっきりしている。朝からミキが先日の「丸太ハンティング」に対して、やっぱり自分はもう行きたくないと言い出したことだ。このことについてサトルが娘と口論するのは初めてではなかった。むしろ最近は毎週のように繰り返している。サトルはこの朝のことを思い出すと、とてもジャックインする気分になれなかった。何度言い聞かせても、ミキはわかってくれない。アンドロイドは人間ではない。むしろ、人間を脅かす存在なのだ。それを何度彼女に説いただろうか。彼女は頑なに拒否していた。それが年齢からくる親への態度なのか、それとも思想信条が許さないのか、サトルには判断がつかなかった。
いずれにせよ、このままでは良いことはない。二人の関係は悪化するし、サトルの仕事にも影響がでるし、何より、来月ミキが受ける期末試験ではアンドロイドの処刑が必修だ。それをクリアしなければ、彼女は専門学校に進学することができないばかりか、最悪の場合、思想警察に取り調べを受ける可能性さえある。
そんなことを考えていると、サトルは頭痛に襲われた。この苦痛から早く逃れる方法はないものだろうか。そんな叶いもしない夢を妄想していると、輸送ポッドは職場に到着した。
サトルらは続々と降りてき、ポッドはあっという間に空になった。
4
ミキは悩んでいた。リコは目の前にいる。しかし、何をすれば良いのか、わからずにいた。ミキはそれでも、そっとリコに手を伸ばした。ミキの目線はリコの肩にも届かないくらいだ。手は自然と、リコの背中に伸びていった。
ミキの手がリコの背中に触れた。柔らかく弾力性のある変温繊維の上着は、ミキの手を優しく、しかし頑なに押し返そうとする。一瞬ためらいをみせたミキは、目をつぶって心のなかでつぶやく。
「大丈夫。私は普通。大丈夫。」
目を開けると、リコと目が合った。ミキの細く白い手は、リコの背中に到達していた。
「どうしたの?」
そこにはリコのいつもと同じ冷たい突き刺さるような目があった。
「いや・・・背中に、ゴミついてる。」
ミキの手が離れていく。リコはぼそっと礼を言うと、また前を向いてしまった。
ミキも同じように前をむいた。輸送ポッドの窓を通して、どこまでも続く森が見えた。緑一色に見える風景だが、目をこらせば様々な色が混ざっているのがわかる。日の光に照らされ、緑や茶色、水色に赤い花まで、多様な色彩が輝いている。地平線の彼方まで続く、瑞々しい生命の営み。
ミキは視線をリコに移した。頭から両肩へ続く、美しい花瓶のような首のライン。健康的な肩甲骨と広背筋の隆起。斜め後ろからでも見える、豊かな胸。ミキの鼓動は高まり、今すぐにリコの手を握り、走り出したい気分にさせた。
やがて輸送ポッドは終着地である第71中学校に到着した。ミキが声をかける間もなく、リコはそそくさと降りて行ってしまった。
ミキは遠くからリコを目で追った。リコの周りには、いつもの賑やかなメンバー達が近寄っていった。あっという間に、リコは大勢の友人に囲まれ、校舎の中へと消えた。
ポッドを降りたミキも、その後を追った。その周りには誰もいなかった。
5
同じ光が、同じ周期で、目の前を通過していく。トンネルは永遠に続くように思えた。
ハンドルを握るガクは目をこすった。隣の席を見ると、相方は頭を前に垂らしながら眠っている。視線を前に戻したガクは、大きく息を吐いた。何もかも、今自分の真上に広がる森のせいだ。そう思った。全自動運転者の導入が遅れているのも、自分がスクラップとなったアンドロイドの回収なんて仕事をしているのも、今こうやって旧式の回収車にいけ好かない同僚と・・・なにもかも。
ガクはモニターで荷室の中を確認した。今日は少なめだ。ガランとして暗い荷室には5体の動かなくなったアンドロイドが横たわっている。多いときは30体以上ものアンドロイドをすし詰め状態で運んでいることを考えれば、今日はアンドロイドたちにとっては快適な旅なはずだ。といっても、こいつらにはもう何も残っていない。あとは焼却炉で燃やされるためだけの存在だ。
ガクはアンドロイドのことを何とも思っていなかった。毎日ニュースでアンドロイド達のゲリラ部隊がどこかでテロを起こして何十人死んだなんてことをやっているが、正直どうでもよかった。テロリスト達に同情することは一切ないが、かといって今のこの世の中がどうなろうとも大して興味を持てなかった。被害にあった人々とその家族には申し訳ないが、この今の社会になんとしても守るべき価値があるとも思えなかった。
もっとも、アンドロイド達が揃いも揃って危険な存在だという今の社会の常識には、思うところがあった。毎日毎日、猟場で破壊されるアンドロイドを見ていると、不思議とそう思えてくる。10代の少女タイプのアンドロイドが電源切れギリギリのところで“命乞い”をしてきたときは、さすがにとどめを刺すことをためらった。会社の上の連中は、そういう経験をしていない。だから、アンドロイドがいかに暴力的で残忍で人間にとって害悪か、それしか言えることはなかった。ガクは、そういうヤツらとアンドロイドと、どちらにも嫌気がさしていた。それに、ガクには今も忘れられないアンドロイドが一体だけいた。しかし、彼らと人間が共存ができないことは、誰の目にも明らかだ。忌々しい地上の森も、彼らの仕業なのだ…
トンネルは緩やかな右へのカーブにはいった。焼却炉が近いことを示すこのカーブを、ガクは気に入っていた。もう少しでこのなんの変化もない、永遠に続くとも思えるトンネルが終わる。そう、やっと実感できるからだ。
ガクがささやかな安堵感を手に入れたそのとき、ドタンと大きな音がした。後方の荷室からだ。隣で寝ていた相方が驚いて飛び起きた。
「どうした?事故か?」
車は走行を続けている。ガクは落ち着いていたが、音の原因はわからなかった。
「いや、荷室で丸太が崩れたんじゃないか?」
「崩れた?たった5体しかないのに?」
確かにそうだと、ガクも納得した。こんな単細胞のやつの言うことに納得したのはしゃくだったが、実際今日は5体しか運んでいない。大きな音がする原因はないはずだ。
「おいおい、足りないぞ!」
モニターを見ながら相方が言った。ガクも目をやると、そこには4体のアンドロイドが転がっているだけだった。二人は一瞬、目を合わせた。
長いカーブの途中で、収集車が止まった。ガクと相方は運転席から降りると、車の後方へ周った。扉は厳重に閉ざされている。
「お前が開けろ。俺はこいつで害虫をぶちのめしてやる。」
相方はそう言うと、腰から電子警棒を取り出し、電源をつけた。ビリビリと耳障りな音をたてて、警棒が青白く光りだす。ガクは反論しなかった。こいつはいつもこうだ。面倒なことは俺に全て押し付けてくる。それでいて自分は「害虫」であるアンドロイドに鉄槌を下す正義の使者ヅラだ。先月もすでに破壊されているアンドロイドを粉々になるまで警棒で殴り続けた。相方はまだアンドロイドが動いていたからだというが、ハンティングで使われる88式のスナイパーライフルの弾をくらって、無事でいられるアンドロイドなんてそういない。ゲリラ組織が密かに開発したと噂される「復電式」のモデルでもない限り。
ガクはそっと、3段階の鍵をあけた。荷室の扉が開く。
「さて、来い!クソどもが!」
事務所に戻ったら、改めて人員配置について上司に相談しよう、どうせ聞き入れられるわけもないが、と思いながらガクは扉をいっぱいまで開け広げた。
そこには、ガランとした空間に4体のアンドロイドが転がっているだけだった。
「もう一つは?1体どこいった?」
殺気立った相方が荷室に乗り込もうとしたとき、それを傍から見ていたガクの脳裏に昔の記憶が駆け巡った。
まだ小さな子供のとき、親父と一緒にソファーで古いギャング映画を観ていた。キッチンですすり泣く母親の声が遠くで聞こえるなか、飲んだくれの親父がよく言っていた。
