書籍化記念番外編~Sideマーキュリー・ヘッセ
僕がルドルフと出会ったのは、貴族学園に通っていた昔に遡るんだ。
確か12才の頃だったから、5年生か6年生だったはずだ。
あいつはよくモテていた。
悔しがるのもバカバカしいほど、いつも女生徒に追いかけられていた。
そんなある日の午後、いつものように図書館で本を読んでいたら、ルドルフが駆け込んできたんだ。
「すまん、匿ってくれないか。追われているんだ」
一瞬、どんな罪を犯したんだ? と思ったが、あまりにも切羽詰まっていたので、僕はうっかり頷いた。
「あの奥に本棚があるだろう? その後ろに隙間があるからそこに入れよ。誰か来たら知らないふりをしてやるから」
ルドルフは美しい黒髪を乱しながら、本棚の後ろに駆け込んだ。
それとほぼ同時に図書室のドアが、勢いよく開いた。
「ちょっとあなた! ここにルドルフ様がいらしたでしょう?」
「なんだよ。ここは図書室だぜ? 少しは静かにしろよ」
「煩いわね! 来たの? 来てないの?」
「来ていない」
「噓では無いわね? もし噓をついたらお父様に言いつけるわ。よろしくって?」
よく見ると、その女生徒は筆頭侯爵家の長女で、僕たちより1学年上の子だった。
「噓じゃないさ」
「ふんっ!」
鼻息荒く出て行くその女と、その後ろをついて行く数人の取り巻きの女たち。
おそらく女性というものに幻滅をした最初の日だ。
足音が遠ざかり、図書室に再び静寂が流れた。
「もういいよ」
僕の声に姿を現したルドルフは、本当に泣きそうな顔をしていた。
「どうしたんだよ。お前が手でも出したのか?」
ルドルフは憤慨したように言い返した。
「冗談じゃないよ。手を出されそうになったんだ。僕はまだ12才だぜ? 冗談じゃない! 初めての相手は自分で選びたいだけだよ」
ルドルフは顔を顰めて吐き捨てるように言ったが、手は小刻みに震えていた。
「悪かったよ……」
僕は途方に暮れたけれど、ルドルフに少し親近感が湧いた。
それから何度も図書室に逃げ込むルドルフを匿い、僕たちは仲良くなっていった。
あれほどモテるのだから、さぞ話術にも長けた男なのだろうと思っていたが、彼は誰にでも話しかけるような男ではなかった。
何人かの女生徒とは交際もしていたけれど、節度をもった付き合いだったね。
そのことにはとても好感を持ったけれど、彼の唯一の夢を聞いたときには啞然としたよ。
「僕の夢は真実の愛に出会うことさ」
こいつは愛というものを表面的なイメージでしか考えていない。
子供が童話の挿絵のお姫様に憧れるようなものだろうね。
「真実の愛っていうのはね、側にいられるだけで胸がいっぱいになるんだ。触れたら心が震えるほどの喜びを得るんだよ。そんな女性と生涯を共にするのが僕の夢だ」
「そうか……。頑張れよ」
その時の僕には、それ以外の言葉は思い浮かばなかった。
それにしても変わった奴だ。
侯爵家の嫡男で、しかもひとりっ子なのだから、健康にさえ気を付けていれば頑張らなくても将来は安泰だ。
それなのに彼は容姿を磨き、服装に気を配る。
「真実の愛はどこに落ちているか分からないからね」
今思えば、この時に止めてやれば良かったのかもしれない。
でも僕にはできなかったんだ。
彼が愛に飢えているのを、ずっと感じていたから。
まあ、僕の理解の範疇を大幅に超えていたから、何も言えなかったんだろうね。
「真実の愛の素晴らしさって、誰に教わったの?」
「家庭教師だよ?」
ああ、そいつのせいか。
そんなことより方程式か外国語のひとつでもマスターさせろよ……とは思ったが、口には出さなかった。
だってルドルフは本当に良い奴だったから。
そこそこ頑張って勉強するし、そこそこ正義感は持っているし、そこそこ他者を思いやる度量もある。
ただ、そこに愛が絡むとダメだった。
なんとも勿体ない奴だったよ。
そう考えると家庭教師って、人格の形成に大きく関わるよね。
アランはラッキーだ。
まあ、それでも僕らは友情を育み、楽しく学生生活を満喫していたよ。
卒業する前、進路に迷っている僕に、侯爵家の司書として働かないかと言ってくれた。
確かにあの頃から僕は、本に囲まれてさえいれば幸せだったんだ。
兄が家督を継げば、三男の僕は平民として家を出なくてはいけないだろ?