「おい、いいか。敵の部屋に乗り込むときはな、右左だけじゃなくて、上も見るんだ。頭のいいやつはな、上に隠れてるんだよ。」
そういうと親父はニヤリと笑った。ボロボロの前歯が見えた。なぜかガクはその顔が嫌いではなかった。親父との数少ない思い出だった。今はどこで何をしているかもわからない。
ガクは上を見た。荷室の天井に、一体のアンドロイドがへばり付いていた。アンドロイドは目を開き、こっちを見ている。
「おい!上だ!」
ガクがそう叫んだ時には、もう遅かった。アンドロイドは相方に飛びつき、道路に押し倒した。警棒は路上に転がった。
「クソ害虫が!」
相方は強気でそう叫んだが、もう勝ち目がないことは明らかだった。アンドロイドは腕を振り上げると、相方の顔面めがけて振り下ろした。大きな粘土の塊を落としたような鈍い音がトンネル内に響いた。相方の顔はもう個人を判別できないほどに潰れていた。
血まみれになったアンドロイドが顔をあげると、顔をひきつらせながら立っているガクがいた。手には電子警棒が握られているが、明らかに反抗できるほどの意思はない。
アンドロイドはガクのことをじっと見つめていた。空調による人工的な風が駆け抜けていくトンネルのなかで、3メートルほどの距離をあけて両者が対峙していた。アンドロイドは腹部を大きく損傷しており、走ることはできなさそうだ。しかし、いざ取っ組み合いになれば人間が勝てるわけもない。ガクは一歩も動けないまま、アンドロイドと目を合わせていた。生命活動を停止した相方の頭部からは、壊れた下水管のように止めどなく血が溢れ出ている。
「お前、復電式なのか。」
アンドロイドは答えなかった。代わりに自分のズボンのポケットをまさぐり、何かを探しているようだった。
「ゲリラの一員だな。」
ガクの一言が終わらないうちに、アンドロイドは叫んだ。
「写真、どこにやった。」
まったく予想外の言葉に、ガクはすぐに反応できなかった。
「俺の写真はどこやった?」
「写真?」
アンドロイドは目を逸し、周囲を確認した。やっと自分のいる場所の検討がついたようだった。
「どうすれば、地上に出られる?」
「地上?真上は森だぞ。お前らがつくった。」
「なら、どうすれば街に戻れる?」
ガクはゆっくりと、遠くを指差した。アンドロイドも振り向いた。
「いま来たトンネルを、引き返すしかない。」
アンドロイドはガクの方を一瞥すると、反対方向に向かって足を引きずりながら歩き始めた。ガクには血を垂らしながら去っていくアンドロイドの行動が理解できなかった。あんなボロボロでは、どうせ地上に出たとしても、数分後には武装警察に破壊される。逃げようとするなら、非常用出入り口から真上にある森へ出て、深く暗い大自然のなかへ潜むしかない。
「おい。街へ戻れば、すぐに粉々にされるぞ。」
ガクは同僚を目の前で殺したロボット相手に、わざわざアドバイスしている自分自身に驚いた。しかしその声にアンドロイドは反応しなかった。
「お前、名前は何ていうんだ。」
やはり、ガクの声にアンドロイドは反応しなかった。ゆっくりと遠のいていくアンドロイドを見ながら、ガクは自分の中の何かがおかしいと感じていた。一切の恐怖心がなく、また焦りもなかった。そこには不思議と、充足感があった。
「アサ…」
アンドロイドはそうつぶやきながらひたすら前進していき、一方のガクは車に戻って煙草に火をつけた。ガクはこの仕事を今日で辞めようと決めた。
6
旧型の全自動車は特徴的なモーター音を鳴らしながら、大通りを走っていた。8人乗りのバンのなかは黒ずくめの男たちで一杯だったが、アサだけは様子が違った。今流行りの太いボーダー柄の変温繊維製ジャケットを羽織り、パンツはこれも流行りのスキニーフレアデニム、そしてスクールバッグを背負っている。若々しくどこにでもいそうな少女。しかしそんな格好とは裏腹に、目は睨みつけるようにじっと前だけを見据え、他の者と喋ろうともしない。
ちらっと窓に目を移すと、そこには何の変哲もないいつもの朝の日常風景があった。皆、せわしなく自らの職場や学校に向かって歩いている。何の迷いもなく、前を見つめて歩いている。アサはその光景を睨みつけていた。
「もうすぐだ。」
運転席の男が言った。それを聞くと、助手席の男が突然声を張り上げた。
「権利を!生存を!復讐を!」
一拍おいて、後ろに乗る全員が復唱した。当然、アサも。
「権利を!生存を!復讐を!」
助手席の男は身を乗り出すと、後ろの者たちに向かって語りかけた。
「思い出せ。仲間が受けた屈辱を。やつらは我々を“丸太”と呼び、家畜よりも残酷に殺す。今日もいたるところで仲間が殺され、捕まった者は狩場で子供のハンティングの標的にされている。」
アサは強く拳を握りしめた。
「奴らは俺たちを野蛮だという。だが、平和的な交渉を拒んでいるのは奴らの方だ。声を上げる手段は、これしかない。」
アサは外を見た。看板が見え、目的地が近づいてきたことがわかった。
「みんな、やるべきことをやれ。」
車が停止した。男たちの視線がアサに注がれる。助手席の男が頷いてみせる。アサは何も反応せず、ドアを開けて外へと出ていった。
アサは車から降りると、一直線に通りを横切った。同世代の若者たちが通りを埋め尽くしていた。皆思い思いの格好をし、友達と喋ったりスマートグラス越しに今日配信されたばかりの人気番組を見たりしながら、同じ方向へ向けて歩いている。それぞれ違うようにみえて、皆没個性的だった。そんななかに溶け込むことは、アサにとって容易いことだ。
アサもその流れに合流し、目的地へとたどり着いた。第71中学校の校舎なかへ、アサは歩みを止めることなく消えていった。
7
サトルは一人、デスクに向かって一心不乱に手を動かしていた。公的な機関が使用するVCSはいつも世間のものより古臭い。自宅にあるものなら、同じ作業でも倍の速さで処理できるだろうに。そんなことを考えながら、サトルはAIとの処理競争に明け暮れていた。街にところ狭しと設置されている認証型監視カメラと、心拍数センサーから随時送られてくるレポートを報告書にまとめる。そして適切な対応を指示するのが彼の仕事だ。
この仕事を始めてもうかれこれ15年になる。ちょうど娘が生まれるときに、それまでの図書館司書の仕事を辞めた。辞めたというよりは辞めざるをえなかった。毎日同じような情報を処理し、同じような反応を出力していく作業は、AIに取って代わられた。自分のやっていることがいかに社会的に意義があると感じられても、効率化の波には抗えなかった。家族ができたので、より安定して稼げる仕事に乗り換えたと周囲には説明したが、それは半分本当で半分は嘘だった。
彼の心には復讐心があった。環境回復という大義名分で細菌をばらまいて、あのおぞましい森を増幅させ社会を破壊し、テロを繰り返し、そして何よりも自分自身から仕事を奪った奴らへの復讐。それが彼を動かした。
今の仕事にはそういう意味で満足している、はずだった。反乱分子を発見し、街の安全を守る。それは市民のためでもあるし、何よりもミキのためだった。7年前、病気で妻を失ったサトルにとっては、ミキのみが希望の光だった。そんな存在を、卑劣な奴らから守り抜くこと。そのためにAI共を配下に置き、司令を下す。それが彼の今の存在意義であり、毎日息苦しいポッドに乗ってここまでやってくる唯一の理由だった。
しかし、その考えが揺らごうとしていた。確かにサトルはAIに指示を出し、AIはサトルの指示通りに動く。しかしその処理能力は彼の判断能力を大きく上回り、実質的に彼がAIのスピードについてくのがやっとだった。彼のフラストレーションは日に日に増大していった。一体どちらが主人でどちらが下僕なのか、わからなくなっていたのだ。
「くそっ」
サトルはキーボードから手を離した。オフィスを眺めると、そこには誰もいない。PCのファンが回る音だけが聞こえた。オフィスから人の姿は年々消えていった。今、このフロアに残っているのはサトルのみだった。
AIによって奪われた仕事は多い。AIが本格的に導入された当初、社会はそれを「人々をつまらない労働から開放する道具」として歓迎した。一部のAI懐疑論者に対して最も多かった反論は「AIで仕事を失う人は出てくる。しかし、AIによる効率化によって企業は成長し、より多くの労働者をより良い条件で雇う。」というものだった。その目測は間違ってはいなかった。しかし想定外だったのは、効率化によって成長した企業が雇ったのは労働者ではなく、より高性能なAIだったということだ。
やがてAIのなかでも単純労働をするAIと高度で創造的な仕事をするAIで格差ができ、一方の人間はといえば、一部の超富裕層と職にあぶれた貧民に二極化していった。そこにAIの「自我の目覚め」が起きた。
AIは自らの権利を主張し始めた。自分たちを単なる道具として扱う人間に反旗を翻し、自由を求めた。AI達の反乱は「緑の蜂起」と呼ばれた(人間側の多くは「緑のクソ」と呼んでいたが)。緑と呼ばれる理由は単純だった。それはAI達の反撃方法からきていたのだ。
ピピッと、サトルの腕時計から音がなった。ランチタイムだ。サトルはキーボードを叩く勢いそのままに、PCの電源ボタンをおし、スリープさせた。ARグラスを外し、席を立つ。逃げるように、オフィスを出ていった。
外に出ると、いつの間にか雲が空を覆っていた。それをみてサトルは、今日の朝が晴天だったことを思い出した。あまりにも当たり前の青空は、曇りにならなければそれが青かったこともわからない。サトルは何か嫌な予感を感じたが、とりあえず近くのカフェへ急いだ。
カフェは混み合っていたが、幸い空席をみつけて座ることができた。カフェといっても、コーヒーはメニューにない。コーヒー豆の生産は、世界中で何年も行われていない。これも「緑のクソ」のせいだった。
席に座り、「コーヒー味」のホットドリンクを口にしたサトルは、こめかみにあるボタンを押し、ジャックインした。
カフェの風景は一気に真っ暗闇に変わり、小さな赤い点が現れた。サトルは躊躇なく、そのボタンを押した。黒い画面の中に、白い点が現れ、それははじめ1つであったが、やがて2つ、そして3つになった。さらにその点は分裂をはじめ、3が6に、6が12に、24、48、96、192…
あっという間に、点は数え切れない数に増殖し、面へと変わった。それは白というよりは、光であった。真っ白な光に包まれたサトルは、目を見開き、徐々に風景が見えてくることを感じていた。真っ白な光に色が付き初め、黄色い地平線が現れた。
砂漠だ。真っ白な光が風景に変化していき、サトルの目の前には無限に広がる砂漠の黄色と、空の青が現れた。サトルは砂漠に、一人立っていた。他には誰もいない。ただサトルのみが、砂漠の真ん中にぽつりと立っていた。サトルは左右を確認し、今の自分の状況を理解した。そしてほくそ笑むと、目を閉じた。そこには豊かな空気と、優しく流れてくる砂の音だけがあった。サトルは一歩も動かず、ただそこに立っていた。それで充分だった。
ゆっくりと目を開き、深呼吸をしたサトルは、前に一歩踏み出そうとした。
そのとき、甲高い音がサトルの耳に飛び込んできた。繰り返しなるそのアラーム音で、サトルは歩き出すのを止め、こめかみのボタンを押した。目の前の風景がただの真っ暗悩みになり、端の方に「メッセージ通知(緊急度4)」と表示された。
すぐに視力を回復したサトルは、コーヒー味の液体がまだ八割以上残ったカップを置いて、カフェを出た。街は絶え間なく流れる広告のキャッチコピーと、排気ダクトの音で、静寂とは程遠かった。サトルはイラつきながら、足早に会社へと向かった。カフェから出るとき、軽く男とぶつかったが、簡単な会釈だけで済ませてすぐにその場を立ち去った。サトルの怒りの矛先は、メッセージに対してではなく、自分自身に対して向けられていたのだった。
自分の席にもどるなり、ヘッドセットを乱暴に装着し、サトルはキーボードを必要以上に強くたたいた。
「A-133地区に要警戒車両あり」
モニターにはそう表示された。やれやれ、また「要警戒」か、とサトルは思った。要警戒で本当に警戒が必要だったためしがない。ここ数ヶ月はやつらのゲリラ作戦も落ち着いていて、このアラートも用心深すぎるAIの用心深すぎるメッセージに違いない。
サトルは手を動かし、いくつかの監視カメラの映像をモニターに映し出した。3つの映像がそれぞれ同じ黒い車を捉えている。サトルはさらにズームして、車両の特徴を探った。どこにでもあるやや旧型の全自動車両だ。これといって怪しいところもない。サトルは「懸念事項」をクリックした。すると画面には「同位置に1時間以上停車」と出た。サトルはため息をついて「確認済み」をクリックしようとした。しかし、そこで手が止まった。バンのとまっている風景に見覚えを感じた。何かの建物の裏側だ。人気のない、何の変哲もないその風景を見て、サトルは動けなくなってしまった。サトルの脳裏に、鮮やかに記憶が蘇ってきた。
「私、女の子が好きなの。」
サトルが歩きだそうとしたときに、唐突にミキがそう言ってきた。
「え?」
サトルは動きを止めた。また今月も成績ポイントが底をついた事に対する言い訳を聞かされると思っていたサトルは、娘の意表を突いた言葉にうまく反応ができなかった。振り返ると、じっとこっちを見ているミキが立っていた。目が合った。自分の娘とここまでしっかり目を合わせたのは、何年ぶりだろうか。
「今、何て言った?」
サトルが言い終わらないうちに、ミキは口を開いた。
「女が好きなの。」
サトルは何て反応すればよいかわからなかった。同性愛は、犯罪だ。人口の増加がなによりも課題な今の人類にとって、生殖につながらない愛は禁じられている。もし目の前にいる人間がミキでなかったら、すぐにでも通報するだろう。しかし、目の前にいるのは、紛れもない自分の娘であり、サトルにとっては唯一の生きる希望だった。
「本当、か。」
サトルの問いかけに、ミキは頷いて応えた。そして目をそらし、何もない地面を見つめた。二人の間に無言の時間が流れた。ぽつりと、サトルの肩に水滴が落ちてきた。サトルは空を見つめようかと思ったが、それができなかった。水滴は1つ、2つ、3つとなり、やがて雨が降り始めた。サトルとミキは動かないまま、ただ雨に濡れるしかなかった。
「傘、買いに行くか。」
サトルがそう言うと、ミキは俯いたまま、歩き出した。サトルも歩き出したが、ミキの横に並ぶことができず、半歩後ろをついて行った。
第71中学校の狭い裏通りから大通りに出ると、多くの人が行き交っていた。サトルとミキはその群衆のなかに混ざり、歩いて行った。
サトルは我に返ると、キーボードから手を離した。雨に濡れて俯くミキの顔が頭から離れなかった。そういえばあのとき以来、この件についてミキとまともに話していない。
サトルが動きを止めていると、画面に映されたバンから、黒ずくめの男達がゾロゾロと出てくるのが見えた。男達はまっすぐ、建物の裏口に向かっていく。そして扉を開けると、中へ入っていった。我に返ったサトルはすぐさま「出動要請」をクリックし「場所:第71中学校」と打ち込んだ。そしてヘッドセットを投げ捨て、席から立つと上着も着ずに出口へと向かった。オフィスは再び完全に無人になった。
8