生活をするためには働かなくてはいけないし、働くためには読書時間を削るしかない。
少なくない絶望を感じていた僕にとって、これ以上ない就職先だった。
初めて入ったワンド侯爵家の図書室は、一言で言うと悲惨な状況だった。
どこの本屋が置いて行ったのか、絶対に誰も読まないような専門書が床に積み上がり、おまけに表紙にはコップを載せた痕まである始末さ。
本棚はあるのに、なぜかそこに置かれているのは食べ残しがこびりついた菓子箱。
僕はこの時、生まれて初めて心の底から怒りを感じたよ。
ニコニコと後ろで見ていたルドルフに向き直って言ってやった。
「本を粗末にすることは、人類の英知に対する冒涜だ」
顔を真っ赤にして怒る僕に、彼は涼しい顔で言ったんだ。
「だから君に来てもらったんだ。よろしく頼むよ」
それからの僕は、帰宅するのも惜しんで図書室を改善した。
だから未だに、となりの事務室には僕のベッドがあるんだよ。
本ばかり読んできた貧弱な体の僕が、今のような体を手に入れたのも、本の整理という重労働のお陰だ。
コップの痕がついた本は、もちろん自分で修繕した。
複雑な修繕のために、休暇を使って製本職人に教えを乞う事さえ厭わなかった。
いや、むしろ楽しかった。
しかもルドルフは僕に全幅の信頼を置いてくれた。
図書室の予算は青天井で、半年もしないうちにワンド侯爵邸のそれは、国でも5本の指に入ると言われるほど充実した。
「やあ! 君のお陰で社交界でも鼻が高いよ」
読んでないなら意味ないぞ? とは思ったが、雇い主だから言わなかった。
この図書室は僕の天国だったから、絶対に失いたくなかったんだよ。
この部屋さえあれば僕はずっと笑顔で生きていけるし、死ぬなら地震で倒壊した書架で潰されたいとさえ思っていた。
そんなある日のこと、ルドルフがひとりの女性を連れて図書室を訪れたんだ。
「マーキュリー、こちらはリリベルだ。僕の恋人だよ。やっと夢が叶ったんだ」
ルドルフは本当に嬉しそうな顔をしていた。
貴族令嬢ではないと聞いたとき、一抹の不安は過ったが、もしかしたら『真実の愛』とやらを見つけたのかもって思った。
幼いころからずっと愛を求めていたルドルフが、本当に満たされたような顔をしていたんだよ? 僕には諫めることなどできなかった。
「美しい方だ。ルドルフをよろしくお願いします」
そう言ってお辞儀をした僕に、リリベル嬢は弾けるような笑顔を見せた。
「あたしはリリベルというの。ルドのお友達よね? 今日からルドと一緒にここに住むの。あたしは読み書きができないから、ここに来ることは少ないけれど、よろしくね?」
僕は啞然としたが、ルドルフの人生はルドルフのものだ。
それに、両親を亡くしたばかりの彼には、癒しが必要だと考えることにした。
それから数年は平和だったよ。
リリベル嬢も、想像していたよりは酷くなかった。
勉強はしなかったけど、マナーやダンスはすぐに覚えたし、なによりルドルフがリリベルを愛していたから。
理想の女性は、本の中にしかいないって信じていた僕は、二人の幸せを羨むような感情は湧かなかった。
でもね、君に出会ったんだ。
初めてルドルフの気持ちを理解したよ。
君さえいてくれたら僕は幸せだ。
でも、僕の場合はそれだけじゃない。
君と切磋琢磨して、二人で人生を分かち合いたい。
君の幸せを僕の幸せと感じ、君の希望を僕の希望と重ねたい。
僕は君を誰よりも尊敬している。
どうか僕と結婚してほしい。
君の人生に僕という栞を挟んでほしいんだ。
愛している。
自分でも信じられないくらい、君に溺れているんだよ、イリーナ。
僕は真実の愛がどういうものか、今でもわからない。
でもね、イリーナさえ幸せなら僕も幸せだということは分かっているんだ。
抱きしめてもいい?
ありがとう、イリーナ。
大好きだよ。