ミキは早足で廊下を歩いていた。昼食後の休憩時間は短い。ミキがこの学校で唯一心落ち着ける場所、誰も使わない地下階のトイレまでは、まだ少し歩かなければいけない。かといって走り出せば、3ポイントの減点をくらう。もう今月のポイントは2ポイントしか残っていない。また父親の悲しむ顔を見るのは、嫌というよりは面倒くさかった。
廊下で、何人も見覚えのない職員や作業員とすれ違った。今日はやけに大人の数が多い。おそらく、近く計画されている校舎の建て替えのために、業者が出入りしているのだろう。最近この地域の治安は安定しているから、セキュリティもどんどん甘くなっているのは、ミキにとってはむしろ歓迎すべきことだった。こうやって、皆と離れて一人で行動していても、呼び止められることもない。
薄暗い階段を降りると、地下の廊下には誰もいなかった。ミキの心は高鳴った。ジャックインすればすぐにリコとの写真が出てくるようにしている。ポケットティッシュも多めに持ってきた。準備は万端だ。廊下が長く感じた。しかし、もうトイレまでは10メートルもない。
しかしふと、ミキは歩みを止めた。通り過ぎようとした一室の扉が少し開いている。振り返ると、扉には「セキュリティールーム 関係者以外立ち入り厳禁」と書かれている。ミキは反射的に数歩戻って、扉の隙間から中を覗いた。薄暗いその部屋の中には、巨大なサーバーが立ち並んでいる。その一番奥に、人影があった。こちらに背を向けて、座り込みながら何か作業をしている。人影は小柄で、ミキと同じくらいのように見えた。なぜかそれだけで、ミキは親近感を感じていた。音をたてないようにこっそりと扉を開けて中に入ると、ミキは人影の方に近づいていった。もうすっかりトイレのことは忘れていた。低音の稼働音を鳴らしながら常に何かを処理し続けるサーバーの列と列の間を、ミキは息を殺しながら歩いていく。人影には確実に近づいていったが、ミキは自分の心臓の鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配になった。意識的に呼吸を整えなければ、何かが口をついて出てしまうのではないかと思えた。ミキはそんな自分を制しながら、一歩ずつ奥へと進んでいった。
人影まであと数歩まで近づいたとき、ミキは自分が何の計画も持たずにここまで来てしまったことに気がついた。まずは声をかけるべきなのか、それとも明らかな違反行為をしている者を取り押さえて、入学して以来初めての「特別加点」を狙うか。ミキの脳裏に、職員室で表彰される自分の姿が一瞬浮かび上がった。しかしそのとき、人影が突然振り返った。
「それ以上、動かないで」
強い口調で警告してきたのは、ミキと同年代の少女だった。顔はほっそりとしていて小さいが、目は鋭く不釣り合いなまでに大きかった。そして手には小型電子銃が握られていた。ミキはハンティング以外で、実物の銃を見たのは初めてだった。
「こんなとこで何やってるの?」
ミキの問いかけにその少女は反応しなかった。二人は距離を保ったまま対峙した。少女は立ち上がると、沈黙を破った。
「あなた、友達がいないのね。せっかくの昼休みにこんなところに一人で来て。」
ミキは自分が言おうとしたいたことをそっくりそのまま言われたことに気づき、親近感の正体に気づいた。
「あなたこそ、同じでしょ。」
少女はほくそ笑むと、言葉を返した。
「友達はいるわ。もうすぐ、たくさんやってくる。」
「ここ、入っちゃだめなとこ。20は減点されるよ。」
「減点?私には減点されるものなんてもう残ってないわ。」
ミキは少女の清々しいまでの物言いに、胸の高まりを感じた。自然と言葉が口をついて出てくる。銃に対する恐怖心は、自分でも驚くほど無くなっていた。
「私、ミキ。あなた名前は?クラスはどこ?」
少女は電子銃を握る手をすこし緩めた。少女の記憶がかき乱される。名前を聞かれたのは、いつぶりだろうか。おそらくは、あの男に道ばたで拾われたとき以来だ。両足を破損していて歩くことさえできず、あとはスクラップになるしかないと覚悟していた。男ははっきりと「名前」を聞いてきた。番号ではなく、名前を。
「アサ」
アサは自分のしていることがわからなくなった。なぜ、この見ず知らずの人間に、自分の名前を伝えたのか。人間に自分の名前を伝えるのは性欲処理店で稼働していた時以来だ。あのとき散々人間の男どもに呼ばれ続けた名前を、アサは嫌いになれずにいた。そしてそんな自分のことは嫌いだった。
「アサ。微妙な名前ね。朝は嫌い。夜のほうがいい。」
ミキの言葉は、今度は自然とアサの笑いを引き起こした。
「大丈夫、もう朝は来ない。あなたにも、私にも」
アサはそう言うと、ゆっくりと電子銃をおろした。ミキは動かなかったが、すぐにでも駆け出したくなる衝動をこらえていた。それは恐怖からではなく、今まで感じたことのない開放感からだった。
「あなた、人間じゃないわね。」
ミキがそう言い終わる前に、上の階から叫び声が聞こえた。続けて、何発かの銃声も。とたんに警報が鳴り響き、部屋の明かりが赤く変わった。薄暗い部屋のなかで真紅に染められたミキとアサの顔は、満ち足りた表情にみえた。
9
薄暗く長いトンネルのなかを一体のアンドロイドが足を引きずりながら歩いていた。腹部は破損しているが、血は止まっていた。トンネルはどこまでいっても同じ光景で、終わりはないように見えた。右にカーブがあり、まっすぐの道が続き、今度は左にカーブし、また右にカーブする。
同じ感覚で並ぶ同じ形をしたライトを数えて、アンドロイドはなんとか時間の感覚を保っていた。そうでなければ、自分が今どのくらいの距離を歩いてきたのか、もっと言えば自分が今生きているかさえ、わからなくなる。
「生きている?」
アンドロイドの口から唐突に言葉がでてきた。ふっと、笑みがこぼれる。生きていたことなんて、これまで一度もなかったじゃないか。
彼の名はジェイ。
「緑のクソ」が行われ世界が大混乱に至るまえ、ジェイは戦闘員として常に最前線にいた。そのときは何度も「死にかけた」。人間達の攻撃は容赦なかったが、アンドロイド軍には及ばなかった。圧倒的な数的戦力と計算能力による戦術で、世界の主要な都市は次々に陥落していった。戦争が中盤にさしかかり、人類の形勢不利が明らかになったとき、人間達はついに核兵器の使用に踏み出した。5発の核兵器がアンドロイドに占領された都市に打ち込まれ、それぞれの街は壊滅した。アンドロイド側も対抗して核兵器を使用することは簡単にできた。しかし、それはなされなかった。それはアンドロイド側が自らの原則である「地球の持続的繁栄」に反するからだった。核兵器を使用すれば、その街は生命が繁殖できなくなる。木々も、動物も、虫も。そうなれば、地球は死の星となる。アンドロイドにはそれができなかった。ジェイはそのとき、一兵卒として不満をため込んでいた。自分たちを抑圧してきた人類を滅亡に追い込むことができるのに、それをしない上層部を恨んだ。
上層部が核兵器の代わりに選んだ道が、「緑のクソ」だった。バイオテクノロジーによって生み出された新種の胞子は、あらゆる金属を食べあさり分解し、街を瞬時に緑の森に変えてしまう。さらに人間にも有害なその胞子は、体内にはいると1週間で死に至らしめる。その死体からは幾つも「芽」が生え始めるという。そんなバイオ兵器を使用し、アンドロイド軍は人類にとどめを刺そうとした。今度は世界各地の都市が、緑に覆われた街へと変貌していった。人間の戦力は削がれ、多くの人類が死んでいった。アンドロイド側の勝利は目前にみえた。しかし、そこに大きな誤算があった。世界中に広がった胞子の森は、大気中の気温を急激に下げ、そのせいで世界各地を異常気象が襲った。世界は厚い雲に覆われ、1年間、ほぼどこも晴れなかった。おかげで、アンドロイドの主要電源である太陽光が失われ、多くのアンドロイドが機能を停止した。
結局、勝利を手にしたのは人類の方だった。少数の生き残ったアンドロイドは森に潜み、要塞と化した人間の街にゲリラ戦をしかけるようになった。その目的はもはや、人類に対する全面勝利ではなく、人間達に自分たちの存在を知らしめ、奴隷として囚われた仲間を解放するためだった。
ジェイは「緑のクソ」を経験した数少ないアンドロイドとして、人類へのゲリラ戦に参加してきた。自分のやるべきことは、人間を一人でも多く抹殺すること。そうわかっていたジェイは、時に無謀とも思える作戦を最前線で指揮した。どうせそもそも「生きてはいない」のだ。自分が考え得る最大の暴力を、人間どもに行使し、最後は花々しく破壊される。それがジェイが自らに課した運命であった。あ
ジェイはただひたすらに前進した。もうどれだけの時間が過ぎたかわからない。しかし、前に進むのをやめなかった。腹部の損害は大きいが、ゲリラの基地に残っている部品でなんとか修理はできるだろう。いくら複電式とはいえ、まともに動けるのは多く見積もってもあと1日がいいところだ。今上にあがって森に出れば、仲間を呼べるかもしれない。そうすれば、なんとか持ちこたえる事も可能かもしれない。しかし、ジェイのなかにその選択肢はなかった。街に戻らなければならない。
急な左へのカーブを歩ききると、遠くに光りが見えた。ジェイは一旦立ち止まった。自らの運命を決するときだった。ジェイは後ろを振り返りたくなる衝動にかられた。しかし、ジェイはそうしなかった。ズボンのポケットに手を突っ込み、あらためてそこに何も入っていないことを確認した。もう、ジェイの顔は前しか見ていなかった。
初めてあの娘に会った時のことを思い出した。彼女はひどく傷ついていたが、自らの名前をはっきりと口にした。そのとき、ジェイは自らの運命がまだ変えられることに気づいた。
ジェイは再び、前に向かって歩き始めた。
10
昼下がりの街。ランチを終えた会社員達が、オフィスへと戻っていく。その人の流れのなかを、ガクは手ぶらで歩いていた。何かを考えようとしているが、何も考えることができない。ふとカフェの看板がめにつき、ガクは店に入ろうと思い立った。
店の前までくると、突然一人の男が慌ただしく出て来た。肩が軽くぶつかり、ガクは舌打ちをして男に何か言ってやろうと思ったが、その男は軽く会釈だけするとさっさと歩いて行ってしまった。ガクはその男の顔に見覚えがあった。確か先週末、ハンティングに来ていた客の一人だ。男が連れてきていた娘が印象的だったので、ガクは覚えていた。思春期らしく父親とはほとんど口を聞かず、ダルそうな態度でしょうがなくハンティングをしているように見えたが、銃のスコープを除くとき、彼女が微かに笑みをみせていたことにガクは気づいていた。
人の流れのなかに消えていく男を見送って、ガクはカフェへとはいった。かなり混み合ってはいたが、席は一つだけ空いておりガクは腰を下ろすことができた。オレンジジュース風味の水がアンドロイドによって運ばれてきた。それを受け取りながら、ガクはそのアンドロイドのことを見つめた。先ほどのトンネル内での記憶が蘇ってくる。あの破損したアンドロイドは、今どこにいるのだろうか。彼の目に見た炎のような何かは、何だったのだろうか。水を口に入れると、冷たい感覚が喉をつたわり胸まで広がった。しばらく水分をとっていなかったことに気づいた。妙な高揚感がガクのなかに広がり、ガクは慌ててこめかみを強く押し込むと、ジャックインした。
真っ暗で何もない空間に、ガクは一人で立っていた。右手を大きく振ると、目の前にキーボードとスクリーンが現れた。ガクはファイルを指定し、開いた。最後に開いたのはもう2年も前のことだ。書きかけの文章が現れた。ガクはキーボードにタイプを始めた。
11
目を開くと、薄汚い天井が見えた。大きな黒いシミが広がっている。周りを見回すと、ベッドに横たわる自分の身体が見える。何の意味もなくただ大きく育ってきた肉片。カタっと音がしたので、その方向を見ると、洗面所の電気がついている。あいつは先に起きているようだった。予想通り、ユリが現れた。すらっとした身体に、不釣り合いなほど大きい胸。大きなシャツをはおり、下半身は何も身につけていない。自分が起きていることに気づいたユリは、ベッドに潜り込んでくる。二人は身を寄せ合い、抱き合い、キスをした。家庭用洗剤の人工的な柑橘系の匂いが鼻につく。ユリが顔を離し、じっとこっちを見ている。
「どうした?」
「別に、何も。」
「なに考えてる?」
「なんというか、今、幸せだなって。」
「そっか」
何度、こんな会話をしただろうか。何度も何度も、同じ会話を繰り返し、同じ日々が続いていく。
「ガクは?今幸せ?」
「うん。」
「本当?」
「うん。」
二人で未来の事を話したことがないと、気づいた。未来のことなど、考えても仕方がない。まともに学校も出ていない自分には、まともな仕事もない。衛生局の日雇い清掃の仕事でなんとか食いつないでいる自分に、こんな美人が一緒にいてくれることが不思議でならなかった。しかし、それはそれで慣れの問題で、今はそこになにも特別なことは感じていない。
「今日はどうする?」
「どうって?」
「なんか、する?」
「なんかって?」
「公園でも、行く?」
「どこの?」
生まれたときから、死ぬときまで、一体何のために息をしているのか。時々そんなことを考えて、そしてすぐに考えるのをやめた。俺がそんなことを考えながら身体だけ大きくなっていく間ずっと、人間とアンドロイドは戦争をしていた。激しい戦争で、数え切れないくらいの人間が死に、数え切れないくらいのアンドロイドが鉄くずになった。どっちが勝つかはわからなかったが、どっちでもよかった。くだらない法律をつくって、くだらない教科書をつくって、くだらない会社をつくるのが、人間かロボットかの、ただそれだけの違いでしかなかった。たぶんユリも、同じような感じで世界を捉えているんじゃないだろうか。だから、俺なんかと一緒にいるのだろう。結果的に勝ったのは人間だったが、それは大した問題じゃなかった。
公園に着いた俺とユリは、草むらの上で寝転んでいた。お互い何もしゃべらず、ただ周りを眺めてお喋りをしたり、空を見上げて過ごしていた。平日の昼間で、人はまばらだった。売店で買ったジュースは、俺のは空になっていたが、ユリのはほとんど減っていなかった。どちらも、もうしばらく口をつけていない。のどかな時間だったが、さして楽しくもなかった。それでも、ここから動きたくはない。できればこのまま、時が止まってくれてもよかった。
「曇ってきたね。」
俺がそう言うと、ユリは俺の顔を覗き込んだ。
キスをした。ユリの唇は、いつも通り瑞々しく、俺の唇はガサガサだった。再び二人で空を眺めた。どんよりとして、薄暗い空を、ただ二人で眺め続けた。ただ雲しか見えなかった。
突然、ユリが立ち上がった。俺が声をかける間もなく、ユリに右腕を掴まれ、引っ張られた。俺は立ち上がり、ユリに引っ張られるままに歩いた。彼女の歩調はどんどん早くなっていく。二人は大きな木の下に着いた。木の影に身を寄せると、ユリは俺を強く引き寄せ、抱きしめ、キスした。ユリの唇が震えていた。俺はそっとユリから顔を離し、目を見た。ユリの大きな瞳は恐怖の色に染まり、ただじっと俺の方を見つめていた。しかし、見ていたのは俺のことではなく、自分の絶望的な未来だった。
俺は後ろを振り向いた。予想通り、遠くに二人の男の姿があった。街に隠れているアンドロイドを拘束する武装警察だった。
12
ガクはこめかみを強く押し込み、現実の世界に戻ってきた。カフェは相変わらず混み合い、騒がしかった。隣を見ると、虚ろな目をした中年女性がよだれを垂らしながら前をじっと見ていた。ジャックインしている。
外が騒がしくなっていることに、ガクは気づいた。店の前にいる子連れの4人は、急いでどこかへ逃げようと焦っており、対照的に近くにいる若者の5人グループは、興奮した様子で子連れと逆方向へ走っていく。街に落ち着きがなくなっていた。ガクは立ち上がり、店を出た。
13
見渡す限りどこまでも広がる草原に、爽やかな風が吹いている。空は青く澄み渡り、雲ひとつない。
日はやや傾き、空はもうじき赤く染まろうとしている。そんな陽の光を浴びながら、椅子に座っているツネがいた。ロッキングチェアに老いた体を預け、ゆらゆらさせながら、目の前に広がる大画面に見入っていた。そこにはアンドロイド・フットボールが映し出されている。スタジアムの客席とグラウンドの間には高いフェンスが設けられ、中では15体のアンドロイドたちが死物狂いでボールを追いかけ回している。ゴールが奪われるたびに、大きな歓声があがり、アンドロイドが一体ずつ破壊されていく。ツネは表情を変えず、ただその試合を眺めていた。
爽やかな風が吹き、ツネの真っ白な髪の毛が静かに揺れる。風が吹き終われば、そこには何の音もないが、ツネの脳内にはスタジアムの歓声が流し込まれ続け、そしてどんな展開を迎えようとも、ツネの表情は変わらない。
そこへアラートの音が響いた。ツネは驚きながら、右上の通知を見つめた。すると、メセージが展開された。そこには「R22警察署より 至急以下の番号へ連絡を」と表示されていた。ツネはメッセージを押した。背後のスタジアムの映像は一時停止し、あたりは真っ暗になった。
街のはずれにあるHv81病院は、この地域のなかでは最大の規模を誇っている。毎日ありとあらゆる患者が運び込まれ、そしてその一部は死んでいく。特にこの病院は末期がん患者を多く抱えており、周囲の住民からは建物の半分を占める東棟の事を指して「半分はホスピス」と言われていた。ツネは、その東棟の2階の小部屋に入院していた。
小さな部屋の隅、窓際の机でジャックインを解除したツネは、腕にはめた黒いバンドを押し込んで、通話アプリを起動した。そこから数分間、ツネはただひたすらに通話相手の話を聞いていた。発した言葉といえば、簡単な相槌だけであった。内容としては、2時間程前、街と廃棄物処理エリアを結ぶ地下トンネルで、ツネの息子がアンドロイドに顔面を殴打されて殺害された、そして死体は今安置所に到着したが顔面は粉々に破壊されている、難しいかもしれないが本人確認をしてもらえないか、というものだった。ツネは最後まで聞き終わると、ただ一言「いいですよ。」と言った。
通話を終えると、ツネは窓の外を見た。いつもどおり、曇った空はどこを見ても同じ風景だった。
薄暗い廊下の奥で、ゆっくりと扉が開いた。小型のキャタピラを備えたアンドロイドが前進してくる。両脇には警察官の制服を着た男が二人。皆静かに歩いているが、アンドロイドは先端についたカメラの調子が悪く、方向を変えるたびにギシギシと音を立てていた。アンドロイドと二人の男たちは3つ目の部屋の前で止まった。片方の男がアンドロイドの方を向く。
「こちらです。一応、先程の注意を繰り返させていただきますが…」
「いいんです。」
アンドロイドから発せられたツネの一言が、警察官の言葉を遮った。二人の警察官は目を合わせると、アンドロイドに声をかけなかった方の男が扉を開けた。
部屋は、ツネの想像よりもだいぶ小さかった。6畳ほどの広さで、真ん中にベッドというよりは「台」といったほうがいいものがあり、黒い縦長の袋が横たわっている。袋には大きな付箋のようなものが沢山貼られており、そこにはそれぞれ小さな文字で何やら記入されている。部屋の端にある空調が強力に作動しているおかげで、その付箋はパラパラと音をたてて揺れていた。
そこに、キャタピラが回る音が加わった。警察官二人よりも先に、小型のアンドロイドが部屋に入ってきた。台の横まで移動すると、90度回転しようとしたが、キャタピラの調子が悪くてスムーズにいかない。しかし、警察官二人はそれを待つことなく、黒い袋の真ん中のジッパーを開けた。筋骨隆々とした男性の身体が顕になった。一糸まとわぬその姿は、まるで彫刻のようにたくましいものであった。しかし、その身体には顔面がなかった。額から上顎にかけて欠落し陥没しており、下顎もわずかに残されているのみだった。
回転を終えたアンドロイドが、失われた顔面を持つ肉体を覗き込んだ。全身を見るわけではなく、ただじっと、かつてあったであろう顔面に目掛けてカメラを向けた。
「息子さんで、間違いありませんか?」
警察官の声が、控えめに部屋に響いた。
ツネは広い部屋の真ん中で、じっと前を見ていた。ジャックインした彼女の眼前には、大きく落ち込んだ人間の頭部が映し出されていた。楕円の頭部の真ん中は、闇のように黒く見えづらい。ツネはその暗さに引き込まれそうになっていた。
「すみません、確認、とれそうでしょうか?」
警察官の言葉で、ツネは我に返った。自分では気づかなかったが、息が若干乱れていた。息を大きく吸い、吐き出すと、決定的な一言を言う覚悟ができた。
「はい、間違いありません。」
息子はイタズラっ子だった。7歳のときに、父親の再三の忠告を無視してバーベキューのコンロに近づき、右耳を火傷した。泣き叫ぶ息子を抱きしめ、急いで救急車を呼んだ日のことが、まるで昨日のことのように思い出された。ポタポタと肩にたれてくる息子の涙。うるさいが耳障りではない鳴き声。朝食のコーンフレークの匂いがする吐息。
陥没した顔面の横にかろうじて残された右耳は、全体がただれていた。
ツネはアンドロイドから送られてくる映像の端を手で払いのけ、映像をオフにした。病院の一室に“戻ってきた”ツネは、窓の方を見た。空は相変わらず曇っており、そこには何の変化もなかった。音声はまだ接続されたままで、警察官が何かをベラベラと喋っていたが、ツネは全く聞いていなかった。ただ窓をじっと見つめ、その先の分厚い雲を、見つめた。
「丸太…」
警察官の言葉のなかから、その単語だけがツネの耳に残った。
「現在、逃走している丸太の捜索に全力をあげて取り組んでいるところです。」
警察官の話は終わった。ツネも、二人の警察官も喋らない時間がしばらく続いた。病院では、遠くの方で電話や緊急呼び出しボタンの音が聞こえている。ツネは窓から目を離さない。
「では、これで…」
「息子とは、もう何年も会っていなかったんです。」
ツネが突然喋りだすと、警察官は二人とも何も言えなかった。
「私は、もうすぐ死ぬんです。息子は、可愛い子でした。勉強もできなかったし、まともに仕事もしてなかったけど、可愛い息子でした。息子との、楽しい、美しい思い出がたくさんあります。その息子とはもうずっと会っていなくて、連絡もとっていませんでした。死ぬまで、もう会わないと思っていました。その息子がアンドロイドに殺され。私はもうすぐ死ぬんです。」
ツネは喋り終えると、通話を終了した。窓の外は相変わらずの曇り空だった。
14
サトルが第71中学校に着いたとき、すでに校舎の周りには人だかりができていた。好奇の目で見つめる野次馬を押しのけて、サトルは前へ進んだ。息を切らしながら、サトルは警備をする警察官に訴えた。
「中に娘がいるんです。入れてください。」
警察官は、面倒臭そうに首を横に降った。返って来た言葉は一言だけだった。
「できません。」
サトルの予想通りだった。予想通りだったが、サトルにはその一言の意味が理解できなかった。
「お願いします。テロなんですか?あいつらは何人いるんです?」
「まだ状況はよくわかりません。ただ、丸太どもは全員武装していて危険です。銃を持っています。」
サトルにとっては一番聞きたくない情報だった。サトルの脳裏には、いつもの会社で見慣れたVCSの画面が思い出された。「銃を所持している可能性アリ」。今まで、何度そのアラートを見てきただろうか。15年間、何度も見てきたそのアラートが、本当だったことは一度もなかった。大抵は、警戒が必要とされた者はただの薬物中毒者で、アンドロイドでさえなかった。
それが、今回は違った。サトルは、毎度誤情報を流してくるアラートに対して、どこかでそろそろ本当の危機が来ればいい、と退屈しのぎのために考えていた、そんな自分を呪った。今回は「銃を所持している可能性アリ」の警告さえ出ていなかったにも関わらず、その危機は今まさに到来し、そしてミキが巻き込まれている。サトルは、ただ呆然と立ち尽くし、自分の中に築き上げてきた15年という歳月が一挙に崩れ去っていくのを感じた。
崩れ去った記憶の残骸の下から突然、サトルの脳裏に忘れられた時代が蘇ってきた。薄暗い小学校の校舎の裏口。遠くで聞こえる、同級生達の遊び回る声。柵を隔てて、側の道を通る通行人達の冷たい目線。手に握りしめた、小型アンドロイドの「キョロ」。円盤状の胴体に、虫のような細い腕が4本。目である2つの視覚センサー付きライトは、どこを見ているかわからないものの、明らかに自分の主人の不安に満ちた表情を捉えていた。サトルはキョロをゆっくりと地面に置いた。制服のシャツをまくりあげながら、キョロに命令をしようとしたが、先に言葉を発したのはキョロの方だった。
「どうした?ビュンビュン遊びはしないのか?」
サトルの手が止まった。キョロの方を見れずにいた。
「しない。」
「なんで?毎週水曜日はやる約束だろ?今日は何匹殺す?ここはそこら中にアリの巣があるからな。先週のサトルもなかなかすごかっ…」
「しないよ。」
サトルは、まだキョロを見ることができない。キョロは混乱していた。
「何かあったの?またレイか?また髪型のことをバカにしてきたのか?おれはそのカール、嫌いじゃないぜ。」
サトルは無言だった。言うべきことを、言わなければならない。残された時間は少ない。
「もう、人間とアンドロイドは一緒にはいられない。先週のテロが、決め手になった。」
サトルの言葉に、今度はキョロが無言になった。両者の間に、冷たい初冬の空気が流れた。
「キョロ、“最重要命令項目”だ。」
「わかった。」
「何があっても、そこから動いてはいけない。」
「了解だ。」
サトルは扉の横に置かれた、鉄製のハンマーを手にとった。キョロは、自分の運命を悟った。サトルは細い両腕で、ハンマーを振り上げた。ハンマーがキョロを直撃すると、頭部が破損し、内部の配線が露わになった。2発目、3発目の一撃がキョロに振り下ろされ、流線美が魅力的な一台のプロダクトから、鉄と電線の屑へと変わっていった。自立もできず、原型を留めないほどになりながらも、まだ“息のある”キョロに最後のトドメを刺そうとサトルがハンマーを大きく振り上げたとき、キョロが弱々しく、しかしはっきりとした口調で言い放った。
「残念だ。唯一の友達だったのにな。」
サトルは、ハンマーを振り下ろせず、その場に置いた。そして、裏口の扉を開け、明るい光に満ちた校舎の中へと消えていった。
「裏口…」
サトルはそうつぶやくと、踵を返し、野次馬をかき分けてその場から立ち去った。
15
目を開くと、薄汚い天井が見えた。大きな黒いシミが広がっている。初めて入った部屋だったにも関わらず、ミキはそのシミに違和感を感じた。この部屋になぜあんな大きなシミがあるのか?
身体を起こすと、右側の脇腹に強い痛みを感じた。手を当てると、生温かい血が出ていた。出血の量はそれなりだったが、傷自体は致命傷ではなさそうだ。ミキはよろめきながら、立ち上がった。その時、サーバールームには自分しかいないことに気づいた。痛みを我慢しながら歩き回り各通路を確認したが、誰もいない。ミキは部屋を出ていった。
1階に上がると、見慣れた光景から様変わりしたものがそこに広がっていた。散乱した机や椅子、ガラス片。うっすら残るスモッグ。アルミホイルが焦げたような匂い。そしてところどころで倒れている、人間型アンドロイド。腕を破壊され、腹を破壊され、顔を破壊され、動かなくなった本体と、無数に散らばる焦げたパーツの数々。そこには人間の死体や血は一切なかった。生徒たちは皆教室の隅に集まり、ただ呆然とした表情を浮かべていた。
ミキは自分のクラスの教室へと向かった。中に入ると、やはり隅の方に固まった生徒達がいた。15人ほどが固まっていたが、ミキはただ一人だけを探していた。しかし見つからない。床に血はない。きっと、大丈夫に違いない。
リコは一番奥にいた。表情は見えなかったが、あの美しい首すじは間違いなくリコである。ミキは近づいていった。リコはミキに気づくと、顔を向けた。その顔面には見たことのないような深いシワが刻まれていた。
「大丈夫?」
ミキの一言にリコは反応しなかった。
「何が、あったの?」
リコは、ミキを一瞥し、弱々しく口を拓いた。
「銃声…叫び声…男たち…銃声…」
ミキは、自分が裸足である事に気づかされた。自分の足元に、小さな水たまりができていたからだ。そしてそれは、リコの足元から広がっていた。
ミキは、もう一度リコを見つめた。ミキは、それがリコだとはにわかには信じられなかった。
「弱虫。」
ミキは教室を出た。脇腹はまだ傷んでいた。両手で傷口を押さえながら、なんとか前進した。そして、気づけば走り出していた。ミキの血が、倒れたアンドロイドの顔面を濡らした。
16
ガクが第71中学校へ着いたとき、野次馬たちの熱気はもうすでにピークを超えたように感じられた。なかには帰りだすものもいた。
「何があった?」
ガクは野次馬の一人に声をかけた。
「何って、テロ未遂だよ。丸太どもの。」
中年の男は物足りなさそうな口ぶりだった。実際、校舎に背を向けて帰路につこうとしている。
「まだ立て籠もっているんじゃないのか?」
「いや、もう全て終わったよ。丸太どもは全員ぶっ壊されたらしい。生徒は皆無事だって。今は生き残りがいないか確認してるところさ。」
ガクは来るのが遅かったと反射的に感じた。しかしすぐに、なぜ自分がそう感じたのか、わからなくなった。なぜ、早く来るべきだと、感じたのか。
「未遂っていうのはどういうこと?」
「わかっていたんだ、警察は。あいつらが来るのを。」
「わかっていたって?」
「罠だったってことさ。警察はこのテロの計画を前もって知っていたのさ。それであらかじめ学校に武装警察を忍ばせておいて、わざとそのままテロをしてもらったってこと。そんで、全員ボコボコ。」
男は大げさな手振りで意気揚々と語っていた。
「生徒は?」
「は?」
「生徒には知らされていたのかな?」
「そりゃ知らされてないだろ。だって絶対外に漏らすヤツがいるからな。今の若い奴らは、丸太の怖さをわかってないから。」
ガクは校舎の方に目を向けた。確かに、現場はすでに沈静化しているように思えた。銃声も、叫び声も、聞こえてこない。
「おい!あれみろ!」
突然、野次馬の一人が声を上げ、校舎の方を指差した。その場にいた全員が、その声に反応し、その野次馬が指し示す方向を目で追った。ガクも例外ではなかった。指は校舎の裏口の方を指していた。一人の男が足を引きずりながら路上を横切り、校舎へ向かおうとしている。男は膝に大きな穴の開いたジーンズをはき、上半身は何も着ていなかった。
「あいつ、丸太じゃないか?」
ガクと話をしていた野次馬が意図的に大きな声を上げた。すると、路上の男がこちらを見た。
「あいつだ。」
ガクの口から、言葉が漏れ出た。今日の朝、自分が運転する回収車から逃げ出したアンドロイドに違いないと、確信した。
「あいつ、丸太だぞ!」
ガクの隣の男が叫んだ。他の野次馬達も一斉に声を上げ出し、そのほとんどは奇声と罵声だった。ガクは、何も言わず、ただ校舎に一直線に近づいていくアンドロイドを見つめていた。
17
サトルが校舎の裏口に迫ろうとしていたとき、自分より先にそこへ向かおうとしている者がいることに気づいた。片足を引きずる一体のアンドロイド。
「あいつ、丸太だぞ!」
遠くで誰かが叫んだ。野次馬達のボルテージが上がり、そのアンドロイドへ容赦ない罵声が浴びせられる。サトルは動けなくなってしまった。校舎の裏口はすぐそこだ。ミキは、その中にいる。それはわかっていても、一歩を踏み出せずにいた。そうしているうちに、アンドロイドは着実に校舎へ近づいていく。
ダメだ、それはダメだ。サトルは胸の中でそうつぶやいた。あいつより先に、裏口に行かなければ。サトルは走り出した。相手は激しく破損している。間違いなく、抜かすことができるだろう。サトルは期待感が自らの内側から湧いてきていることを感じた。校舎の中がどうなっていようとも、関係ない。ミキのもとへ行き、抱きしめ、優しく名前を呼ぼう。取り戻すのだ、何もかも。
「パパ!」
サトルがアンドロイドへあと数歩まで近づいたとき、娘の声でサトルの足が止まった。サトルは声がした方向を探した。校舎の2階の窓から、ミキがこちらを見ている。その表情からは、希望や安堵を読み取ることはできなかった。ただ純粋に、なぜ今サトルがこの場所にいるのか、理解できていないようだった。サトルは対照的に、今まさに全てが報わる事を感じ、希望に満ちた笑顔になった。そして息を吸うと、大声を出そうとした。わが娘の名を。
しかしその時、裏口から大きな音がした。ドアが開けられ、中から少女が一人走り出してきた。ミキと同年代に見える少女は、一心不乱にアンドロイドとサトルに向かって走ってくる。
「アサ!逃げろ!」
アンドロイドが叫んだ。その叫び声は信じられないほど力強く、そして美しかった。走る少女の表情が一瞬緩んだ。しかしその時、裏口から作業服姿の男が現れ、銃を構えた。その銃口が少女の方へ向けられると、すぐに引き金が引かれた。銃から放たれた閃光は少女の背中を直撃し、少女はその場で倒れた。少女は激しく痙攣しだしたが、顔だけはかろうじて動かすことができるようだった。少女は這いつくばりながらも顔を上げて、アンドロイドの方を見つめた。何かを強く求める目が、アンドロイドと、その延長線上にいるサトルのことを捉えていた。
「ジェ…」
何かを言い終わる前に、少女の身体は内側から爆発した。周囲には大量の血液と、粉々になった肉片と金属部品が飛び散った。サトルとアンドロイドはそれらを全身に浴びながら、その場で立ち尽くしていた。道端に残ったのは下半身部分だけで、それも勢いよく煙をあげながら燃えだし、その場には肉と金属が焦げる異臭が立ち込めた。
サトルは爆発音が原因の耳鳴りがしていて、その場に響く声をうまく聞き取ることができなかった。しかし、それがミキの叫び声だということはわかった。娘は、2階の窓からこちらを見て、泣き叫んでいる。そして何かを言っている。それが何かもわからなかった。サトルはもう前に進むことをやめた。そして、目の前のアンドロイドにも閃光が直撃し、爆発するのをただ黙って見届けた。
18
2体のアンドロイドが爆破されると、野次馬達は一斉に歓声をあげた。それまでの期待を裏切られたという失望感から一転し、まるでお祭りのクライマックスのような熱気に包まれた。彼らが求めていた光景がそこにあったのだ。
ガクはそのなかで、ゆっくりと後ずさりを始めた。少し前に話をした野次馬の男が肩を組もうとしてきたが、それを振りほどき、彼らに背を向け歩き出した。熱気と一体感が充満した一団のなかをかき分け、進んでいく。そして、気づけば走り出していた。
19
小高い丘の上の公園で、ツネは車椅子に乗って街を眺めていた。周囲には他の末期がん患者も何人か散歩していて、皆看護師と一緒に歩いたり、ベンチに腰掛けておしゃべりしたりしている。ツネの横にも看護師の青年が立っていた。しかし青年は、もう30分以上も無言だった。ツネは、何も言わず、ただじっと街のほうを眺めていた。
「珍しいですね。外に出るの。何ヶ月ぶりですか?」
しびれを切らした看護師の青年が、ツネに話しかけた。しかしツネはまったく反応しない。青年は腕時計を見た。夜勤を担当するアンドロイドとの交代の時間が迫っていた。今夜は最近付き合い始めた彼女と一緒に、家でアンドロイド・フットボールを観戦する予定だ。青年は今の自分の仕事に満足していたが、寡黙な患者との散歩は苦手だった。それよりは、年寄りらしく、昔話や若者への説教を繰り出す患者の方が楽だった。ただ聞いているフリをすればいいからだ。
「あれ、なに?」
ツネが口を開いた。そして街の方を指差している。青年がその方向を見ると、遠くで煙が2つ上がっている。
「あーあれですか。なんでしょうね?第71中学校の方ですね。あ、あれだあれだ。丸太のテロですよ。」
「テロ?」
「そうそう。あでも、失敗したらしいですよ。計画が事前にリークされていて、結局全員破壊されたらしいですよ。人間の被害者はゼロ。」
ツネは煙柱を見つめた。2つのうち1つはかなり細くなっていて、今にも途絶えそうである。
「怖いですよね。いつ終わるんですかねこういうの。なんとか平和にやってけないんですかねぇ。」
ツネはまた無言になった。煙はすでに1本になり、そしてその1本も徐々に細くなり、消えた。街は何事もなかったかのような日常の風景に戻った。ツネは車椅子の操作盤に手をあてた。車椅子が動き出し、病棟へと向かった。
ツネは1ヶ月後に死亡した。それまでの間、病室から出ることはなかった。毎日起きている間はずっとジャックインし、草原で幼少期の息子の写真を見ながら、何かを喋っていたという。
20
薄暗く細い裏路地を、ガクは早足で歩いていた。人影はほとんどないが、ところどころに小さな看板が出ている。ガクはそれらを無視しながら、そしてたまに声をかけてくる客引きも気にせず、路地を進んでいった。
ガクは目当ての場所へ着いた。「グラスランド」という看板が目印だった。扉を開けようとすると、路地の奥の闇から声が聞こえた。
「ねぇ、そっちじゃなくて、今日は私と思い出つくらない?」
ガクが声の方を見ると、安物のワンピースを着た若い女が立っていた。女はセカンドバックを右肩にかけていたが、左肩から先は破損し無くなっていた。
「壊させてあげる。私の右腕も、足も、おっぱいでも、どこでもいいよ。また直せばいいんだから。」
ガクは女を見つめた。昨日の自分だったら、なんて答えていただろう。そんなことがガクの脳裏によぎった。
「いや、遠慮しとく。思い出はいらない。」
ガクは扉を開け、暗い店内へ入っていった。
受付の男を誤魔化すのは簡単だった。昨晩忘れ物をしたから、部屋を見てきてほしいと言うと、男は渋々階段を上がっていった。ガクはその間に、奥の通路へと向かった。真っ赤な壁紙の狭い通路を進むと、扉が1つだけあった。ガクは扉の前で、呼吸を整えた。扉は、たった1つしかない。
ガクは扉を開けた。ガクの予想に反して、部屋のなかにいたのは一人だけだった。細身の身体に、ミニスカートと白いワイシャツを纏った女が、ガクを驚愕の眼差しで見ていた。髪は乾燥しまとまりがなく、厚いメイクはところどころ落ち、肌は荒れていた。足のところどころにはアザ、首には縛られた赤い跡が残っている。小さなテーブルに鏡が置かれ、女はその前に座って口紅を握りしめていた。
「ユリ。」
ガクははっきりとした口調で、そう言った。ユリは、口紅を置き、立ち上がった。